はじめに
今週の日曜日、ヒュー・ウェッセルさんがメッセージを取り次ぎます。彼が選んだのは、かつて一度でも失敗を経験したすべてのクリスチャンの心に直接触れる箇所です。ヨハネ21:1-19、復活されたイエス様によるペテロの回復の記事で、彼はこれを「復活者による回復、恵みによって破られる沈黙」と題しました。
この21章は不思議な章です。というのも、20章の終わりにはこう書かれているからです。「イエスは、この書に書かれていないほかの多くのしるしを、弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」(ヨハネ20:30-31)。これで福音書は終わったと思うところです。墓は空です。勝利は成し遂げられました。本を閉じてもよさそうです。
それでもヨハネは続けます。「その後、イエスはまた、弟子たちにご自分を現された……」なぜでしょうか。復活だけでは解決されない問いが残っているからです。復活を見た後で失敗した人間を、イエス様はどうなさるのでしょうか。三度イエス様を知らないと言ったペテロを、イエス様はどうなさるのでしょうか。そして何より、イースターの後にあなたが再び倒れたとき、イエス様はあなたをどうなさるのでしょうか。
先週、コロサイ人への手紙3章から響いた招きは、こうでした。あなたはキリストにあってよみがえっている、よみがえった者として生きなさい、それがあなたの天にある本当の姿です、と。キリストの勝利がたたえられました。墓は空、死は打ち破られました。しかし、イースターの高揚感が引いたとき、何が起こるでしょうか。よみがえった者であるはずのあなたが、また失敗したとき、何が起こるでしょうか。ヨハネ21章はその問いに答えてくれます。
メッセージの流れ
1. 恥の沈黙、ペテロは網に戻る
霊的な失敗に直面したとき、最も人間らしく、最も本能的な反応は反抗ではありません。それは沈黙です。恥をさらけ出す沈黙です。神様の恵みをもう使い果たしてしまったと思う者の沈黙です。自分はもう失格だと感じて、主に目を上げることさえできなくなった者の沈黙です。
こんな情景を思い浮かべてください。ある囚人がちょうど恩赦を受けたばかりです。牢の扉が開き、彼は太陽の下へ出ていきます。法律上、彼は自由です。しかし、どこかで立ち止まってしまいます。どこへ行けばいいのか分かりません。自由な人々とどう話せばいいのか分かりません。それで夜になると、また自分の独房の壁の前に戻ってきてしまうのです。自由は手にしているのに、まだ囚人の心のままなのです。まさにこれが、この箇所でのペテロの姿です。
「シモン・ペテロは彼らに言った。『私は漁に行く。』」何気ない一言に聞こえますが、これは悲痛な言葉です。ペテロは大祭司の中庭で、暖を取ろうとしていたたき火のそばで、三度主を知らないと言ってしまいました。彼は言葉にできない重荷を抱えています。おそらくこう思っていたのでしょう。「イエス様が生きておられるのは素晴らしいことだ。でも、私はもう終わりだ。私には何の値打ちもない。」だから彼はそれを胸にしまい込みます。人を漁る者としては失敗したので、ペテロは自分がよく知っていたこと、つまり魚を捕る漁師に戻っていくのです。空っぽの網の沈黙に戻っていくのです。そして本文にはこうあります。「しかし、その夜は何もとれなかった。」
ここでは霊的な失敗に、仕事の上での失敗まで重なります。実りのなさの沈黙です。主がおられなければ、夜は長く、手は空っぽです。先週、パウロはコロサイ人への手紙3章で、私たちに上にあるものを求めるようにと勧めました。それが私たちの召しであり、私たちの本当の姿です。私たちはキリストと共によみがえっているからです。目指すべき頂は、上にあります。しかし失敗は心理的な磁石のように働きます。自分の本当の居場所はここ、つまり昔からの防御反応や、生まれながらの性質の中にあるのだ、とささやいてくるのです。
この二つの力学を理解してください。コロサイ人への手紙3章は私たちに目標を与えます、上にあるものを求めなさい、と。ヨハネ21章は私たちにその方法を示します、過去の網に逆戻りしてしまったとき、イエス様がどのように私たちを探しに来てくださるのか、を。道徳的な失敗の後、「どうせ自分は変われない」と思う人がどれほど多いことでしょうか。私たちは以前の網へと戻っていきます。忘れるために働いたり、気晴らしをしたり、感覚を麻痺させたり、あるいはもっと単純に、沈黙の中に引きこもったりします。復活によって技術的には自由になっているのに、自ら進んで空の墓の沈黙に閉じこもることを選んでしまうのです。
