はじめに
「わたしのもろもろの泉はあなたのうちにある」。Stéphane Hostettler牧師は、Église Évangélique Libre d'Onex(EELO)でのメッセージを、歌う者も踊る者もこう叫ぶという詩篇87篇と、イエスがサマリヤの女に語られた約束で始めます。「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわきあがるであろう」。
説教者は、この箇所に一つの流れがあることに気づきます。水、そして泉、そして永遠の命にまで至る湧き上がりです。その目的は励ますことです。もしイエスがあなたの人生に触れてくださったことがあるなら、この流れはあなたの内側で始まっています。そのあとに何があったとしても、今どこにいたとしても、あなたの内には開かれた泉があります。
メッセージが進むなかで、彼は二種類の井戸を区別し、荒野で神がハガルの目を開かれたことを思い起こさせ、そして心に「刻みたい」確信を強く訴えます。それは、泉は今もそこにある、ということです。
メッセージの流れ
1. イエスが与える水は泉になる
- イエスのたとえ話には、いつも動きがあります。いちばん小さなたとえは、地に蒔かれた種がひとりでに、まず苗、次に穂、そして穂の中にいっぱいの実を結ぶというものです。
- 「イエスが私たちの人生に置かれるものはすべて、広がっていくように召されています」。
- イエスがあなたに一杯の水を与えてくださったとき、その水はイエスのいのちでした。イエスがそのいのちをあなたの内に置かれたとき、その一杯の水は泉となり、広がっていくものとなりました。
- 先ほどLaurent Joly牧師が語られたように、すべては主から来ます。この泉を与えてくださるのも、この水を与えてくださるのも、イエスです。
2. 泉は簡単には止められない
- ジュネーブに来て間もないころ、Stéphane Hostettler牧師は子どもたちを連れて、ダルダニー近くのアロンドン川のほとりに行きました。みんなでダムを作ろうとしました。石をひとつ置き、また置き、砂や泥も使いました。
- うまくいったと思っても、決して成功しません。水は右から、左から、あるいは上を越えて流れていきます。
- 「できないと言っているのではありません」と彼は断りますが、泉をせき止めるのはとても難しく、人の人生における神の流れをせき止めるのは、なおさら難しいのです。
3. 二種類の井戸:泉と貯水槽
- ヤコブの井戸のそばで、イエスはサマリヤの女に水を飲ませてほしいと頼まれます。ヨハネ4章には「井戸」という言葉が何度も出てきますが、ギリシャ語では二つの異なる言葉が使われています。日本語ではそれが見えません。
- 6節では、ヤコブの井戸は、泉から水が湧き出る井戸を意味する言葉で表されています。掘れば水が湧き出るのです。
- もう一つの井戸は貯水槽で、水をためる井戸です。説教者は、丘の上にそびえる壮麗な城塞都市レ・ボー・ド・プロヴァンスを例に挙げます。そこには泉がなく、雨で満ちることを願って貯水槽を掘らなければなりませんでした。水があるときもあれば、水が尽きるときもあります。
- サマリヤの女がイエスに答えるとき(「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも、大きい人なのですか。ヤコブはこの井戸をわたしたちに与え」)、彼女は貯水槽を意味する言葉を使っています。彼女にとってそれは、水の入った穴にすぎず、「それ以上でも以下でもありません」。
- この同じ言葉は、黙示録では、いのちのない場所、底なしの淵を指しています。
- 一方、イエスは泉について語られます。この言葉も黙示録に出てきます。小羊は「いのちの水の泉へ導いて下さる」(黙示録7:17)、また「かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう」(黙示録21:6)とあります。
- 何度も水をくみに戻る貯水槽には、水があるときもあれば、ないときもあります。新鮮なときもあれば、「どろどろに濁っている」ときもあります。イエスが与える水があれば、もうそこに戻る必要はありません。
4. 神は命の水の井戸に目を開かせてくださる
- ハガルは住んでいた家を追い出され、荒野で息子イシマエルとともに死ぬのだと思いました。聖書は、神が彼女の目を開かれると、彼女は井戸を見たと記しています(創世記21:19)。七十人訳聖書は、それを生きた水の井戸と呼んでいます。
- これが説教者の祈りです。神が私たちの目を開き、私たちの心にいのちの井戸を据えてくださったことに気づかせてくださるように。これがイエスの救いのみわざです。
- イエスには、この泉を完全な成長へと導く力があります。いつもそれが目に見えるとは限りませんが、それがイエスの願いです。イエスは私たちに、成長の希望を持っておられます。
- 彼はユーモアを交えてこう付け加えます。十年か十五年ぶりに会う信者に「変わらないね」と言うのは、必ずしも褒め言葉ではありません。
- イエスがこの泉を開かれたのは、あなたが「私は本当にかわいています。あなたが私の人生にどうしても必要です」と言った日でした。私たちがすることはすべて、この泉とつながっていなければなりません。
5. いつも同じ貯水槽に戻ることに疲れて
