はじめに
バーミンガムのリバーサイド教会は、士師記を取り上げる新しいシリーズを始めました。タイトルは「Stuck: unbreakable cycle」(断ち切れない悪循環にはまり込んで)です。メッセージを語るリバーサイド教会の主任牧師ティム・チルバーズは、最初にこう断ります。このシリーズのテーマは、教会の中ではつい小声で口にされがちな言葉だというのです。「さあ、言いますよ。罪です。はい、言いました。」
この言葉が反応を呼ぶことを、牧師は知っています。居心地の悪さを感じる人もいれば、悲しくなる人も、怒りを覚える人もいます。少し離れた席に座っている人こそ、これを聞くべきだと、もう思い浮かべている人もいるでしょう。それでも牧師は、このシリーズが一人ひとりにとっても教会にとっても、いのちに満ちた大切な時になり得ると確信しています。
出発点は士師記2章です。この章は、私たちがよく知っている悪循環を描いています。この書の要約は一文で言えます。自分たちだけに任されると、うまくいかない。しかし神は、私たちを自分たちだけに任せたままにはなさらない、ということです。
メッセージの流れ
1. 避けて通りたいテーマ
- 牧師は10年ほど前に行ったコンサートの話をします。期待はほとんどなく、妻と友人二人と一緒でした。妻とその友人は、バンドのテイク・ザットのファンでした。意外にも、その夜はとても素晴らしいものでした。罪についてのこのシリーズも同じようになってほしいと牧師は願っています。大して期待されていないのに、心に良いものを残すのです。
- 牧師は、ためらう気持ちを理解しています。「罪と戦うという名目で、多くの害がもたらされてきました。」このテーマが行き過ぎた形や不健全な形で強調され、教会で傷ついた人もいます。
- それでも語る必要があります。まず、聖書がキリスト教信仰の中心でこのことを語っているからです。イエスの誕生のとき、御使いは言いました。「その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」(マタイによる福音書1:21)。またパウロはこう書いています。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」(ローマ人への手紙6:23)
- 「イエスは、ただ優しい人であるために来られたのではありません。救い主なのです。」その名は「神は救う」という意味です。
2. 罪を正しく見ると、人に優しくなれる
- 牧師は映画『ジェリー・マグワイア』の有名なセリフ「君がいて、僕は完全になる」に触れます。私たちはこの重荷を、夫婦の間だけでなく、さまざまな場面で他の人に負わせがちです。
- 誰かに失望させられた日、あるいは自分が誰かを失望させた日、私たちはそれをどう扱えばよいか分かりません。結局、自己嫌悪を抱えて帰るか、他人に対する独善を抱えて帰るかのどちらかになります。
- 聖書の罪の見方がないと、他の人や自分自身に対する期待が高すぎたり低すぎたりします。「罪を正しく見ることは、自分自身にも他の人にも、より優しく接する助けになります。」
- 悪いニュースが積み重なる世の中で、聖書が罪と呼ぶものを理解することは、出来事を正確に読み取る助けにもなります。それは気を滅入らせるどころか、いのちを余すところなく受け入れることへと導きます。
- 士師記は子ども向けの書ではありません。殺人、陰謀、誘惑、権力、虐待、裏切りが出てきます。聖書の中で、罪を最も鮮やかに描き出した書です。牧師は、数週間を通して、一人ひとりが自分自身についてより健全で軽やかな見方を持ち、神についてより健全で大きな見方を持つようになることを願っています。
3. 罪とは何か
- 私たちはすぐに、罪を悪さのリストや、保守派でも進歩派でも、あるグループが別のグループに貼りつける恐ろしいことのリストに縮めてしまいます。「罪とは、あそこにいるあの人たちのことだ。」
- 聖書は、罪を、私たちが救われると同時に癒やされる必要があるものとして語っています。他の人を叩くために使う、小さな過ちのリストではありません。
- 牧師は、作家フランシス・スパッフォードによる定義を、最も優れていると紹介します。罪とは、人間が物事を台無しにしてしまう性向のことです。英語の原文には下品な言葉が使われていて、牧師はそれを画面に映しますが、教会で声に出すことは控えます。その言葉が、罪がもたらす悲しみと荒廃を伝えているので、そのまま残しているのです。「虐待を受けた人や、配偶者に裏切られたと知った人に、それはちょっと『散らかっている』程度のことなのかと聞いてみてください。」
