はじめに
棕櫚の主日は、受難週の幕開けです。この一週間、教会はキリストが私たちのためになしてくださったことを心に刻みます。エルサレムへの勝利の入城、宮の清め、弟子たちの足を洗われたこと、裏切り、十字架、墓、そして復活。この激動の一週間の真ん中で、イエス様は宮において短くも壮大な約束を含む言葉を語られます。「わたしの家は、すべての国民の祈りの家と呼ばれる」。この言葉はどこから来ているのでしょうか。王として迎えられたその翌日に、なぜイエス様はこの言葉を引用されたのでしょうか。そして、それは今日のあなたにとって何を意味するのでしょうか。イザヤ56章1〜8節と、ソロモンの神殿奉献の場面(歴代誌第二6章)にさかのぼると、神様がいつもあらゆる国民をご自分のもとに集めたいと願っておられたことが見えてきます。人が排除してしまうような人々さえも。そしてこの計画はキリストにおいて成就し、あなたを通して今も続いているのです。
メッセージの構成
1. イザヤ56章に根ざしたイエス様の言葉
- イエス様は歓呼の声を浴びながらエルサレムに入城されたばかりでした。そして宮に上り、両替人の台をひっくり返されます。そこで宣言されたのが「わたしの家は、すべての国民の祈りの家と呼ばれる」という言葉です。これは決して衝動的な発言ではありません。すべてのユダヤ人が知っているある預言、イザヤ56章1〜8節を引用されたのです。
- この預言はこう始まります。「主はこう言われる。『あなたがたは公正を守り、正義を行え。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現れるのも近いからだ』」(イザヤ56:1、口語訳的表現)。神様は苦しむ人々、取り残された人々を見ておられます。イザヤ書のこの文脈では、神様は捕囚からの帰還を預言されたばかりでした。民は偶像に従い、安息日を守ることを拒み、神様はバビロンによって彼らを連れ去らせました。しかし神様は、彼らを連れ戻し、エルサレムと神殿を再建すると約束されます。
- これらの預言の中に繰り返し現れる人物がいます。それが「主のしもべ」です。民のために苦しむ方、いのちを差し出す方です。私たちはみな、自分勝手にさまよう羊のような者ですが、この方は羊を集め、いのちを与える羊飼いです。イザヤ56章は、まさにこのしもべについて語った直後に置かれており、さらに先を見つめています。神様が人類とすべてのものをご自分と和解させてくださる時代です。
- あなたの人生、社会、そして世界の中に、どれほど多くの対立や緊張があるでしょうか。神様はそれが永遠に続くことを望んではおられません。神様は完全な和解の時をすでに備えておられます。そしてその和解は、まさに人が普段排除してしまう人々から始まるのです。
2. 神様は人が拒む者たちを招かれる
- 人間にはいつも、選り分けようとする傾向があります。「自分たちの側」と「あちら側」です。校庭でさえ、小さな「私たち」と小さな「あの人たち」が生まれます。そして「あの人たち」が「私たち」になった途端、また新しい「あの人たち」を探し始めます。これが私たちの心です。しかし神様は、すべての人が神様の御前に招かれる時を見据えておられます。
- 神様は具体的に二つのグループを名指しされます。宦官と異邦人です。「主に連なる異邦人は言うな、『主は必ずわたしをご自分の民から切り離される』と。宦官も言うな、『見よ、わたしは枯れ木だ』と」(イザヤ56:3)。宦官は、しばしば富裕な家庭や宮廷で仕えるために体を傷つけられ、集会から排除されていました。彼らは、自分に責任のないまま人生の中で疎外されるすべての人を象徴しています。異邦人は、自分を変えてくださる神を探し求めるすべての人類を象徴しています。心の奥底で、どこかに正義があるはずだと感じながら。
- この二つのグループに、神様は驚くべきことを約束されます。「わたしは彼らに、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子や娘にまさる記念の名を与える。わたしは彼らに、絶えることのない永遠の名を与える」(イザヤ56:5)。そして異邦人にはこう言われます。「わたしは彼らをわたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを喜ばせる……。わたしの家は、すべての国民の祈りの家と呼ばれるからだ」(イザヤ56:7)。
