はじめに
高校時代、Zim Okoli にはライバルがいました。二人は毎年、数学と物理の一位を争っていました。教室の外でも優位に立とうと、Zim は人気者のグループに入ることに成功しました。得意になっていたのですが、ある日曜日、そのクラスメートが自分の教会の最前列に座っているのを見てしまいます。最初に思ったことを、Zim は率直に告白しています。「ここまで来て全部台なしにするなよ。ここは僕の居場所なんだ」。
次の日曜日も、そのクラスメートはそこにいました。現在 Holy Trinity Clapham でホームグループを統括している Zim Okoli にとって、それは神が現れて、ある問いを突きつけておられるということでした。「あなたは、わたしの共同体を築く石なのか。それとも、つまずきの石なのか」。
これが、マタイによる福音書18章1節から19章2節のこのメッセージの流れです。イエスはご自分の教会を築くために、つまずきの石を正されます。つまずきの石とは、私たちが人の行く道に置いてしまうもので、その人に「ここに自分の居場所がある」と感じさせなくするすべてのものです。説教者は、神が共同体を築かれる三つの方法を示します。偉大さではなく謙遜によって、軽蔑ではなく思いやりによって、激しい怒りではなくゆるしによって築かれるのです。
メッセージの構成
1. 築く石か、つまずきの石か
- イエスは非常に厳しい言葉を語られます。「しかし、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる」(マタイ18章6節)。
- 人をつまずかせるとは、その人がイエスに従うことから離れてしまうようなことを、何であれすることです。
- 「小さい者」とは、子どもだけを指すのではありません。イエスを信じるすべての人のことです。
- 教会に居場所があるはずの人に、居場所がないと感じさせるとき、私たちはつまずきの石になります。イエスはこれをひどく嫌われます。だからこそ、その警告はこれほど強いのです。
2. 偉大さではなく謙遜
- その直前に、イエスは王の子として免除されていたにもかかわらず、「彼らをつまずかせないために」神殿税を払われました(マタイ17章24-27節)。
- ところが弟子たちは、つまずきの石についてはまるで気にもとめず、王国のことだけを心に留めています。「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」(マタイ18章1節)。マルコとルカによれば、この質問をしたのはヤコブとヨハネで、まるでペテロの地位を奪おうとしているかのようでした。
- イエスは一人の子どもを彼らの真ん中に立たせて言われます。「よく言っておくが、心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」(3節)。
- 一世紀において、子どもには何の権利もありませんでした。子どものようになるとは、自分の地位をめぐる争いをやめ、教会のすべての人を自分より上に置く用意をすることです。
- 説教者のホームグループでは、赤ちゃんが夜のあいだ、一言も発することなく、抱きたい人から人へと腕から腕へ渡されていきます。「御国における偉大さとは、あなたを必要としている人のところへ行くことです」。
- 礼拝に250人から300人が集まる中では、受付チームだけでは足りません。説教者は、一人ひとりが「ホスト」のようにふるまうことを提案します。英語の HOST にならって、あいさつをする、助けが必要なことに気づく、ほかの人につなぐ、知らない人のために時間を割く、ということです。
- 説教者は、教会の有給スタッフでありながら、知らない人に話しかけるのは苦手だと打ち明けます。そこで彼の挑戦はこうです。毎週日曜日、まだ知らない人と一度は本当の会話をしてみましょう。
3. 軽蔑ではなく思いやり
- Zim は教会ではクラスメートに礼儀として話しかけていました。しかし月曜日の学校では、一日中彼を避けていたのです。「僕はつまずきの石であっただけでなく、石頭でもありました」。
- 聖霊は彼に確信を与えました。「学校で愛をもって彼に近づかないなら、あなたが何を言い聞かせようと、教会でも彼の兄弟ではない」。
