天のように地でも:神の国の考え方

読了時間 12分

はじめに

「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われる通り、地にも行われますように。」フィリップ・ドゥモ(Philippe Demoget)師は、イエスが弟子たちに教えられた祈りのこの数行から語り始めます。弟子たちが祈り方を尋ねたとき、イエスは唱えるための文句を与えたのではなく、「使い方の説明書」を与えられたのです。

このメッセージは、断食と祈りの一週間の終わりに、Église Nice Métropole で語られました。説教者は、二、三人が集まればそこに主がおられると語ります。「では、教会全体が断食して集まるなら、その力を想像できますか。教会の祈りは霊的な世界を動かします。」

テーマは神の国の考え方です。イエスは天に上げられましたが、私たちをこの地に残し、使命を託されました。それは、天をこの地にもたらすことです。そのためには変えられる必要があり、説教者はそれを三つの言葉でまとめます。イエスが考えるように考え、イエスが愛するように愛し、イエスが行うように行うことです。

メッセージの流れ

1. 私たちに染みついた考え方

  • 天のように地で生きることは、自然にできることではありません。私たちは神の国のものではない考え方の中で育ってきました。誰が一番か、「いちばん価値が高い」のは誰か、競争に勝つのは誰かを見ています。「それは弱肉強食の世界です。」
  • 誰かが倒れると、この世の考え方は「自業自得だ、忠告したのに」と言います。誰かが苦しんでいると、人は離れていきます。「苦しみは人を遠ざけることがあります。」
  • こうした反応は、知らないうちに私たちに植えつけられ、「一種の毒」のように私たちの一部になりました。主は、それを変えるよう私たちを招いておられます。
  • パウロは書いています。「この世と妥協してはいけない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ」なさい(ローマ人への手紙12章2節)。すべては内側から始まります。たとえば、兄弟が成功して自分は成功していないとき、何を信じているかが私の反応を決めます。
  • 神の国を理解するには、神の愛を知る必要があります。愛さない者は神を知りません。神は愛だからです(ヨハネの第一の手紙4章8節)。神の国では、愛は「後ろに控える」資質ではなく、第一のものです。

2. イエスのように愛する、恵みとまことに満ちて

  • 「わたしは新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13章34-35節)。この「ように」という言葉は、私たちに問いかけます。イエスは、倒れた人、私たちが拒んだ人、社会から退けられた人を、どのように愛しておられるでしょうか。
  • 言は肉となり、恵みとまことに満ちておられました(ヨハネによる福音書1章14節)。恵みとまことは、ときにぶつかり合う二つの言葉です。「痛いのは真実だけだ」という言い回しもあります。
  • 真理を守り、誤りと戦い、教理を守るけれども、その姿勢に恵みが欠けている人たちがいます。逆に、恵みを愛するあまり、「はっきりものを言う」ことが苦手になっている人たちもいます。
  • イエスが私たちの人生の一部になると、この二面性は消えます。恵みとまことに同時に満ちていることができるのです。

3. 神の国の色合い、義と平和と喜び

  • パウロは神の国を、聖霊による義と平和と喜びだと語ります(ローマ人への手紙14章17節)。これらの色合いは、この世の価値観とぶつかります。
  • あわれみのない正義は恐ろしいものです。ミカ書6章8節はそのバランスを示しています。公義を行い、あわれみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことです。正義は、あわれみとへりくだりによって釣り合いが取れます。
  • 神の国での正義とは、「残酷にならずに正しくあること」です。イエスははっきりとものを言われましたが、その正義は人を辱めず、打ち砕きませんでした。
  • この世では、平和は弱さの結果のように見えることがあります。妥協し、恐れ、受け入れてしまうのです。神の国では、平和は弱さではありません。
  • 霊的なものは厳かで喜びがないもの、という印象を持たれがちです。説教者はその反対を語ります。「神の国には、この世よりもはるかに多くの喜びがあります。」

