はじめに
「死んだ後、わたしはどこへ行くのだろうか」。これほど真剣な問いは、そう多くありません。神戸キリスト栄光教会の菅原先生は、世の終わりとキリストの再臨をテーマにしたシリーズの中で、ヘブル人への手紙9章27〜28節に基づいてこの問いに向き合っています。
イエスによって罪の赦しの確信を受けた人にとって、先生の答えははっきりしています。天国がその人を待っています。しかし先生は、そこで話を終えません。多くの人が心の中でひそかに抱いている問い、つまりイエスを知らないまま罪を抱えて亡くなった人はどうなるのか、という問いにも触れます。そして、イエスを信じることは数ある宗教的な選択肢の一つではなく、必要不可欠なことだと改めて語ります。
メッセージの流れ
1. 一度だけ死ぬこと、そのあとに裁き
朗読された箇所はヘブル人への手紙9章26〜28節です。キリストは、罪を取り除くために、ただ一度ご自身をいけにえとして現れてくださいました。先生は強調します。どんな偉人も、賢者も、宗教の創始者も、罪を赦すことはできません。罪を赦せるのは神だけであり、神はイエスにおいてそれを成し遂げてくださいました。28節は、キリストが待ち望む人々の救いのために再び現れると告げていますが、この日のメッセージは27節に集中します。「人間には、一度死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、定まっている」。
死は、だれの目にも迫ってくるものであり、確実です。裁きも同じように定められていますが、それはまだ先にあるため、信じるほかありません。先生はこれを結婚の申し込みにたとえます。男性が「あなたを幸せにします」と約束しても、女性は前もって確かめることはできず、信じるしかありません(結婚後に変わる人もいる、とユーモアを交えて語られました)。けれども、神のみことばは変わりません。
2. イエスを信じることは最も理にかなった選択
次に先生は、自分でも少し不適切かもしれないと断ったうえで、自動車保険のたとえを用います。事故に遭うつもりで道路に出る人はいませんが、それでも人は保険に入ります。事故がなかったとしても、保険に入っていたことを後悔する人はいません。純粋に理屈で考えても、イエスを信じることは得になる選択なのです。
さらに、たとえ裁きがないとしても、神とともに歩む人生は、平安と喜びと祈りの答えに満ちた人生です。火葬されたら何もかも終わりだと考える人は多くいます。先生はそうした人々にこう問いかけます。もし裁きが本当にあったらどうしますか、と。
3. 皆が、肉体にあってした行為に応じて裁かれる
イエスを知らずに亡くなった人についての問いに答えるため、先生はコリント人への第二の手紙5章9〜10節を読みます。「なぜなら、わたしたちはみな、キリストのさばきの座の前に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて、報いを受けねばならないからである」。したがって、イエスを知らなかった人々は、その行いに応じて神に裁かれることになります。
マタイによる福音書25章40節と45節にも触れます。旅人を迎え、病人や囚人を訪ね、飢えた人に食べさせることです。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」。先生は、人々に示された親切は、教会の外であっても、神を知らない人によるものであっても、神ご自身にしてくれたこととして数えられる、と指摘します。他の人への冷たさも、同じように数えられます。クリスチャンは、報われるのは教会の中での行いや神に直接向けた行いだけだと思いがちですが、そうではありません。また、犯した悪も、同じように裁きを招くことがあるかもしれません。基準は、肉体にあってしたことです。
マタイによる福音書10章28節(たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい)を挙げ、死後の世界に対する権威は神にあると語ります。マタイによる福音書10章32〜33節は、信仰を公に告白することの大切さを思い出させます。ローマ人への手紙6章23節が、何が懸かっているのかを要約しています。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」。
4. 金持ち、ラザロ、そして犯罪人:転換点としての十字架
続いて先生は、ルカによる福音書16章19〜31節、金持ちとラザロの話を読みます。登場人物の一人に名前があることから、たとえ話ではなく実際にあった出来事と考えられることが多い、と説明します。貧しいラザロは、アブラハムのふところに連れて行かれます。先生は、本文が天国について語っているのではなく、陰府(よみ)のことだと指摘します。門前に横たわる貧しい人を無視していた金持ちは、そこで苦しみの中にいます。二人とも、ユダヤ人でした。
次に先生は、同じルカが記したルカによる福音書23章39〜43節を開きます。イエスとともに二人の犯罪人が十字架につけられています。先生はここで、神の前での罪人と、法律上の犯罪人とを区別し、この二人はその両方だったと語ります。一人はイエスをののしります。もう一人は、その者をたしなめます。「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ。だがこの方は、何も悪いことをしていない」。そして彼は言います。「イエスよ、あなたが御国の位にお着きになる時には、わたしを思い出してください」。イエスは答えられます。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
先生によれば、二つの話の違いは十字架にあります。十字架の前、ラザロはアブラハムのふところで待っていました。イエスが御業を成し遂げられてからは、イエスにある人はみな天国に行きます。死刑囚が最後の瞬間にイエスに向き直った場合でも同じです。だから、愛する人にこう言えるのです。「天国でまた会おうね」。
5. 陰府と、裁きを待つこと
先生は、使徒信条の一節、イエスが三日間「陰府にくだり」という言葉に触れます。エペソ人への手紙から引き出した解釈によれば、イエスはそこで旧約の信仰者たち、アブラハムをはじめとする人々と合流し、彼らを天国へ連れて行かれました。