- サマリヤの女は、何が問題なのかを理解しました。「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここに汲みにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。
- 行間を読むと、彼女の人生はいつも同じことの繰り返しでした。五人の夫がいて、今一緒にいる人は夫ではありません。
- 説教者は、ある女性に額を見てほしいと言われたことを語ります。「ここに『私を殴って』と書いてありますか」。彼女はいつも暴力的な男性に出会ってしまうのでした。極端な例だと彼は認めますが、いつも同じところに戻ってくるように感じることは、誰にでもあります。
- 突破口を得るには、私たちをもっと先へ連れて行ってくれるこの泉が必要です。
- 「口が大きくても小さくても関係ありません。大切なのは一口の量ではなく、水です」。もしその水を受け取ったなら、あなたは泉を受け取ったのです。
6. 泉は今もそこにある
- 泉の勢いが弱くなっているかもしれません。人生の状況や、私たちの選択、困難が、湧き上がるのを妨げることがあります。外から見れば、もう見えなくなっているかもしれません。
- 数年前、教会の集まりで聞いたチューリッヒ出身の講師が、霊の父から言われた言葉を紹介していました。「霊的なことを理解したいなら、その前に自然のことを理解しなければならない」。
- ところで、泉は動きません。「足の生えた泉なんて見たことがありません」。何トンもの岩の下に埋もれているかもしれません。「サレーヴ山が上に落ちてきたのかもしれません」。それでも泉はそこにあります。神があなたの人生に置かれたものは、「どこかへ逃げてしまったわけではありません」。
- かつての熱意や情熱がもう感じられず、自分をほとんど実をつけない木のようだと思っているかもしれません。しかし、この泉をあなたの内に置かれた方は、それを見ておられ、今もそこにあると語りかけておられます。
- ほかの人のほうが、泉がはっきり見えるように思えるかもしれません。流れは弱く、季節も違うのかもしれません。枯れ葉や枝、山から流れてきた岩や泥がふさいだのかもしれません。自分のせいではない衝撃でふさがれたこともあるでしょう。それでも泉はそこにあります。
7. 泉のために祈る時間
- 説教者はまず、イエスにまだ個人的に出会ったことのない人たちに、こう祈るよう招きます。「主よ、同じところをぐるぐる回って、いつも同じことに戻ってくる、いつもこの貯水槽に戻ってくることにうんざりしました。私はかわいています。あなたが私の人生に必要です」。手を挙げるのは説教者に向けた行為ではなく、主に向けた信仰の行為です。
- 次に、すでに新しく生まれる経験をしたものの、泉の「詰まりを取り除いて」もらい、湧き上がる勢いや情熱、内側で燃えるものを取り戻す必要がある人たちに語りかけます。
- 「主は何も責めません。非難もしません。ただこう言われます。『わたしのところに来なさい』。それだけです」。
- 彼は最後に、祈りのために勇気を出して前に進み出るよう、皆に呼びかけます。「私たちは家族です。私が真っ先に前に出ます」。
覚えておきたいこと
- イエスが与える水は、イエスのいのちです。あなたの内に置かれると、湧き上がり、成長していく泉になります。
- 水が尽きることもある貯水槽と、イエスが心に開いてくださる生きた水の泉には、違いがあります。
- 大切なのは一口の量ではなく、水です。
- 泉は、勢いを弱められたり、隠されたり、ふさがれたりすることがあっても、動くことはありません。神があなたの内に置かれたものは、今もそこにあります。
- 主は責めず、非難もされません。ただ「わたしのところに来なさい」と言われます。
自分への問いかけ
- イエスに「私はかわいています。あなたが必要です」と言った日を覚えていますか。その日、イエスはあなたの内に何を開かれましたか。
- イエスだけが与えられるものを期待して、今もどの「貯水槽」に水をくみに戻っていますか。
- いつも同じところに戻っているように感じますか。どの分野で突破口が必要ですか。
- どんな枯れ葉や枝、岩が、今あなたの人生の泉をふさいでいますか。
- 聖霊がもう一度この泉に吹いてくださるように、誰かに一緒に祈ってほしいと頼む勇気がありますか。
引用された聖書箇所
よくある質問
ヤコブの井戸と、サマリヤの女が語る貯水槽は何が違いますか。
Stéphane Hostettler牧師は、ヨハネ4章がギリシャ語で「井戸」に二つの言葉を使っていることを指摘しています。6節では、ヤコブの井戸は泉から水が湧き出る井戸です。サマリヤの女が語るときには、水が尽きることもある貯水槽、つまり水ためを意味する言葉を使っています。一方、イエスは、永遠の命に至る水が湧き上がる泉について語られます。
「泉は今もそこにある」とはどういう意味ですか。
イエスがあなたの人生に触れてくださったなら、イエスはあなたの内に泉を開かれました。状況や選択、試練によって湧き上がる勢いが弱まり、外からは見えなくなることもあります。しかし、泉は動きません。岩の下に埋もれているかもしれませんが、泉は今もそこにあります。
自分の人生の泉がふさがっているように思えるときは、どうすればよいですか。
説教者は、泉をふさぐものを、枯れ葉や枝、山から落ちてきた岩にたとえています。そして、祈りのうちにイエスのもとに来るよう、ただ招いています。聖霊がもう一度この泉に吹いてくださるようにと祈るのです。主は責めず、非難もされず、ただ「わたしのところに来なさい」と言われると、彼は強調しています。