- 「性向」という言葉は、人間が傾きやすい方向を指します。自分たちだけに任されると、それが私たちの自然な姿であり、「どうしても取り除けないウイルスのよう」です。
- そこから士師記の要約が出てきます。自分たちだけに任されると、うまくいかない。「しかし神は、私たちを自分たちだけに任せたままにはなさいません。あなたをあなただけに任せたままにもなさいません。」
4. 主を知らない世代
- 士師記は、ヨシュア記が終わるところから始まります。民は約束の地を受け継ぎましたが、働きは終わっていません。1章では、他の国々とその神々が完全には追い払われていません。
- 2章には、痛ましい言葉があります。「そしてその時代の者もまたことごとくその先祖たちのもとにあつめられた。その後ほかの時代が起ったが、これは主を知らず、また主がイスラエルのために行われたわざをも知らなかった。イスラエルの人々は主の前に悪を行い、もろもろのバアルに仕え」(士師記2:10-11)
- 牧師は順序に注目します。ある世代は神の驚くべき備えを見ながら、それを伝えるのを忘れました。次の世代は、神が何をなさるかを覚えておらず、何より神を知りません。神との関係がないので、悪を行うのです。
- 牧師は、礼拝の初めにチームのリーダーの一人が分かち合った言葉を取り上げます。私たちの中での神のみわざは、私たちの砕かれた姿から始まるのではなく、私たちが愛されているという事実から始まる、というものです。それを知らなければ、とても不健全な場所にたどり着いてしまうことがあります。
- だからリバーサイド教会は、次の世代に向けた働きに大きな場所を割いています。信仰を伝えることは、脇役の活動ではなく、教会であることの中心にあります。
5. 悪循環の四つの段階
- 妥協。民は信仰と神の道を捨て、神の目に悪とされることを行います。
- 結果。主は彼らを敵の手に渡します。牧師は、聖書では神のさばきが、行動というよりも許しである場合が多いと指摘します。「わたしから離れたいのか。いいだろう。それがどこへ行き着くか、見てみなさい。」
- 叫び。民は自分たちを苦しめる者の下でうめきます。多くの人がこの経験を知っています。間違ったことをして、人間関係の中で、あるいは心の奥底で、その結果を味わうことです。
- あわれみ。「神の最初の反応は、嫌悪ではありません。神の最初の反応は、あわれみです。」主はさばきづかさを起こします。法廷でかつらをかぶった裁判官とは似ても似つかず、民を敵から、そして民自身から救い出す解放者です。
- 現代版もよく知られています。努力しても断ち切れないパターンがあり、その結果を味わい、そして叫びます。「神さま、助けてください。この悪循環を断ち切り、この鎖を断ち切ってください。」すると神は、何度でも、善い方、あわれみ深い方として現れてくださいます。
- 牧師はイアン・モーガン・クロンの言葉を引用します。どれほど努力しても、私たちは人間という存在がもつ根深い問題を自分で直すことはできません。罪を意志の力だけで抑え込むことはできず、それは自分の喘息を自分で治せないのと同じです。「私たちには助けが必要です。」
- 士師記では、悪循環は下向きの螺旋を描いて進みます。「しかしさばきづかさが死ぬと、彼らはそむいて、先祖たちにまさって悪を行い」(士師記2:19)。多くの人が思い当たるでしょう。克服したと思っていたパターンに戻ってしまうと、さらに深く落ちてしまうのです。
6. 私たちは救い出される必要がある
- 「助けはあります。本当に希望があります。」牧師はデイン・オートランドの著書『Gentle and Lowly』を引用します。私たちが神の前に義と宣言されるのは、自分を立て直し始めたときではなく、自分には決してできないと正直に認めて崩れ落ちたときです。
- 士師記の力強さの一つは、民が自分で自分を救えないということにあります。私たちも同じです。どんな人間の指導者も、どんな政党も、どんな考え方も、私たちを救いません。
