生きた礼拝を捧げる

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はじめに

あなたは毎週日曜日に礼拝に行っているかもしれません。賛美を歌い、説教を聞き、兄弟姉妹と食事を分かち合う。そして家に帰れば、また一週間が始まっていきます。その礼拝は、神様にとって十分なものなのでしょうか。

ローマ人への手紙12章から語られたこのメッセージの中で、ルッツ牧師は心をかき乱すような問いを投げかけます。二人の人が隣同士に座り、同じ賛美歌を歌い、同じ祈りを祈っていても、神様は片方の礼拝を受け入れ、もう片方を退けられることがあるというのです。その違いは、たった一つの言葉にあります。それは「生きている」という言葉です。生きた礼拝を捧げるとは、日曜日の朝に起き上がることだけではありません。あなたの体全体、一週間全体、人生全体を神様にお捧げすることなのです。

ローマ人への手紙12章が、見せかけの信仰生活から抜け出し、父なる神様が喜んで受け取ってくださる礼拝へとあなたを招いていることを、これから見ていきましょう。

メッセージの構成

1. 主の日は一週間かけて備えられる

日曜日は、ほかの日とは違う特別な日です。シナイ山でモーセに与えられた第四の戒め以来、神様は「これを覚えて、聖なるものとする」ために一つの日を取り分けてくださいました。ユダヤの民は今も土曜日に安息日を守っています。私たちクリスチャンは、キリストが復活された日であることから、日曜日を主の日として大切にしています。

しかし、これほど慌ただしい社会の中では、毎日があらゆる方向に引っ張られていきます。便利な道具が増えるほど、予定表はますます埋め尽くされていきます。会社員も、専業主婦も、学生も、退職された方も、誰一人としてこの流れから逃れられません。そうして日曜日になると、疲れがこう叫ぶのです。「今日は寝ていていい。よく頑張ったのだから」と。

まさにそこで、一つの選択が問われます。ルッツ牧師ははっきりと語ります。あなたの一週間は、日曜日を目指して組み立てられるべきであって、その逆ではありません。時間が余ったから礼拝に来るのではなく、あなたが創造主を礼拝するために造られた存在だからこそ来るのです。六日間を、主に一日を捧げるための備えとする。この発想の転換だけで、あなたが神様に捧げる礼拝の質はすでに変わり始めます。

2. あなたの体を生きた供え物として捧げる

この章の中心はここにあります。「兄弟たち。こういうわけで、神のあわれみのゆえに、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたのなすべき霊的な礼拝です」(ローマ12:1)。

旧約聖書の時代、人々は手ぶらで神殿に入ることはできませんでした。必ず供え物が必要でした。牛や羊、貧しい人であれば鳩が捧げられました。動物には傷や病があってはならず、祭司がそれを屠り、内臓を取り出し、祭壇の上で焼きました。それは高価で、重く、血にまみれたものでした。捧げ物のたびに、民はこの厳しい真実を思い起こさせられたのです。「罪の報酬は死である」と。

キリストはこの制度に終止符を打たれました。十字架での死によって、ただ一度で、私たちの罪のための唯一の供え物となられたのです。今日、私たちはもう動物を神殿に持って行きません。神様が求めておられる供え物、それは「あなた自身」なのです。

あなたの体は聖霊の宮です。これは、とても具体的な二つのことを意味します。

  • あなたの体を清く保つこと。体で犯す罪(性的な不品行、依存症、飲酒、薬物、喫煙)は、この宮を汚します。牧師は、空港で見かける若者たちを含め、今どんどん広がっているタトゥーの流行にも触れています。体に絵や記号を刻むことは、神様の前で意味を持つ行為です。もしあなたが既に過ちを犯していたとしても、悔い改めの扉はいつも開かれています。神様は赦してくださいます。そして、そこに戻らないようにと求めておられます。
  • その体を大切にすること。私たちは皆年を重ねますし、病も人生の一部です。しかし可能な限り、健康を管理し、休息を取り、思慮深く食事をとることもまた、「傷のない」供え物を主に捧げる一つの方法なのです。