- この招きに入る道は何でしょうか。それは契約です。言葉の一つひとつが大切です。「主」と読むとき、それは「ヤハウェ」という名前、すなわち関係の名、契約の名です。そして神様が言及される安息日は、単なる祝日ではありません。それは、あなたに安息を与えてくださる神様を祝う日です。結婚記念日が「一日」ではなく「結婚そのもの」を祝うのと同じです。記念日を忘れる夫は困ったものです! これは、行いによって救いを勝ち取ることではありません。イスラエルはすでに罪に陥り、神様の純粋な恵みのみによって回復される必要がありました。神様はただシンプルに、その恵みへと招いておられます。太陽が、最悪の罪人にも最も清い聖徒にも等しく降り注ぐように。
3. ソロモンの神殿奉献にすでにあった約束
- 異邦人に開かれた神殿という計画は、イザヤ56章で初めて出てきたものではありません。それより七百年も前、ソロモンの神殿奉献の日に、すでにそこにありました。父ダビデがすでに準備していた、七年にわたる建築でした。そしてその日、祭司たちが「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに至る」と歌ったとき、彼らはいけにえの火を灯す必要さえありませんでした。火は天から下り、主の臨在があまりにも強く、彼らは立っていることさえできませんでした。
- そこでソロモンは立ち上がり、祈ります。その祈りは預言的なものでした。聖霊が彼を通して語られたのです。彼は異邦人のために明確にとりなします。「あなたの民イスラエルに属さない異邦人が、あなたの大いなる御名、力強い御手、伸ばされた御腕のゆえに、遠い国からやって来て、この家に向かって祈るときは、あなたの住まいである天でお聞きになり、その異邦人があなたに求めるすべてをかなえてください。それは地のすべての民があなたの御名を知るためです」(歴代誌第二6:32-33)。
- イザヤ56章は、後になって、この大きな文学的な円環を閉じます。第2章で、イザヤはすでに、主の山が他の山々の上に高くそびえ、諸国の民がそこに向かい、律法を学び、もはや戦いを学ばなくなると告げていました。書の終わりに近いこの「すべての国民の祈りの家」という預言が、その円環を閉じるのです。神様は、あらゆる人間の多様性を超えたみわざを成し遂げられます。
- これは組織でも、団体でも、ユートピアでも、夢でも、フィクションでもありません。キリスト・イエスにある者すべての未来なのです。そして神様ご自身が、この約束の下に署名しておられます。「イスラエルの散らされた者たちを集める主なる神は、こう告げる。わたしはさらに、すでに集められた者たちに、他の者たちも集めよう」(イザヤ56:8)。契約書に押された印のように。決定済みで、実行済みなのです。
4. イエス様が成就し、神殿を建て直される
- エルサレムの場面に戻りましょう。イエス様はちょうど王として宣言されたばかりです。それは正しいことです。イエス様は実際に王だからです。そして宮に入られます。そこで何を目にされたでしょうか。まさに異邦人や疎外された人々が集まって神様を賛美できるはずの場所で、商売が行われていました。商人たちが、まさに礼拝の瞬間に人々から法外な料金を取っていたのです。父なる神様の本来の意図は、「わたしの家は、すべての国民の祈りの家と呼ばれる」ことでした。イエス様は、メシアであり、イスラエルの王として、商人たちが異邦人の祈りを妨げることを許すことはできませんでした。
- しかしイエス様の行動は、単なる浄化以上に根本的なものでした。もし象徴的なしるしだけを望んでおられたなら、水を振りかけるだけでもよかったはずです。しかしイエス様はこう告げられます。「石が石の上に残ることはない」(ルカ21:6)。これは、古い体制に対する、そしてイエス様をメシアとして受け入れようとしない者たちに対する裁きです。パリサイ人たちが弟子たちを黙らせるよう求めたとき、イエス様はこう答えられます。「あなたがたに言っておく。もし彼らが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)。古い秩序は終わり、新しい王が到来されたのです。