4. 仕えるためにひざまずく王を見つめる

  • 「この国がどんな国かを知るには、その国を治めているのが誰かを知る必要があります。」神は、ご自分の国についての論文を書くこともおできになりました。しかし、私たちにイエスを与えてくださいました。
  • 二人の弟子が、イエスの右と左に座りたいと願い、「母親を通して」頼みます。イエスは十二人を呼び集められました。偉くなりたい者は仕える者に、頭になりたい者は奴隷になりなさい。人の子も、仕えられるためではなく、仕えるために来たからです(マタイによる福音書20章20-28節)。
  • この世の考え方は問います。何人が私に仕えているか。神の国の考え方は問います。「受けたものを用いて、私は何人に仕えることができるだろうか。」
  • 父がすべてを御手に渡されたことを知って、イエスは立ち上がり、手ぬぐいを取り、弟子たちの足を洗われます(ヨハネによる福音書13章3-5節)。ご自分を裏切ることを知りながら、ユダの足も洗われました。宇宙を造られた方の手が、奴隷に任されていた仕事である足洗いをするのです。
  • 「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネによる福音書13章15節)。「王が宇宙を造った国では、王が仕えるためにひざまずくのです。」
  • ピリピ人への手紙2章5-8節はさらに進みます。キリストはご自身をむなしくして、僕のかたちをとり、十字架の死に至るまで従順でした。説教者はユーモアを交えて、御子が父に「人類を悪魔に任せて、別の人類を造りましょう」と提案する場面を想像します。「もしイエスが投げ出していたら、私たちは誰の手の中にいたか想像できますか。」
  • イエスは今も私たちの足を洗い続けておられます。「神は、私が神のためにするよりはるかに多くのことを、私のためにしてくださっています。」気づかないうちに、さまざまなことから守ってくださることもあります。「上に立つ者とは、仕える者のことです。」

5. 人が遠ざかる人のところへ行かれるイエス

  • 律法のもとで、らい病の人は隔離されて生きていました。病と孤独の両方を背負っていたのです。イエスは、ほかの人たちにされたように、離れたところから癒すこともおできになりました。しかしイエスはその人にさわり、「よろしい、きよくなれ」と言われました(マタイによる福音書8章2-3節)。イエスは距離をなくし、この人を社会に連れ戻されたのです。
  • イエスは付き合う相手を非難されました。ローマのために税を集め、その途中で私腹を肥やしていた取税人たちと食事をされたからです。「今なら、あれは裏切り者だと言われたでしょう。」
  • イエスは、丈夫な者に医者はいらない、いるのは病人だ、と答えられます(マタイによる福音書9章12-13節)。医者は病気を否定しません。イエスは罪を正面から見つめながら、罪人を愛されました。宗教の世界は、罪の中で苦しむ人と罪そのものを混同していたのです。
  • ザアカイは取税人の頭で、「いちばん懐に入れていた」人でした。イエスは、彼がまともな人になるのを待たず、その木の下を通り、彼の家に自分から泊まりに行かれます。受けた恵みによって、ザアカイは奪ったものを返し、貧しい人々に施すようになりました(ルカによる福音書19章1-10節)。
  • そこでイエスの招きがあります。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイによる福音書11章28-29節)。説教者は言い換えます。「元気なら、おいで。元気でなくても、おいで。」イエスのうちに、私たちは安らぎを見いだします。

6. 強さと勝利の別の定義

  • 神の国の価値観は、この世のものと少し違うのではなく、「まったく正反対」です。八福の教えがその姿を描いています。心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢えかわく人、あわれみ深い人、心のきよい人です(マタイによる福音書5章3-8節)。「勝者の肖像とは言えません。」それでもイエスは彼らに言われます。あなたがたは幸いです。
  • 私たちの考え方は、美しいものをねじ曲げ、最初の幸いの教えまで歪めてしまうことがあります。
  • この世では、強い男は映画『300』の戦士のようであり、英雄とは征服者です。しかし御言葉は言います。「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる」(箴言16章32節)。強い人とは、傷つけられても、悪に悪を返すことを拒む人です。人の怒りは神の義を行うものではありません(ヤコブの手紙1章19-20節)。
  • 「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」(マタイによる福音書5章9節)。聖書は「平和を愛する人」とは言っていません。独裁者でさえ平和を愛していると言うでしょう。平和をつくり出すとは、こう言うことです。「私は傷つけられた。でも、悪に二度勝たせることは拒む。」自分を傷つけた人の姿に形づくられることを拒むことです。
  • 「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい」(ローマ人への手紙12章18節)。聖書は現実的です。引くべき境界線があり、自分の力の及ばないこともあります。それでも、平和を築くと決めましょう。
  • 「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイによる福音書5章44節)。イエスは傷つけられたことを否定されません。「そう、あなたは苦しんでいる。でも、あなたを苦しめた人があなたの模範ではない。あなたの模範は、わたしだ。」
  • 敵の頭に積まれる燃える炭火について(ローマ人への手紙12章20節)、説教者は教父の一人、たしかエイレナイオスの考えを引用します。燃えるものは、悪いものを焼き尽くす、というものです。敵に良いことをすれば、その人生を変えることがあります。「その人がもう敵ではなくなり、あなたの兄弟になるために。」