3. 隠れたところで捧げる六日間の礼拝

日曜日が一つの車輪だとすれば、平日はもう一つの車輪です。車が前に進むには、その両方が必要です。月曜日から土曜日までのあなたの働きもまた、一つの礼拝なのです。

パウロはこう書いています。「奴隷たちよ。すべてのことについて、肉における主人に従いなさい。……何をするにも、人にではなく、主にするように、心から行いなさい」(コロサイ3:22-24)。イエス様は、当時の社会構造そのものを壊すために来られたのではありません。その中でどのような心で立つかを変えるために来られたのです。会社員であれ、経営者であれ、専業主婦であれ、学生であれ、あなたがどんな立場にあっても、問われるのは「何をするか」ではなく「どんな心でそれをするか」なのです。

つらい上司がいても、それは誠実であることをやめてよい理由にはなりません。やりがいのない仕事だからといって、手を抜いてよいわけではありません。積み重なった食器、病気の子ども、難しい顧客。そうした務めを「あの人のせいで苦しんでいるんだ」と不満をこぼしながら果たすなら、神様はその礼拝をお受けにはなりません。しかし、「主よ、私は疲れています。あなたの愛で私を満たしてください。あなたにお仕えするつもりで、この人たちに仕える喜びを与えてください」と祈るなら、あなたの台所も、あなたの職場も、あなたの教室も、一つの祭壇となるのです。

4. この世に倣ってはいけない

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)。

この世の基準だけでは足りません。神様の基準はもっと高いところにあります。それには代価が伴います。時には誤解されたり、あざけられたり、簡単に得られるはずの利益を手放したりすることもあるでしょう。しかし、あなたは人に認められるために生きているのではなく、主に認められるために生きているのです。古い自分、すなわち「肉的な人」は、この世の論理で考えます。新しい自分、すなわち「霊的な人」は、御言葉が日々の生活にしみ込むままにします。そして、そこでこそ信仰は強められ、神様はあなたを整えられた花嫁のように形づくり始めてくださるのです。

5. 高慢に対する警告

パウロは続いて、厳粛な警告を語ります(ローマ12:3)。「私に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。思うべき限度を越えて思い上がることなく」。

賜物に恵まれ、称賛され、尊敬されていた信者の多くが、最後まで走り抜くことができませんでした。これは神に仕える者、牧師たちにも言えることです。なぜでしょうか。恵みを受け続けるうちに、いつしか自分がその働きの立役者であるかのように思い込んでしまうからです。力も、知恵も、実りも、自分のものだと考えるようになる。そこから転落が始まるのです。

そこから身を守る方法は、毎日こう告白することです。「主よ、あなたの助けがなければ、私は生きることができません」と。最後まで立ち続けるのは、最も才能のある人ではありません。最も主に依り頼む人です。

6. 教会の中で生き、世界のために生きる

パウロは続いて、キリストのからだにおける賜物について語ります(ローマ12:4-8)。預言、奉仕、教え、勧め、施し、指導、慈善。それぞれに場所があり、それぞれに役割があり、すべてが謙遜と愛をもって行われます。

しかし教会は閉ざされた空間ではありません。兄弟姉妹の間で学んだことは、外の世界でこそ生きるように召されています。あなたの同僚も、友人も、隣人も、その多くはまだキリストを知りません。塩が味を失えば、捨てられるだけです。光が隠されれば、何の役にも立ちません。月曜日から土曜日までこの世と同じように振る舞い、日曜日だけクリスチャンの衣をまとうというのは、まったく本末転倒です。生きた礼拝とは、むしろその逆です。あなたがいるどこにでも、キリストの香りを漂わせることなのです。