2. 沈黙は破られる、イエス様は岸に立っておられる
しかしこの沈黙は、イエス様ご自身の臨在によって破られなければなりません。「イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」これは、恵みが音もなく舞台に登場する瞬間です。神様がまず動いてくださいます。私たちはその働きを見ることさえできません。弟子たちはキリストを捜し求めてはいません。彼が来てくださるように祈ってもいません。ただ櫓を漕ぎ、疲れ果て、黙り込んでいるだけです。しかし、その沈黙を破ってくださるのは主です。
どのように破られるかを見てください。主は親しみのこもった、ほとんどありふれた問いを投げかけられます。「子たちよ、何か食べる物があるか。」ギリシア語の「子たちよ」という言葉は、父としての愛情を表す言い方です。それは咎めではなく、優しい撫でるような言葉なのです。
それから主は舟の右側に網を打つように命じられ、あの奇跡的な大漁が起こります。イエス様は彼らに魚を与えるだけではありません、記憶を呼び覚まされるのです。これはまさに、三年前の最初の出会い、ルカの福音書5章の場面をそのまま再現しています。あのときもペテロは夜通し漁をして何もとれず、イエス様が網を降ろすようにと言われ、彼らは網いっぱいの魚を引き上げました。同じ場面がもう一度繰り広げられるのです。イエス様は言葉にしなくても、こう告げておられます。「ペテロよ、見なさい。私はあなたとの始まりを忘れていない。あなたへの召しを取り消してもいない。私の真実は、あなたの真実次第で決まるのではない。」
こんな情景を思い浮かべてください。ある演奏会で、音楽家が大きな失敗をしてしまいます。恥に打ちひしがれ、彼はもう演奏を続けられません。楽器をしまい込み、家に帰ってしまいます。すると師匠は、その過ちについては一言も触れず、初めて教えたあの日のメロディーを口ずさみ始めます。沈黙は叱責によってではなく、最初の召命を思い起こさせることによって破られるのです。
よみがえられた主は、あなたが自分から沈黙を抜け出すのを待ってはおられません。あなたが主を呼ぶ言葉を見つける前から、あなたの夜を破りに来てくださるのです。
3. 温められる沈黙、交わりは告白に先立つ
岸に着くと、弟子たちは心を打たれる光景を目にします。炭火があり、その上に魚が焼かれ、パンもあります。ここに、このメッセージの核心があります。恵みは先回りするのです。どんな説明よりも先に、どんな悔い改めの行為よりも先に、主は食卓を整えておられました。魂の傷を扱う前に、まず疲れた体の必要に応えてくださったのです。
これは神学的にも重要な訂正です。交わりは告白に先立つのです。主は、あなたに交わりを持つ前に自分を立て直しておくようにとは求められません。ペテロがまだ裏切りの恥に覆われているそのままの姿で、主は彼をもてなしておられます。
本文にはこうあります。「弟子たちのうちだれも、あえて『あなたはどなたですか』と主に尋ねる者はいなかった。」これは尊敬と驚嘆の沈黙です。命のパンの臨在に満たされた沈黙です。浜辺での食事があってこそ、言葉を語ることが可能になるのです。イエス様が用意された炭火の温もりが、ペテロの心を癒すために用いられます。
友よ、分かるでしょうか。恵みはあなたの変化に対する報酬ではありません。恵みこそが、その変化を可能にする酸素なのです。主があなたを食卓に招かれるのは、あなたが清いからではなく、主の臨在があなたを清めてくださるからなのです。
4. 愛によって置き換えられる沈黙、三つの否認に対する三つの問い
食事の後、沈黙の性質が変わります。イエス様はペテロを脇に呼び、こう言われます。「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛していますか。」ここに、実に繊細な外科医の姿を見ることができます。三つの問いが投げかけられ、ペテロは三度答えなければなりません。大祭司の中庭で口にした三つの「否」を消し去るために、三つの「はい」を口にする必要があるからです。イエス様は、ペテロが自分の失敗の上に「はい」と言えるようにしてくださるのです。
