はじめに
ロンドンのKXC(キングス・クロス教会)は、「Teach Us to Pray」(私たちに祈りを教えてください)というシリーズで、3週間にわたって主の祈りを取り上げています。教会はビジョンの時期を迎える準備として、祈りと断食の一週間を過ごします。それは「義務ではなく、ただの招き」です。父の愛にとどまる祈りに続いて、Ruth Mayは「求める祈り」を語ります。
彼女はまず、場の前提を示します。「ここは、人をさばかない場所です。」彼女には、何時間も執り成しの祈りをささげた季節もあれば、「プロのクリスチャン」として働いていながら、祈りが後回しになった季節もありました。難しい会議の前や、危機のただ中で、ようやく思い出す程度だったのです。罪悪感、冷めた気持ち、退屈さをいったん脇に置いて、へりくだって尋ねるよう、彼女は皆を招きます。「神さま、私に何を語りたいのですか。」
「私たちはリバイバルのために祈り、その一端を見てきました。癒しのために祈り、奇跡が起こる瞬間を見てきました。[…] でも、まだ先があります。」彼女は、会衆に語るのと同じだけ自分自身にも語っているのだと断っています。
メッセージの流れ
1. 「主よ、私たちに祈りを教えてください」
- マタイの福音書6章、山上の説教の中で、イエスはこう言われます。「だから、あなたがたはこう祈りなさい。」Ruth Mayは主の祈りを三つの動きに分けます。とどまる(「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように」)、求める(「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」)、そして前へ進む(赦しと悪い者からの救い。これは次の週のテーマです)。
- ルカでは、主の祈りは一つの願いに対する答えとして与えられます。「イエスはある所で祈っておられた。それが終ったとき、弟子のひとりがイエスに言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」」(ルカ11章1節)。
- 弟子たちはイエスの祈りの何を見て、この願いを口にしたのでしょうか。Ruth Mayは、こんな場面を思い起こさせます。賛美が終わる前にコーヒーを買いに抜け出す時間があるだろうか、と考えているとき、通路の向こうの人は愛と驚きに満たされています。あるいは、祈ってもらうために前に出たのに、足もとで誰かが激しく涙を流していて、自分は何かを感じているのかどうかも分からない、という場面です。
- 「これは、さばきや罪責の話ではありません。」彼女は、神に出会う人をうらやんだこともあれば、感情を表に出しすぎだと見なしたこともあれば、その自由を求めたこともあると認めます。「私は、あの人たちが持っているものがほしい。」
- 彼女は、弟子たちも私たちと同じだったと想像します。好奇心、うらやみ、さばき、あるいは切実な渇きをもって、イエスが祈る姿を見ていたのです。そしてイエスは、恵みによって、同じ親しさの中へと招き入れる言葉で答えられます。すべては「父よ」から始まります。
- 前の週に、Cathが一日を簡単な祈りで始めることを勧めました。「父よ、私はあなたのものです。今日、私に何を語りたいですか。」Ruth Mayは一週間これを実践しました。ある日は挑戦の言葉、ある日は励まし、慰め、あるいは導きの言葉が与えられました。
2. 祈りは本当に物事を変える
- イエスの祈りの生活について、弟子たちが印象づけられたことは、おそらく二つあります。父との関係の親しさと、「それが効いているように見えた」ことです。イエスには、彼らがそれまで見たことのない信仰と力がありました。
- ブレーズ・パスカルは、神は祈りを定められた、それは「被造物に因果性の尊厳を伝えるため」だと書きました。創造主との関係の中にあるとは、この尊厳を受けることです。私たちの祈りは、本当に物事を変えるのです。
- Ruth Mayは、それがどのように働くのかも、なぜ時にそう見えないのかも、自分には分からないと認めます。このメッセージは、聞かれなかった祈りの痛みを扱うものではありません。そのことについてはKXCでこれまでに語られたメッセージを紹介し、苦しんでいる人にはチームとの対話を勧めています。
- ある友人が、治る見込みのないがんの子どもたちの病棟で、チャプレンの実習をしていました。白血病の7、8歳の男の子と話していたとき、その子はこう言いました。「天国に行ったら、神さまに、どうして僕はがんになったのか聞くんだ。ちゃんとした答えがあるといいけど。なかったら、鼻にパンチしてやる。」Ruth Mayは、この答えには愛らしいほどの純粋さがあると言います。この子は、物事のあり方のどこかがおかしいと言っているのです。
- イエスが「御国がきますように」と祈るよう命じ、それを祈り続けるよう求めておられること自体が、大切なことを語っています。今のこの世界は、神が望まれる姿ではないということです。いつか、神は「人の目から涙をことごとくぬぐいとってくださる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」(黙示録21章4節)。「でも今は、私たちは祈ります。破れ口に立つのです。」
3. ろうそくと祈り:ライプツィヒの例
- Ruth Mayは、以前にも語った話に戻ります。共産主義の東ドイツでは、クリスチャンであることが投獄につながることもありました。ライプツィヒのある牧師は、「こんなふうであるべきではない」と心の中で言い、祈り始めました。