7. 愛すること、悪を退けること、復讐しないこと

続く節は、とても具体的な事柄を並べた長いリストです(ローマ12:9-21)。

  • 偽りのない愛を持つこと。心の中で悪く思いながら、表面だけ愛想よく微笑むのは偽りです。自分の力だけではできないことですから、御霊に願い求めましょう。「主よ、この人への真実な愛を私の心に注いでください」と。聖霊の助けなしに御言葉を守れる人は誰もいません。
  • 悪を憎み、善に親しむこと。もしあなたの会社が不正を行っていたり、明らかに不当な命令であったりする場合、「ただ指示に従っただけだ」という言い訳の陰に隠れることはできません。クリスチャンは、穏やかに、しかしはっきりと立場を守ります。「私の良心はこれを許しません」と。もしそのために職を失うことになっても、主がその責任を取ってくださいます。
  • 兄弟を兄弟として愛すること。たとえその人がやっかいな存在であっても。何一つ良いところのない人などいません。「あの人は嘘つきだ」「あの人は決して約束を守らない」といったレッテルを貼り、それをあちこちに広めるのはやめましょう。それは一種の裁きであり、罪なのです。
  • 熱心に仕えること。牧師であれ、会社員であれ、親であれ、あなたの働きは主にお仕えすることなのです。
  • 復讐しないこと。「復讐はわたしのすることである。わたしが報復する、と主は言われる」(ローマ12:19)。もしあなたの敵が飢えているなら、食べさせてあげなさい。その頭に燃える炭火を積むことによって、その人が恥を知り、やがては変えられていく道が開かれるかもしれません。

そして、これほど過激でありながら人を自由にする結論がこれです。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:21)。迫害や不正、攻撃に対する勝利は、反撃によってではなく、愛すること、とりなすこと、祝福することによって得られるのです。

覚えておきたいポイント

  • 生きた礼拝とは、日曜日だけのものではありません。日曜日と平日、この二つの車輪がともに回りながら、人生全体を神様に捧げていくことです。
  • あなたの体は聖霊の宮です。清く保ち、大切にし、傷のないものとして捧げましょう。
  • あなたの仕事、家事、職場での振る舞いは、人にではなく主に対して行うとき、礼拝となります。
  • この世に倣ってはいけません。クリスチャンとしての基準には代価が伴いますが、そこでこそ神様はあなたを新しくしてくださいます。
  • 聖霊の絶え間ない助けなしには、誰もこの御言葉に従うことはできません。主に依り頼み続け、謙遜であり続けるなら、最後まで立ち続けることができます。

あなた自身への適用

  • あなたは日曜日をどのように備えていますか。あなたの一週間は主の日を目指して組み立てられていますか、それとも逆になっていますか。
  • あなたの体に関わる領域で、神様に明け渡すべきだとわかっている部分はありますか(食事、性、依存、健康管理など)。
  • 職場で、家庭で、学校で、あなたの心はどのような状態でしょうか。主にお仕えするつもりで働いていますか、それとも「あの人たちのせいで」という思いで働いていますか。
  • 神様がもっと高い基準を求めておられるのに、この世の基準をそのまま受け入れてしまっている部分はどこですか。
  • 誠実に愛すること、赦すこと、悪に悪を返さないことについて、御霊の助けを求めるべき相手はいますか。

引用された聖句

FAQ

なぜパウロは「心」だけでなく「体」を捧げるようにと語っているのですか。

体は、魂や思い、感情、計画、意志のすべてを包み込んでいるからです。「体」を捧げるとは、日曜日の朝の敬虔な思いだけでなく、あなたという存在のすべてを捧げることを意味します。あなたの具体的で、目に見える、日々の生活そのものが捧げ物となるのです。

仕事や家事も、本当に神様への礼拝になり得るのですか。

はい、ただし一つの条件があります。それは心のあり方です。コロサイ人への手紙3章がはっきりと語っているように、あなたが何をするにも、人にではなく主にするように行うことです。家族のために喜んで食事を作る母親、誰も見ていなくても誠実に働く社員。そうしたすべてを、神様は礼拝として受け取ってくださいます。

本当にどうしても誰かを愛せないとき、どうすればよいですか。

取り繕わずに、神様の前でそのことを認めましょう。牧師は繰り返し強調します。「主よ、私はこの人を愛することができません。赦すこともできません。助けてください」と。あなたの肉が到底できないことを、あなたの内に成し遂げてくださるのは御霊です。聖霊の助けなしに御言葉を守れる人は誰もいません。

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