7. 天の喜びと王の代表者たち

  • 「よく言っておくが、それと同じように、神の使たちの前でも、ひとりの罪人が悔い改めるなら、よろこびがあるであろう」(ルカによる福音書15章10節)。お祝いは私たちの専売特許ではありません。地上よりも天のほうに、より多くの喜びがあります。
  • イエスは最初の奇跡を、喜びの場である婚礼で行われました。水をぶどう酒に変えることで、ある家族が公の場で恥をかくことを防がれたのです(ヨハネによる福音書2章1-11節)。この世の考え方なら、ぶどう酒がなくなったのだから、しらふでいればいい、と言ったでしょう。
  • 神は、善をもって悪に勝つよう(ローマ人への手紙12章21節)、そして神の国の考え方によってこの世を変えるよう、私たちを招いておられます。
  • 説教者は、あるテレビ討論の話をします。そこでは、教皇がイエス・キリストの地上の代表者として紹介されていました。「代表者が一人だけだとしたら、ちょっと寂しいですね。」私たちはみな、イエスの代表者であり、大使なのです。
  • 神も教会も知らない人が、あなたとだけ関わっているとしたら、王座に座っておられる方について、どんな印象を持つでしょうか。
  • ファリサイ人たちも同じ律法、「同じ聖書」を持っていました。違いは、御言葉の理解の仕方と、罪人の迎え方にありました。神の国の考え方は、「パンとさそりの違いを生むもの」です(ルカによる福音書11章11-12節)。「それは私たちの社会を変えることができます。私たちのキリスト教を魅力あるものにするのが、それだからです。」
  • 説教者は締めくくりの祈りで、この考え方が御霊の実となり、それに反する律法はないと言われるものとなるよう(ガラテヤ人への手紙5章22-23節)、そして教会が主の「すてきな名刺」となるよう求めます。

心に留めたいこと

  • イエスは私たちを地に残し、使命を託されました。イエスのように考え、愛し、行うことで、天をこの地にもたらすことです。
  • 変えられることは、心の一新から始まります。何を信じているかが、あなたの反応を決めます。
  • 神の国では、恵みとまことに同時に満ち、残酷にならずに正しくあることができます。
  • 神の国の王は、ひざまずいて足を洗われました。上に立つ者とは、仕える者のことです。
  • 平和をつくり出すとは、悪に二度勝たせることを拒むことです。神の国の考え方こそが、キリスト教を魅力あるものにします。

私たちへの問いかけ

  1. この世の反応のうち、どれがあなたの中に根づいていますか。倒れた人を裁くこと、苦しむ人から離れること、成功した兄弟と自分を比べることなどです。
  2. 人間関係の中で、あなたは恵みのないまことに傾いていますか。それとも、もうまことを語る勇気のない恵みに傾いていますか。
  3. 受けたものを用いて、今週、何人の人に仕えることができますか。
  4. あなたが距離を置いてきた「付き合いにくい」人は誰ですか。イエスはその人のもとへあなたを遣わしておられませんか。
  5. 受けた傷によって、あなたは自分を傷つけた人の姿に形づくられていませんか。悪に二度勝たせることを拒むとは、あなたにとってどういうことでしょうか。

引用された聖句

よくある質問

「天のように地でも」とはどういう意味ですか。

この言葉は主の祈りに由来します。フィリップ・ドゥモ(Philippe Demoget)師によれば、イエスは私たちをこの地から取り去られたのではなく、天をこの地にもたらすという使命とともに、ここに残されました。それには考え方が変えられる必要があり、次のようにまとめられます。イエスが考えるように考え、イエスが愛するように愛し、イエスが行うように行うことです。

どうすれば恵みとまことに同時に満ちることができますか。

ヨハネによる福音書1章14節は、言が肉となり、恵みとまことに満ちていたと語ります。説教者は、まことを守っても恵みが欠けている人がいること、また恵みを愛するあまり、はっきりものを言えなくなっている人がいることを指摘します。神の国の考え方では、この二面性は消えます。イエスは、残酷にならずに正しくあられたのです。

平和を愛することと、平和をつくり出すことはどう違いますか。

誰もが平和を愛していると言います。平和をつくり出すとは、傷つけられた後でも、平和が打ち立てられるようにすることです。フィリップ・ドゥモ(Philippe Demoget)師は、これを次の言葉に要約します。「悪に二度勝たせることは拒みます。」自分を傷つけた人の姿に形づくられることを拒み、善をもって悪に勝つことです。

「Vie intérieure」の説教をすべて見る

Église Nice Métropoleの説教を見逃さない

新しいメッセージの要約をお届けします。

メモを取ったり質問したりするにはサインインしてください。

WhatsAppチャンネルに参加

今日のブーストと新しい教えを、WhatsAppで直接受け取れます。

チャンネルに参加する

無料・登録不要。あなたの電話番号は他のメンバーには表示されません。

このテーマの関連ページ

関連記事

説教の公開元 Église Nice Métropole. 説教全体を見る のチャンネルで.

← ブログに戻る

天のように地でも:神の国の考え方 | Efficient Church