- ティム・チルバーズは自身の歩みを語ります。クリスチャンの家庭で育ち、聖書の話はすべて知っていました。大学に入ったときには、神は自分に敵対していて、あら探しをするために待っているのだと思い込んでいました。やがて、自分が二重生活を送っていることに気づきます。神に全面的にささげていると言いながら、もう一つの生活では神から遠く離れていたのです。「神は私を砕かれました。自分の罪の深さに気づかされ、そして神の恵みと愛とあわれみがそれよりもさらに深いことに気づいたからです。」
- イエスは、習慣を改善するためのアドバイスをくださるために来られたのではありません。ご自分の民をその罪から救うために来られました。あなたの中、あるいはあなたの周りの混乱がどれほど深くても、希望があります。昔のある著者が言ったとおりです。「私たちの罪よりも、キリストにあるあわれみのほうが大きい。」
- 罪は、他の人を叩くための武器ではなく、あなた自身を叩くための武器でもありません。それを理解すると、あなたがどれほど愛されているかが見えてきます。「砕かれたままのあなたが愛されているのです。」
- 牧師はもう一度デイン・オートランドを引用します。あなたが最も打ちのめされていると感じるその場所に、イエスはおられ、そこに住んでおられます。イエスの心は、あなたの苦しみの向こう側にあるのではなく、暗闇の中であなたと共にあり、柔和で謙遜です。あなたの苦しみは、イエスの住まいです。そして牧師は呼びかけます。「イエスのもとへ行ってください、友人たち。イエスは両腕を広げて、そこにおられます。」
- メッセージは招きで締めくくられます。神は、鎖を断ち切る方として、ご自身を知らせたいと願っておられます。抜け出したい悪循環にはまっていると自覚している人は、その鎖に名前をつけなくても、祈りを受けることができます。解放の土台は、イエスがあなたをどう見ておられるかを見ることです。まだイエスの呼びかけに応えたことのない人に、イエスは言われます。「家に帰っておいで。」
覚えておきたいこと
- 罪は、他の人を打ちのめすための過ちのリストではありません。私たちが救われ、癒やされる必要がある、人間の性向です。
- 罪を正しく見ることは、自己嫌悪からも、他人に対する独善からも私たちを自由にします。
- ある世代が神のみわざを伝えなければ、次の世代は神を知りません。悪は、神との関係がないことに続いて起こります。
- 士師記の悪循環は、私たちの悪循環でもあります。妥協、結果、叫び、救い。そして神の最初の反応は、あわれみです。
- 意志の力で自分を救える人はいません。私たちの罪よりも、キリストにあるあわれみのほうが大きいのです。
自分への問いかけ
- 誰かに失望させられたとき、あるいは自分に失望したとき、あなたはどちらに傾きやすいですか。自己嫌悪ですか、それとも他人に対する独善ですか。
- 士師記2章の悪循環、すなわち妥協、結果、叫びの中に、あなたの人生のどんなパターンを見いだしますか。
- 神から受け取ったもののうち、家族や教会の中で、これから来る世代に伝えられるものは何ですか。
- あなたは心の奥底で、神は自分に敵対していて、あら探しをするために待っていると信じていませんか。神のあなたへの最初の反応があわれみだと信じたら、何が変わるでしょうか。
- 今週、誰かに一緒に祈ってほしいと頼める鎖はありますか。
引用された聖書箇所
よくある質問
士師記の悪循環とは何ですか。
士師記は、四つの段階からなる悪循環を繰り返し描いています。民は神の道を捨てて神の目に悪とされることを行い、その結果を味わい、抑圧の下で神に叫びます。すると神は、あわれみに動かされて、民を救い出すさばきづかさを起こされます。2章19節には、戻るたびに悪循環が悪化していく様子が見られます。
なぜ今、教会で罪について語るのですか。
牧師は、罪と戦うという名目で多くの害がもたらされてきたことを認めています。しかし聖書は、福音のまさに中心でそれを語っています。イエスはご自分の民をその罪から救うために来られました。罪を見過ごすと、自分を厳しく裁きすぎたり、他の人を裁いたりすることにつながります。罪を正しく見ることは、他の人にも自分自身にも、より優しく接する助けになります。
抜け出せない悪循環から、どうすれば出られますか。
このメッセージによれば、意志の力だけでは足りず、誰も自分で自分を救うことはできません。出発点は、イエスが私たちをどう見ておられるかを見ること、つまり嫌悪ではなく、愛とあわれみをもって見ておられると知ることです。私たちの罪よりも、キリストにあるあわれみのほうが大きいのです。イエスは、ご自分のもとに来る人を両腕を広げて迎え、鎖を断ち切ってくださる方です。