- その祈りの集まりは、最初はほんの数人でしたが、やがて数千人が集まるようになりました。説教者の話によれば、平和を求める祈りの集会は一週間で12万人に達しました。数日後、東ドイツの指導者は辞任せざるを得なくなり、二週間でこの運動は30万人のデモ参加者を集め、一か月でベルリンの壁が崩れました。
- ジャーナリストや歴史家は、この集会を東ドイツの共産主義崩壊の転換点と見ることがよくあります。当時の共産党幹部の一人は、記者にこう打ち明けました。「あらゆる事態に備えていた。ろうそくと祈りだけは想定していなかった。」
- 「共産党の指導者たちでさえ、ベルリンの壁の崩壊と祈りの力を結びつけていたのなら、私たちもそうすべきかもしれません。」
4. ハンナ:絶望の祈り
- その週、祈りのアプリ「Lectio 365」は、ハンナについて黙想していました。ハンナは信心深い女性でしたが、子どもを授かることができませんでした。毎年のシロへの巡礼のとき、「ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣いた」(サムエル記上1章10節)。彼女があまりに激しく祈っていたので、祭司エリは彼女が酒に酔っていると思ったほどです。
- 事情が分かると、エリは彼女を祝福しました。「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」(サムエル記上1章17節)。その後、彼女はサムエルを産みます。サムエルはイスラエルの預言者であり指導者となり、やがてダビデに油を注いで王とします。
- この黙想の筆者はこう書いていました。「泣くことは、聖書的な祈りの方法です。」詩篇、エレミヤ書、哀歌には、涙と祈りが入り混じっています。虐げられた人々の涙を見、私たちの涙を皮袋にたくわえ(詩篇56篇8節)、すべての涙をぬぐうと約束される神は、ハンナの涙を見て、その祈りに答えられます。
- Ruth Mayは、絶望の祈りと安らぎの祈りを対比させます。深い貧しさの中で生きる信徒にとって、「新しい一日をありがとうございます」は意味の重い祈りであり、「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」は、次の食事がどこから来るか分からないときには叫びになります。
- 今日でなくても、いつか、こうした祈りしか残らない時が来ます。家賃の期日の前に職を失うこと、健康への不安、大切な人の診断、毎日喜びを奪う不安、毛布のように心を麻痺させる悲しみ、依存から抜け出したいという願い、将来への恐れ。
5. 祈りは私たち自身も変える
- 祈りは「神の方を向いて心配すること」ではありません。祈りは親しさと関係であり、祈るとき、私たちは神の心を垣間見ます。
- 14世紀の神秘家、ノリッジのジュリアンはこう書きました。「祈りは魂を神と結びつける。[…] 祈りは、魂が神の望まれることを望んでいるという証しである。[…] 神は愛をもって私たちを見つめ、私たちを、その善い御旨と御業の協力者にしたいと望んでおられる。だから神は、ご自分が行うことを喜ばれることのために祈るよう、私たちを促される。」祈りは、神がすでにこの世界で行っておられる御業の中に、私たちを織り込みます。
- 20代前半、最初の教会での仕事で、Ruth Mayは迫害を受けている教会のために、日曜日の祈りを導くことになりました。彼女は調べ、証言を読み、断食して祈りました。ある問いが心をとらえました。もしこの迫害されているクリスチャンたちが、本当の兄弟姉妹だったらどうだろう。私はどう祈るだろう。天国で彼らに何と言えるだろう。
- 彼女はまた、Phil Wickhamの歌「Beautiful」の最後の一節を思い浮かべていました。永遠の岸辺に集められた花嫁が、一つの声で歌う場面です。日曜日になり、始めてわずか二行で、彼女はすすり泣き始め、入念に準備した言葉を口にできなくなりました。主の祈りさえ言い間違えてしまいました。
- 彼女は恥ずかしい思いで壇を降りました。しかし「私の中で何かがつながった」のです。それは、思いやりの感情的な現実を初めて経験した時であり、祈りが初めて心に届いた時でした。「イエスに従うとは、自己鍛錬と聖書の知識と善い人になろうという決意の上に成り立つ、頭だけの宗教ではありません。それは関係です。」
- 祈るとき、私たちは中立の地にいるのではなく、戦場にいます。多くのものが私たちの心を奪い合います。自分自身、快適さ、成功。祈りは視線を神に向け直し、祈る相手である方が、この世の混乱や騒がしさよりも大きくなるまで続きます。「それは、本当は私の祈りのことではありませんでした。私のこと、神が私の心を変えておられることだったのです。」
- この祈りは、明け渡しを求めます。「みこころが行われますように。私のではなく、私の予定でもなく、あなたのみこころが、主よ」(ルカ22章42節参照)。祈りは、私たちが主導権を握っているのではないことを思い出させてくれます。
6. 親しく、全人格で、粘り強く
- 親しく。すべては、父との親しさと、そのご性質を知ることから流れ出ます。