イエスを知らずに亡くなった人については、まず陰府に行き、そこで神の裁きを待つのではないかと先生は考えています。そこで平安のうちに待っている人もいるかもしれず、ルカによる福音書16章の金持ちのように苦しんでいる人もいるかもしれません。先生はこの点について慎重に語っています。はっきり断言していることは、二つの文にまとめられます。イエスにあって赦しの確信を持つ人は天国に行きます。それ以外の人については、主がその行いに応じて裁かれ、その人々はその時を待っています。
6. イエスにある者には、罪の定めはない
そこで良い知らせが語られます。「神は、罪を知らないかたを、わたしたちのために罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(コリント人への第二の手紙5章21節)。「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は、罪に定められることはない」(ローマ人への手紙8章1節)。これまでの人生がどんなものであっても、どれほど愚かなものであっても、イエスのもとに来て悔い改めるなら、あなたのすべての罪は十字架によって赦されます。
先生は、町から町へと説教して回っていた、ある有名な伝道者の話をします。ある学校の校長が、このごく素朴な福音を聞いたものの、そのときは何の反応も示しませんでした。何年も後、病を得て死が近づいたとき、彼はそのことを思い出し、その伝道者を呼んで信仰を告白し、平安のうちに世を去りました。若いときでも、死の直前でも、信じる者はだれでも天国に入ります。十字架の上の犯罪人がその模範です。
しかし先生は、恵みと報いを区別します。救いは、日曜学校のころから生涯神に仕えてきた人にも、臨終の床で回心した人にも同じです。一方、報いは異なります。「だれでも、この小さい者のひとりに、冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう」(マタイによる福音書10章42節)。伝道者の書12章1節はこう呼びかけます。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」。イエスに早く出会うほど、長くイエスに仕えることができ、人生はより幸せになり、報いもより大きくなります。そして、わたしたちはイエスの血によって義とされたのですから、「彼によって神の怒りから救われるであろう」(ローマ人への手紙5章9節)。
先生はパウロの言葉で締めくくります。テモテへの第二の手紙4章7〜8節です。「わたしは、戦いを立派に戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今からのちは、義の冠がわたしを待っているばかりである」。先生は、来月で82歳になること、健康ではあるけれども残された時間はそう多くないことを打ち明けます。そして、会衆が最後まで信仰を守り通せるよう祝福し、一人ひとりが隣の人にこう言うよう促します。「義の冠があなたを待っていますよ」。
ポイント
- 死は確実であり、裁きは神によって定められています。裁きはまだ目に見えませんが、みことばに基づいて信じるものです。
- イエスを信じることは、数ある宗教的な選択肢の一つではありません。罪を赦せるのは神だけであり、神は十字架でそれを成し遂げてくださいました。
- 神は一人ひとりを、肉体にあってした行為に応じて裁かれます。そして、最も小さい者にした善は、神ご自身にしたこととして数えられます。
- 十字架以後、イエスにある者は、あの犯罪人のように最後の瞬間にイエスに向き直った場合でも、天国に行きます。
- 恵みによる救いはすべての人に同じですが、報いは異なります。早くから神に仕えることは、決して無駄にはなりません。
自分に当てはめてみましょう
- イエスにあって罪が赦されているという確信がありますか。もしなければ、あの犯罪人のように「わたしを思い出してください」と、今日イエスに伝えるのをためらわせているものは何でしょうか。
- 弱い立場にある人(病気の人、旅人、飢えている人)に対して、今週どんな親切を示せるでしょうか。イエスがそれをご自身にしてくれたこととして受け取られることを心に留めてください。
- 身近な人の中に、イエスのことをまだ素直に話したことのない人はいませんか。ある日聞いた福音は、何年も後に実を結ぶことがあります。
- もしあなたが若いなら、先延ばしにせず、今すぐ神に仕え始めるにはどうしたらよいでしょうか。
- いつかパウロとともに「走るべき行程を走りつくした」と言えるよう、最後まで信仰を守るために何が助けになるでしょうか。
引用された聖書箇所
- ヘブル人への手紙 9章26〜28節
- コリント人への第二の手紙 5章9〜10節
- マタイによる福音書 25章40〜45節
- マタイによる福音書 10章28節
- マタイによる福音書 10章32〜33節
- ローマ人への手紙 6章23節
- ルカによる福音書 16章19〜31節
- ルカによる福音書 23章39〜43節
- エペソ人への手紙 4章8〜9節
- コリント人への第二の手紙 5章21節
- ローマ人への手紙 8章1節
- マタイによる福音書 10章42節
- 伝道者の書 12章1節
- ローマ人への手紙 5章8〜9節
- テモテへの第二の手紙 4章6〜8節
よくある質問
ヘブル人への手紙9章27節は、死後に起こることについて何と言っていますか。
ヘブル人への手紙9章27節は、人間には一度死ぬことと、そのあとに裁きを受けることが定まっていると告げています。菅原先生は、死は確実で目に見えるものであるのに対し、裁きも神によって同じように定められていながら、まだ先にあることを強調します。ですから、みことばに基づいて信じるほかありません。
イエスを知らずに亡くなった人はどうなりますか。
説教者によれば、そうした人々は、肉体にあってした行い(コリント人への第二の手紙5章10節)、最も小さい者にした善(マタイによる福音書25章40節)も含めて、その行いに応じて神に裁かれます。先生は、まず陰府に行ってこの裁きを待つのではないかと考えていますが、慎重に語り、最終的な判断は主にゆだねています。
死の直前に救われることはできますか。
はい。イエスのそばで十字架につけられた犯罪人は、「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」という約束を受けました(ルカによる福音書23章43節)。恵みによる救いはすべての人に同じですが、菅原先生は、報いは異なることを思い起こさせます。イエスに早く出会うほど、長くイエスに仕えることができるのです。
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