聖餐と祈り、教会を建て上げる二つの道具

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はじめに

浜寺聖書教会(Hamadera Bible Church)の牧師、Takashi Kondo は、「建築家として生きる信仰者」というシリーズを続けています。棟梁であるイエスは今も教会を建て上げておられ、大工道具を持たせて、ご自分の民を建築現場に置いてくださいました。使徒行伝2章42節に見いだします。「そして彼らは、使徒たちの教を守り、まじわりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。」

前の週には、最初の二つ、使徒たちの教えと交わりが取り上げられました。この第5回のメッセージが扱うのは残りの二つです。ペンテコステの日に加わった三千人の新しい弟子たちが、最初の日から堅く守ったもの、すなわちパンを裂くこと(聖餐)と祈りです。

牧師はまず率直な問いかけから始めます。礼拝のあとで「教会に欠かせないものは何ですか」と尋ねられたら、あなたは何と答えるでしょうか。みことば、賛美、祈り、交わり。では聖餐はどうでしょう。みことばや賛美と同じ重みではなく、「おまけ」のように感じている人もいるかもしれません。しかし牧師は、教会は誕生の時から聖餐をしっかり守り続けてきたことを思い起こさせます。

メッセージの流れ

1. 聖餐は、イエスの死を思い起こすため

  • コリント人への第一の手紙11章23〜25節で、パウロは主から受けたことを伝えています。イエスはパンを裂いたあと、「わたしの記念のために、このことを行いなさい」と言われました。杯のあとでも、同じことを繰り返されます。主は二度も念を押されたのです。
  • 思い起こすとは、「ああ、そういうことがあったな」と考えることではありません。牧師によれば、「思い起こすとは、その出来事を黙想し、その意味を考え、ふさわしい態度でそれに向き合うこと」です。
  • 牧師は申命記8章に目を向けます。2節で、神はイスラエルに、四十年間の歩みのすべてを思い起こすよう求められます。17、18節では、「わたしの力と、わたしの手の働きで、わたしはこの富を得た」と心の中で言わず、主を思い起こしなさいと戒めます。同じ「思い起こす」という言葉が出てきます。思い起こすとは、心にしっかりと留めておくことです。
  • パンが配られるとき、私たちは、私たちの罪のために十字架にかけられたイエスのからだを思い起こします。杯を飲むとき、流された血を思い起こします。パンと杯が文字どおりからだと血になるわけではありません。それは象徴であり、払われた代価の前に私たちを何度でも立ち止まらせてくれます。
  • この一度の死が、赦しと、神との平和と、罪の中で死んでいた者へのいのちと、神の家族の一員という新しいアイデンティティをもたらしました。「私たちの歩みは十字架の上に立っています。この死がなければ、私たちには何の望みもありませんでした。」
  • 「神の御子を十字架に釘づけにしたのは、あなたの罪です。私が今日生きているのは、ただ主の恵みによるのです。」

2. 聖餐は、イエスにある私たちの一致を思い起こすため

  • 聖餐を、自分とイエスとの個人的なひとときとして受けとめている人もいます。そういう面もあると牧師は認めますが、それだけではありません。兄弟姉妹との交わりでもあるのです。
  • コリント人への第一の手紙10章17節で、パウロはこう書いています。「パンは一つであるから、わたしたちは多くあっても、一つのからだである。みんなの者が一つのパンにあずかるからである。」当時は、一つのパンを裂いて皆で分け合いました。「めいめいがコンビニに寄って、好きなパンを買ってくるのではありません。」
  • だからパウロは、コリントの人々を厳しく叱っています(コリント人への第一の手紙11章18〜22節)。信者の多くは奴隷で、仕事を抜けられませんでした。裕福な人たちは早く来て、たくさんの食べ物を持ち寄り、仲間内で食べていました。働き手たち、そして疲れ果てた奴隷たちは遅れて着き、何も残っていませんでした。
  • 満腹で酔う人がいる一方、飢えている人がいました。パウロははっきり言います。「そこで、あなたがたが一緒に集まっても、それは主の晩餐を食べるためではない。」分裂を養う食事は、神の目には主の晩餐ではありません。