主はペテロを断罪するためにその記録を再び開かれるのではありません。回復するために開かれるのです。過ちを蒸し返して押しつぶすためではなく、癒すためです。裏切りの沈黙が、取り戻された言葉へと置き換えられます。
ギリシア語の原文では、「愛する」に二つの動詞、アガパオーとフィレオーが使われています。ある注解者たちはそこに大きな違いを見出します。しかし、ヨハネの福音書全体を見ると、この二つの言葉はしばしば非常に近い意味で、ほとんど同義語のように用いられています。ですから主眼は、愛の質の違いにあるのではなく、問いが三度繰り返されることにあるのです。三度目にペテロが悲しんだのは、言葉が変わったからではなく、イエス様が問いを重ねることで、彼を自分自身の失敗と向き合わせられたからです。
そしてペテロはもはや自分を前面に出しません。約束もしません。他人と自分を比べることもしません。ただキリストにまなざしを委ねます。「主よ、あなたはすべてをご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはご存じです。」かつてペテロは、「たとえみんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(マルコ14:29)と言いました。しかし今は、もう自分の力に頼ってはいません。イエス様の全知に頼っているのです。彼の確信は、もはや自分の忠実さにではなく、キリストの知識に基づいています。彼の沈黙は、へりくだった、飾り気のない言葉に置き換えられます。
よみがえられた主は、あなたを失格にするために過去へ連れ戻すのではありません。あなたの死の沈黙を、命の言葉へと変えるために連れ戻されるのです。
5. 世へ遣わされる沈黙、「わたしの羊を飼いなさい」
ペテロが愛を告白するたびに、イエス様はこう答えられます。「わたしの羊を飼いなさい。」これは信頼が回復された印であると同時に、驚くべき逆転でもあります。主は、ご自分の最も大切なもの、つまりご自身の羊の群れを、倒れたことのある者に委ねられるのです。なぜでしょうか。深く回復された者は、それまでとは違う仕方で仕えるようになるからです。高ぶりもなく、頑なさもなく、自分自身についての幻想もなく仕えるようになるのです。
ここに、キリストにある一つの完結した循環が見えます。先週のコロサイ人への手紙3章では、客観的な勝利と、キリストと共に神のうちに隠された私たちのいのちが語られました。今日のヨハネ21章では、主が倒れた者を起こし、回復し、再び歩ませてくださる道が示されました。クリスチャンの人生は一直線ではありません。生けるキリストによって、幾度も幾度も起こされ続ける人生なのです。
説教者はある思い出を分かち合います。彼と妻は約十年前、日本を訪れる恵みにあずかり、そこで金継ぎという、割れた陶磁器を金で修復する日本の技術に出会いました。修復された器は、ただ元通りになるだけではありません。まさに割れた箇所こそが、いっそう貴重なものになるのです。ペテロは修復された器です。彼は今、新しい権威を身にまとっています。それは、沈黙と失敗を経験し、赦しの力に出会った者だけが持つ権威です。
最後にもう一つの情景を。ある大きなオーケストラが美しい交響曲を演奏しています。突然、第一バイオリン奏者が曲の途中で耳障りな失敗をしてしまいます。彼はうなだれ、自分の沈黙に閉じこもります。すると指揮者は彼を舞台から追い出しません。辱めもしません。指揮台を降り、そのバイオリニストに近づき、こうささやきます。「21小節目からもう一度始めよう。この曲を仕上げるには、君の腕が必要なんだ。」
今日、よみがえられた主は、あなたの沈黙に近づいてくださいます。主はあなたの空っぽの網をご覧になっています。何をしなかったのかを問われることはありません。すべての答えを持っていることを求められることもありません。ただ、今日この瞬間でも、もしあなたがペテロのように、自分自身の失敗の沈黙に閉じこもっていると感じているなら、もしあなたがあの召しをもう一度受け取る勇気を持てずにいるなら、主の声に耳を傾けてほしいと願っておられます。もしあなたが、たとえ小さなつぶやきであっても、こう答えられるなら、「主よ、あなたはすべてをご存じです。私にはあなたが必要だということを、あなたはご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはご存じです」、そのとき、あなたの回復はもう始まっています。