- この戦いは、根本的には宗教指導者たちに対するものではありません。堕落した秩序に対する戦い、人類を昔から神様への反逆へと駆り立ててきた悪魔に対する戦いです。イエス様は悪魔のわざを打ち破るために来られました(第一ヨハネ3:8)。そして、より良い約束の上に立つ、より良い神殿を建てるために来られたのです。
- その神殿とは何でしょうか。イエス様ご自身の体です。「この神殿を壊してみよ。わたしは三日でそれを建て直す」(ヨハネ2:19)。神殿とは、座って話を聞くだけの教会堂とは違います。神様が住まわれる場所、赦しを求め、感謝をささげ、身を清め、神様と出会う場所です。イエス様は受肉された神様です。イエス様と出会うことは、神様と出会うことです。イエス様は私たちの罪を赦すために来られました。イエス様こそ、神殿の成就なのです。
5. そして今、あなたがこの祈りの家です
- イエス様が真の神殿であり、聖霊があなたに与えられているなら、聖書はあなたに驚くべきことを告げています。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたのうちに住んでおられることを知らないのですか」(第一コリント3:16)。あなたは他の信者たちとともに、神様がイザヤ56章からずっと望んでこられた、あの祈りの家なのです。
- そしてイエス様は、まさにこの預言に応える使命をあなたに委ねられました。「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)。安心できる小さな「私たち」にとどまることではありません。自分に似た人々の周りに柵を作ることでもありません。神様がずっと望んでこられたように、すべての国民のもとへ行くのです。
- イエス様はすでに別のイメージでこのことを語っておられました。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、わたしの羊もわたしを知っている……。わたしには、この囲いに属さない、ほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。彼らはわたしの声を聞き分け、ついには一つの群れ、一人の羊飼いとなる」(ヨハネ10:14-16)。イスラエルの羊飼いは、全人類の羊飼いとなられたのです。
- 今週、あなたの周りを見渡してみてください。同じ場所に、どれほど多くの異なる民族が座っているでしょうか。男も女も、ユダヤ人も異邦人も、若者も年配者も、富める者も貧しい者も、私たちはみな、キリスト・イエスにあって一つです(ガラテヤ3:28)。それはすでに、あなたの目の前で、神様が約束された「すべての国民の祈りの家」なのです。そしてこの受難週、神様はあなたに、周りの人々とこの希望を分かち合う機会を与えてくださっています。
ポイントのまとめ
- イエス様が「わたしの家は、すべての国民の祈りの家と呼ばれる」と言われたとき、それはイザヤ56章7節の引用です。即興の言葉ではなく、古い預言の成就なのです。
- 神様がまず目を向けられるのは、社会から排除された人々です。イザヤ56章の宦官と異邦人は、疎外されたすべての人々、そして遠くから神様を求めるすべての人々を象徴しています。
- この計画は、すでにソロモンの神殿奉献の時から存在していました(歴代誌第二6:32-33)。神様はいつも、異邦人がご自分の家で祈り、それが聞かれることを望んでおられました。
- イエス様による神殿の清めは、単なる清掃ではありません。古い体制への裁きであり、新しい神殿。三日で復活されるイエス様ご自身の体。の宣言なのです。
- あなたは今日、キリストにあって、すべての国民の祈りの家を形づくる一つの石です。あなたの使命はイザヤ56章と一致しています。「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)。
個人への適用
- あなたの周りにいる「宦官」や「異邦人」とは誰でしょうか。社会や、時には教会さえもが遠ざけてしまう人々です。今週、神様とともに「あなたは招かれている」と伝えるために、どんな具体的な行動を取ることができるでしょうか。