- 感情を伴って。Ruth Mayはこの言葉を選ぶ前にためらいましたが、人の心をざわつかせる言葉だからこそ選びました。必ずしも涙や感情のことではなく、心、思い、体、魂、霊、力という全人格をかけて向き合うことです。彼女は「近さ」という言葉も考えました。何かとつながるには、それに近づかなければならないからです。Pete Hughesが執り成すときは、足を踏み鳴らし、手をたたき、壁をたたきます。そして、絶望している人と共に祈るときは、たいてい整っていません。涙、意味の通らない言葉、不正への怒りがあふれます。
- 粘り強く。ルカでは、主の祈りのすぐあとに、真夜中にパンを借りに友人の家の戸をたたく人のたとえが続きます。隣人は、その人の「shameless audacity」(恥知らずなほどの大胆さ)のゆえに、ついに起き上がります(ルカ11章8節。Ruth Mayが読んでいる英語版の表現です)。「私は、恥を恐れない大胆さに満ちた祈りの生活という考え方が大好きです。」
- 数章あとでは、粘り強いやもめが、神を恐れない裁判官から正しい裁きを得ます。彼女が何度も訪ね続けたからです(ルカ18章1〜8節)。神を親しく知っているからこそ、私たちは大胆に粘り強くなり、神にこう言えるのです。「神さま、これは正しくありません。何とかしてください。」
- ルカはこう結びます。「そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(ルカ11章9〜10節)。「私はやめません。あなたの心がこのことにあると、私は知っています、神さま。」
7. 破れ口に立つ
- Ruth Mayは、臨床心理学者でキリスト教牧会カウンセリングの先駆者であるフランク・レイクの言葉で締めくくります。「人が、人生で経験したあらゆる反応を、キリストにおいて示された神の前に持ち出し、その状況の悪を神の善と調和させるよう求めるとき、その人はすでに祈り始めている。[…] この意味での祈りとは、形式的に祈りの言葉を唱えることではない。人間の経験の全体について、神と力のこもった対話をすることである。私たち自身の状況の悲惨さも、キリストの十字架の贖いの悲惨さも、忘れることなく。」
- 執り成すとは、破れ口に立つことです。一方には、状況の現実(「これは普通ではない、本来こうあるべきではない」)。もう一方には、十字架の現実、十字架につけられ復活されたキリストの力があります。そして、この二つを祈りの中で結びつけるのです。
- 応答の時間に、彼女は二つのグループを前に招きました。一つは、神にまだ一度も持ち出したことのない絶望、あるいはもう百回目になる絶望を抱えている人たちです。「あなたが疲れたら腕を支えます。あなたの信仰が空になったら、信仰を分け与えます」と言う共同体に囲まれながら。もう一つは、神が執り成す者になるよう召しておられる人たちで、「神さま、あなたがそれを成し遂げるまで、私はやめません」と言う人たちです。
心に留めたいこと
- 求める祈りは、父との親しさから生まれます。「父よ、私はあなたのものです。今日、私に何を語りたいですか。」
- 祈りは本当に物事を変えます。神は被造物に「因果性の尊厳」を与えておられます。
- 「御国がきますように」と祈ることは、この世界が神の望まれる姿ではないと認め、破れ口に立つことです。
- 祈りは私たち自身も変えます。祈りは私たちを神と結びつけ、神の思いやりを分かち合わせ、自分の意志を明け渡すことへと導きます。
- イエスは、真夜中に戸をたたく友人や、裁判官のもとに通い続けるやもめのような、大胆な粘り強さへと私たちを招いておられます。
個人への適用
- あなたは今、どんな祈りの季節にいますか。何時間もの執り成しですか。それとも、難しい会議の前の、土壇場の祈りですか。
- あなたを絶望させている状況で、まだ本当には神に持ち出したことがないもの、あるいは持ち出すのをやめてしまったものはありますか。
- 今週、毎日をこの簡単な祈りで始めてみませんか。「父よ、私はあなたのものです。今日、私に何を語りたいですか。」
- イエスよりも先に来てしまうほど、あなたの心を奪い合っているものは何ですか。快適さ、必要、成功でしょうか。
- 神は、誰のために、また何のために、あきらめない大胆さをもって破れ口に立つようあなたを召しておられますか。
引用された聖書箇所
よくある質問
主の祈りにおける「求める祈り」とは何ですか。
Ruth Mayにとって、それは主の祈りのうち、神が力をもって働かれるよう求める部分です。「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。」この祈りは父との親しさから出発し、祈りは本当に物事を変え、私たち自身も変えるという確信に支えられています。
イエスはなぜ、真夜中に戸をたたく友人のたとえを話されたのですか。
ルカ11章で、このたとえは主の祈りのすぐあとに置かれています。隣人は、友人のしつこさのゆえについに起き上がります。Ruth Mayが読んでいる英語版は、この態度を「shameless audacity」(恥知らずなほどの大胆さ)と訳しています。彼女はここに、神のご性質を知ることに根ざした、大胆で粘り強い祈りへの招きを見ています。
祈りながら泣くのは普通のことですか。
Ruth Mayは、泣くことは聖書的な祈りの方法だという黙想を引用しています。サムエル記上1章で、ハンナは涙を流しながら主の前に魂を注ぎ出しました。彼女は涙を義務にしているわけではありません。けれども、心、体、霊という全人格をかけた、整っていないかもしれない祈りへと招いています。
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