- 「あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい」(10節)。このギリシャ語は、人を見下し、軽蔑や嫌悪をもって、その人を注意を払う価値のない者と判断することを意味します。「それはまさに、私の態度そのものでした」。
- 迷い出た羊のたとえ(12-14節)。良い羊飼いは、一匹が外に残されたままで満足しません。九十九匹を残して、迷った一匹を夜通し捜し、その羊を愚か者呼ばわりすることもありません。
- 心がやわらいだとき、Zim はクラスメートを気にかけ、自分の友人たちとの会話に彼を入れるようになりました。驚いたことに、友人たちも彼を気に入りました。
4. 輪を広げる
- C. S. ルイスはエッセイ『内輪』の中で、小さな輪が必要であることは認めています。しかし別の種類の輪、つまり「排除するために存在する」輪、「仲間はずれがいなければ何の楽しみもない」ような輪については警告しています。そのような輪は軽蔑から生まれるもので、教会には存在してはなりません。
- イエスにはいくつかの輪がありました。親しい友ひとり(愛された弟子ヨハネ)、三人(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)、十二人、七十人、そして群衆です。
- 一人や三人の輪は安定していますが、外側の輪は開くことができます。礼拝のあとの会話に新しく来た人を入れる、ホームグループに空きがあることを知らせる、といったことです。
- 説教者は妻とともに、日曜日の昼食に教会の人たちを定期的に招いています。よく知っている人に加えて、あまり知らない人を一、二人招くのです。すると、招かれた人どうしが友達になることがよくあります。
- それには犠牲が伴います。しかし、あなたが迷った羊だったとき、あなたを連れ戻すために命を捨ててくださった羊飼い、そして倒れるたびにあなたを捜しに来てくださる羊飼いのことを思い出してください。
5. 激しい怒りではなくゆるし
- ペテロは、思いやりを示せば何度もゆるさなければならなくなると悟りました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、何度ゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」(21節)。
- ユダヤの慣習では、三度ゆるすと言われていました。ペテロは完全数である七と言い、効果を確信しています。彼は、イエスが彼のために特別に仕立てたアルファコースの第六回目にいるようなもので、すべて分かったつもりでいるのです。
- イエスは答えられます。礼拝で読まれた訳では「七十七回」です(口語訳では「七たびを七十倍するまで」、22節)。大切なのは数えることではなく、数えるのをやめることです。
- イエスはカインの子孫レメクを思い起こさせます。「カインのための復讐が七倍ならば、レメクのためには七十七倍である」(創世記4章24節)。それは限りのない激しい怒りでした。イエスはその像を逆転させます。教会には、ゆるしの限度はありません。
- 説教者は、自分の教会が怒りのない場所ではないことを認めています。深刻な侵害もあれば、ゆるすのに苦労している人もいます。彼自身も、クリスチャンをゆるすほうが難しいと感じています。兄弟として接してくれると期待していたからです。
6. 比べものにならない二つの負債
- 最初のしもべは一万タラントの負債を負っています。およそ20万年分の給料に当たり、返せるはずのない借金です(24節)。二番目のしもべは百デナリの負債で、およそ三か月半分の給料です(28節)。
- 他の人が私たちに対して犯す罪は現実のものであり、代償を伴います。けれども、無限で、聖く、威厳に満ちた神に対する私たちの罪と比べれば、それはごくわずかです。「ブラックのアメリカン・エキスプレスカードを持っていたとしても、その負債の足しにすらなりません」。
- 主人は「あわれに思って」負債を免除します(27節)。欠乏の考え方から、豊かさの考え方へと移るのです。限りないゆるしを与えられたのに、限りのあるゆるししか差し出さないことなど、どうしてできるでしょうか。