3. 聖餐は、自分自身の罪を認めるため

  • コリント人への第一の手紙11章27〜29節は、主のパンを食べ、杯を飲むことを「ふさわしくない仕方で」行うことについて語り、各自が自分を吟味するよう求めています。厳しい言葉です。
  • 牧師は、ここにあるニュアンスを指摘します。パウロが語っているのは、ふさわしくない人ではなく、ふさわしくない仕方です。問われているのは私たちの価値ではなく、私たちの態度です。
  • 自分を厳しく吟味するあまり、打ちのめされて聖餐から離れてしまう人もいます。けれども、自分の内側を見るなら、私たちはみなふさわしくありません。「私はキリストのからだと血にあずかるにふさわしい」と言える人は、ここに一人もいません。私たちがあずかれるのは、ただ信仰により、恵みによって義とされたからです。
  • ふさわしくない仕方で聖餐にあずかるとは、悔い改めと罪を手放すことを頑なに拒むことです。愛着のある罪を心に抱えたまま、「私の罪がイエスを十字架につけたことを思い起こします」と、どうして言えるでしょうか。他の人への苦い思いを育てながら、平和について神に感謝できるでしょうか。
  • 自分を吟味するのは、完全な人になるためではありません。自分の中に罪が見えたら、十字架を思い起こし、告白して悔い改めてください。配偶者や兄弟姉妹との間に争いがあるなら、聖餐にあずかる前に、自分にできるかぎり、平和と和解を求めましょう。「主の食卓は、赦された者たちの集いです。」

4. 聖餐は、将来の望みを思い起こすため

  • 26節で、パウロは、私たちが主の死を「主が来られるまで」告げ知らせるのだと書いています。聖餐は、墓にとどまったままのイエスをしのぶ葬儀ではありません。イエスは三日目によみがえり、再び来られます。
  • マルコによる福音書14章25節で、イエスは言われます。「よく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはぶどうの実から造ったものを、もはや飲むことはしない。」同じイエスによって救われたすべての人が、主ご自身と喜びの食卓を囲む時が来ます。
  • 今日の聖餐は「メインディッシュの前の前菜」です。前菜はおなかを満たすものではなく、その先を待ち望ませるものです。そしてこれは個人的な夕食ではなく、兄弟姉妹と共にいただく食事です。
  • 聖餐は、過去の犠牲を見つめ、今ここにある一致と赦しを見つめ、主の再臨という望みを見つめます。信仰生活にあってもなくてもよい付け足しではなく、イエスが命じられた歩みの欠かせない一部であり、喜びのときです。

5. 祈り、共に祈る教会

  • 祈りが大切であることに、異論を唱える人はいません。いつでも、どこでも、神に目を上げられるのは大きな特権です。けれども、兄弟姉妹と共に祈ることも、ひとりで祈ることと同じくらい大切だと覚えているでしょうか。
  • 昇天のあと、弟子たちは孤独を感じてもおかしくありませんでした。彼らは何をしたでしょうか。「心を合わせてひたすら祈をしていた」のです(使徒行伝1章14節)。それから十日ほどして、祈るために集まっていた人たちに聖霊が降り、教会が始まります。
  • ユダの代わりを立てるとき、彼らは二人、バルサバと呼ばれるヨセフとマッテヤを立てて、祈りました。「すべての人の心をご存じである主よ」(使徒行伝1章24節)。「私たちはよく、まったく別のことをします。アイデアが浮かんだから、この戦略でいこう、この計画を立てよう、と。」
  • 使徒行伝4章では、ペテロとヨハネが捕らえられ、脅されます。釈放されると、二人は仲間のところへ戻り、仲間たちは声を合わせて神に叫びます。「僕たちが大胆に御言を語り得るようにして下さい」(29節)。場所が揺れ動き、皆が聖霊に満たされて、大胆に神の言を語りました(31節)。
  • 困難に直面すると、私たちはインターネットで助けを探したり、誰かに頼ったりします。彼らはまず祈りました。彼らを動かしたのは意志の強さではなく、祈りの力でした。
  • 牧師は T. W. Hunt と Claude King の言葉を引用します。反対や噂にもかかわらず、教会は一世紀が終わる前に、エルサレムから地の果てまで広がりました。超自然的な力なしには、これほどの広がりはあり得ませんでした。その広がりの器は教会であり、教会が用いた力は祈りだったのです。