覚えておきたいポイント
- 失敗が最後の言葉ではありません。復活は、あなたに天の身分を与えてくださっただけでなく、再び倒れたときに立ち返るための道をも用意してくださっています。
- 恥の沈黙は、あなたの最大の敵です。霊的な失敗の後、最初に起こる反応は、身を隠し、昔の網に戻ることです。しかし主は、あなたをそこに留めてはおかれません。
- イエス様が先に来てくださいます。主は、あなたが自分を立て直すのを待ってはおられません。岸に立ち、父のような問いを投げかけ、あなたの始まりを思い起こさせてくださいます。
- 交わりは告白に先立ちます。炭火、パン、魚は、対話の前にすでに用意されています。恵みは報酬ではなく、酸素なのです。
- あなたは、完全になったからではなく、回復されたところから仕えるように召されています。金継ぎのように、金で埋められた割れ目の場所こそが、ペテロに新しい権威を与えるのです。
個人的な適用
神様の御前で少し時間を取り、自分自身に正直に問いかけてみましょう。
- 今、私の人生の中に「私は漁に行く」という言葉、すべてを失敗したと思って逃げ込んでいる古い反応はないでしょうか。
- 私は神様の前に、どんな沈黙を抱えているでしょうか。恥の沈黙、実りのなさの沈黙、「もう自分には何の値打ちもない」という沈黙でしょうか。
- 主はまさに私の弱さの中に招いてくださっているのに、「きよくなってから」主の食卓に戻ろうと待ってはいないでしょうか。
- 今日、たとえ小さなつぶやきであっても、「主よ、あなたはすべてをご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはご存じです」と答え、そこから私の回復を始めることができるでしょうか。
- 私の周りに、倒れてしまった兄弟姉妹、キリストにある子どもはいないでしょうか。あの指揮者のように、「君が必要だ、もう一度始めよう」とささやいてあげられる相手はいないでしょうか。
引用された聖句
- ヨハネ 21:1-19 ・ この説教の中心箇所。ティベリア湖畔でのイエス様の顕現と、ペテロの回復。
- ヨハネ 20:30-31 ・ ヨハネが続きを記す前の、福音書の見かけ上の「結び」。
- コロサイ人への手紙 3章 ・ 上にあるものを求めること、よみがえった者としての私たちの本当の姿。
- ルカ 5:1-11 ・ 最初の奇跡的な大漁と、ペテロへの召し。
- マルコ 14:29-31 ・ ペテロの約束、「たとえみんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」
よくある質問
なぜヨハネ20章で「結び」がついた後に、ヨハネ21章が加えられているのですか。
復活だけでは、信者が抱くすべての問いに答えられないからです。復活は勝利を宣言しますが、復活を見た後で失敗した人々をイエス様がどう扱われるのかという問いは、まだ残されています。ヨハネ21章は、その問いに対する牧会的な答えです。よみがえられた方は、倒れた者たちを回復してくださるのです。
「あなたはわたしを愛していますか」という問いにおいて、アガパオーとフィレオーには本当に違いがあるのですか。
ある注解者たちはそこに段階の違いを見出してきました。しかし、ヨハネの福音書全体では、この二つの動詞はしばしば非常に近い意味で、ほとんど互換的に用いられています。ですから主眼は語彙の違いにあるのではなく、問いが三度繰り返されること、つまりペテロの三度の否認を消し去るための三つの「はい」にあるのです。
神様のもとに戻る前に、すべてを「解決」しておかなければならないのでしょうか。
いいえ、そうではありません。それこそがヨハネ21章のメッセージです。イエス様はペテロとの対話の前に、すでに食卓を整えておられました。交わりは告白に先立ちます。主の臨在があなたを清めてくださいます。あなたの弱さのままで主のもとに来ることによって、回復は始まるのです。
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