- ティモシー・ケラーは、ゆるしについての著書の中で、ゆるすとは受けた傷を繰り返し再生するのをやめることだと説明しています。それは、他の人に対しても、その本人に対しても、自分自身に対してもです。ただし、人の保護や刑事に関わる事案は、当局に通報すべきです。
- 関係を回復するには、与えた傷が認められる必要があります。しかし、理想的な謝罪がなくても、ゆるすことはできます。
- アパルトヘイトによって苦しみ、真実和解委員会の議長を務めたデズモンド・ツツは、「ゆるしなくして未来はない」と語りました。憎しみを抱き続けるかぎり、私は神が私のために備えておられる未来から、自分の魂を閉じ込めてしまうのです。
7. イエスは十字架への道を歩まれる
- 「イエスはこれらの言を語り終えてから、ガリラヤを去って、ユダヤの地方に行き、ヨルダンの向こう側に来られた」(マタイ19章1節)。マタイによる福音書では、この表現が教えの大きなまとまりを締めくくります。この箇所は最後のまとまりの始まりであり、イエスは十字架に向かって出発されるのです。
- まるでこう言っておられるようです。「わたしが子どもよりも低くなるのを見なさい。あなたがたが神の子どもとなるためです。わたしが退けられるのを見なさい。あなたがたが群れに連れ戻されるためです。わたしがさばきの激しい怒りを負うのを見なさい。あなたがたがゆるされた共同体となるためです」。
- メッセージは聖餐式で終わります。主の食卓に来て、つまずきの石を十字架の足もとに置き、謙遜と思いやりとゆるしの共同体を築く神の働きに加わるのです。
ポイント
- つまずきの石とは、信者に教会に居場所がないと感じさせるすべてのものです。イエスはこれを非常に重く受け止められます。
- 御国における偉大さとは、自分の地位を手放し、あなたを必要としている人のところへ行くことです。
- 良い羊飼いは、外に残された羊一匹で満足しません。排他的な輪は教会にふさわしくありません。
- 教会には、ゆるしの限度はありません。神が私たちにゆるしてくださった負債は、他の人が私たちに負っている負債よりも、はるかに大きいからです。
- 理想的な謝罪がなくても、ゆるすことはできます。それは、傷を繰り返し再生するのをやめることです。
個人的な適用
- あなたの教会に、日曜日にはあいさつをするものの、一週間のほかの日には避けている人はいませんか。
- 次の日曜日、まだ知らない人の中で、誰と本当の会話ができるでしょうか。
- あなたの「十二人」や「七十人」の輪に、誰を迎え入れることができるでしょうか。昼食への招待、グループでの席、礼拝のあとの会話などです。
- どんな傷を、あなたはいまも他の人に、その本人に、あるいは自分自身に対して繰り返し再生していますか。
- その傷を、神があなたにゆるしてくださった負債と比べて測ってみたら、何が変わるでしょうか。
引用された聖書箇所
- マタイによる福音書18章1-35節
- マタイによる福音書19章1-2節
- マタイによる福音書17章24-27節
- マルコによる福音書9章33-37節
- ルカによる福音書9章46-48節
- 創世記4章23-24節
よくある質問
マタイ18章6節の「これらの小さい者のひとりをつまずかせる」とはどういう意味ですか。
Zim Okoli によれば、人をつまずかせるとは、その人がイエスに従うことから離れてしまうようなことを、何であれすることです。「小さい者」とは子どもだけを指すのではなく、イエスを信じるすべての人のことです。教会に居場所があるはずの人に、居場所がないと感じさせるとき、私たちはつまずきの石になります。
なぜイエスは七十七回ゆるすと言われたのですか。
イエスは、創世記4章のレメクの数字を取り上げておられます。レメクは七十七倍の復讐を求めました。それは限りのない怒りでした。イエスはその像を逆転させます。教会には、ゆるしの限度があってはなりません。大切なのは数えることではなく、数えるのをやめることです。
謝罪を受けなくてもゆるすことはできますか。
できます。Zim Okoli は、関係を回復するには傷が認められる必要があるものの、理想的な謝罪がなくてもゆるしは可能だと説明しています。神にゆるされた人は豊かさの中に生きており、心の中でも頭の中でも、傷を繰り返し再生するのをやめることを選べるのです。