- あなたの心の中で、「私たち」と「あの人たち」の境界線をどこに引いているでしょうか。反射的に排除してしまう、あるグループや文化、階層、世代はありませんか。
- イザヤ書のこの箇所において、安息日はまず規則ではなく、あなたを救ってくださる神様を祝うものです。あなたの人生には、神様があなたのためになしてくださったことを祝うために立ち止まる、定期的なリズムがありますか。
- イエス様は、異邦人の祈りが妨げられていたために、神殿を清められました。あなたの人生やコミュニティの中で、「他者」の祈りを妨げているものは何でしょうか。見下す態度、複雑な手続き、内輪意識など。
- あなたご自身が聖霊の祈りの家であるとしたら、それを具体的に生きる一週間とは、どのようなものでしょうか。もっと祈り、もっと受け入れ、もっと耳を傾けること。
引用された聖句
- イザヤ 56:1-8 · わたしの家はすべての国民の祈りの家
- イザヤ 2:1-4 · 諸国の民が主の山に来る
- 歴代誌第二 6:32-33 · 異邦人のためのソロモンの祈り
- ルカ 19:39-40 · 彼らが黙れば石が叫ぶ
- ルカ 21:6 · 石が石の上に残ることはない
- ヨハネ 2:19 · この神殿を壊せ、三日で建て直す
- ヨハネ 10:14-16 · ほかの羊もいる、一つの群れ、一人の羊飼い
- 第一コリント 3:16 · あなたがたは神の神殿である
- マタイ 28:19 · 行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい
- ガラテヤ 3:28 · あなたがたはみなキリスト・イエスにあって一つ
- 第一ヨハネ 3:8 · 神の子は悪魔のわざを打ち破るために来られた
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よくある質問
イエス様はなぜ、神殿を清められる際にイザヤ56章を引用されたのですか?
イエス様が目にした光景が、まさに神様の計画を裏切っていたからです。イザヤ56章は、神殿がすべての国民の祈りの家となり、異邦人や社会が排除する人々にも開かれることを約束していました。しかしイエス様が見出したのは、異邦人の庭が市場に変えられ、まさに祈りがささげられるべきその瞬間に、商人たちが祈りへのアクセスを妨げている光景でした。イザヤ56章7節を引用することで、イエス様は父なる神様の本来の意図を思い起こさせ、王でありメシアとして、御父の家がそもそも誰のために建てられたのかを忘れてしまった宗教体制に対する裁きを宣言されたのです。
イザヤ56章に出てくる「宦官」や「異邦人」とは誰のことですか?
宦官は、多くの場合、王宮や富裕な家庭に仕えるために体を傷つけられた男性たちでした。律法によれば、彼らはイスラエルの集会から排除されていました。この文脈では、彼らは自分の責任ではないのに疎外されているすべての人々を象徴しています。異邦人はユダヤ人以外のすべての人々を指し、心の奥底に「どこかに見出すべき正義がある」という直感を抱きながら神様を探し求める全人類を表しています。この二つのグループに、神様は御自分の家における場所と、永遠の名前と、祈りが聞かれることを約束されました。それは、キリストがこの約束を成就される、はるか以前のことです。
この預言は、今日の私にどう関係があるのですか?
イエス様はイザヤ56章の預言を二つの仕方で成就されました。まず、ご自身が真の神殿となり、壊され、三日で建て直されたことによって(ヨハネ2:19)。次に、イエス様を信じるすべての人々を、共に、御霊の神殿としてくださったことによって(第一コリント3:16)。もしあなたがキリストにあるなら、あなたは、すべての国民のための祈りの家を形づくる生ける石です。このことは、あなたの祈りの姿勢を変えます。世界全体を意識した祈りへと。そして、あなたの使命を方向づけます。「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)。言い換えれば、神様が「すべての国民」を見つめておられるとき、あなたは自分の小さな「私たち」の中にとどまり続けることはできないのです。
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