6. 主を離れては何もできないから祈る

  • 私たちの祈りは、ときに単なるSOSになり、家族や健康の問題が起きたときの願い事の窓口になってしまいます。ふだん神のことを考えない人でも、そんなときには祈ります。
  • あなたはなぜ祈るのですか。ヨハネによる福音書15章5節で言われました。「わたしを離れては、あなたがたは何一つできないからである。」あなたはこれを、自分自身の現実として信じていますか。
  • 「祈りが足りないのは、スケジュールの問題ではありません。祈りが足りない問題の根は、自分の力でやれると考える高ぶりです。」
  • 赤ちゃんは自分では何もできず、親に向かって泣きます。救われたからといって、私たちが特別な人間になるわけではありません。いつでも頼ることのできる神を知るようになったのです。
  • みことばを守ること、交わりに生きること、聖餐にあずかること。これらの務めを忠実に果たす唯一の道は、祈り続けることです。罪人どうしが共に生きれば、争いが起き、傷つくこともあります。耐え抜くには、神の助けが必要です。
  • 「あなたのために祈ります」という言葉は良いものですが、みことばは、集まって祈ることの大切さを教えています。牧師は具体的な機会を挙げます。礼拝のあとに兄弟姉妹と祈ること、水曜日の祈祷会、家族のひととき、互いのために祈る電話です。

7. 手に持っているだけではいけない道具

  • ただ手に持っているだけの道具は役に立ちません。金づちやのこぎりについて何でも知っていても、使わなければ何も建てられません。
  • 大切なのは、聖書をたくさん知っていることではなく、みことばを愛し、従い、守ることです。礼拝に出席するだけでなく、交わりを喜ぶこと。聖餐に出席するだけでなく、十字架につけられた主を思い起こし、一致を感謝し、悔い改め、望みをもって待つこと。問題が起きたときだけ祈るのではなく、神なしには何もできないことを思い出すために、共に祈ることです。
  • 「知っているだけで満足するのは、道具を持っていながら使わないのと同じです。」主は今日も教会を建て上げておられ、この喜びを知る者は、その建築現場に置かれています。
  • 牧師は、まだイエスを信じていない方にも、この問いを自分のこととして考え、主に従う喜びを自分のものにしてほしいと招いています。

ポイント

  • 聖餐は、あってもなくてもよい「おまけ」ではありません。教会は誕生の時から、みことば、交わり、祈りと並べて、聖餐をしっかり守ってきました。
  • 聖餐でイエスを思い起こすとは、私たちのために与えられたそのからだと血を、感謝をもって心に留めることです。
  • 一つのパン、一つのからだ。分裂を養う食事は、主の晩餐ではありません。
  • 自分自身でふさわしい人は、一人もいません。聖餐をふさわしくないものにするのは、罪を手放すことを拒む心です。
  • 祈りが足りないのは、自分ひとりでやれるという高ぶりから来ます。使徒行伝の教会は共に祈り、神はその教会を用いられました。

個人的な適用

  1. あなたは聖餐を、欠かせないものと考えていますか。それとも、なくても困らない付け足しと考えていますか。
  2. 次の聖餐では、具体的に何を思い起こしたいですか。十字架、兄弟姉妹との一致、赦し、主の再臨のどれでしょうか。
  3. 手放せずにいる罪はありますか。あるいは、身近な人や兄弟姉妹との間に、自分にできるかぎり解決すべき争いはありますか。
  4. あなたの祈りは、緊急時のためのSOSのようですか。それとも、子どもが父に頼るような祈りですか。
  5. 今週、誰かと一緒に具体的に祈れるのはいつでしょうか。礼拝のあと、祈祷会、家族と、電話で。

引用された聖書箇所

よくある質問

「わたしの記念のために、このことを行いなさい」とはどういう意味ですか。

Takashi Kondo によれば、思い起こすとは、過去の事実を思い出すだけのことではありません。申命記8章のように、出来事を黙想し、その意味を理解し、ふさわしい態度をとること、つまりイエスが十字架で私たちのためにしてくださったことを、感謝をもって心に留めることです。

誰もふさわしくないのなら、誰が聖餐にあずかれるのですか。

パウロが語っているのは、ふさわしくない人ではなく、ふさわしくない仕方です(コリント人への第一の手紙11章27節)。自分の内側を見るなら、ふさわしい人は誰もいません。私たちが聖餐にあずかれるのは、ただ信仰により、恵みによって義とされたからです。ふさわしくない仕方で聖餐にあずかるとは、悔い改めと罪を手放すことを頑なに拒むことです。

なぜひとりだけでなく、共に祈るのですか。

使徒行伝では、教会はあらゆる場面で共に祈っています。昇天のあと、使徒を選ぶとき、脅しに直面したときです。共に祈ることは、誰も信仰をひとりで生きることはできないと思い起こさせます。説教者はさらに、祈りが足りないのはスケジュールの問題ではなく、自分ひとりでやれると考える高ぶりのためだと付け加えています。

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