すべての人にすべてとなる:パウロが示す自由と使命の姿

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はじめに

「すべての人に対して、すべてのものになりました。」パウロがコリント人への第一の手紙 9:19-23で語るこの言葉は、私たちの居心地の良さを揺さぶる宣教的な生き方をよく表しています。パウロは自分が自由な者であることをはっきりと語ります。しかしその一方で、自分の権利を手放し、相手のいる場所まで自ら降りていくことを選びます。それは巧みな霊的マーケティングではありません。主から託された使命を、パウロがどのように生きたか、その心のあり方そのものなのです。

この記事では、パウロが自由と奉仕をどのように結びつけたか、そしてアンティオキアでのペテロの態度とどう違ったのか、さらにこの教えが今日の教会のあり方にどうつながるのかを見ていきます。あなたの人間関係の中で「イエス様に倣う」とは具体的にどういうことなのか、この聖書箇所はたくさんのことを語りかけてくれますよ。

記事の構成

1. 最も多くの人を救うために、自ら仕えたパウロ

パウロは19節で、一見矛盾するようなこの言葉から語り始めます。「私はすべての人に対して自由な者ですが、より多くの人を得るために、自らすべての人の奴隷となりました。」パウロは「自由」と「奴隷」ということばを対比させながら、自分の自由が福音のためにこそ用いられるものであることを示しているのです。

この自由は、決して観念的なものではありません。その直前の18節で、パウロは報酬を受けずに福音を宣べ伝えていることを語っています。コリントの人々に経済的に頼ることのないよう、自分自身の生活を整え、ピリピの教会からの支えを受けていました。この具体的な独立があったからこそ、パウロは聞く人たちに何の重荷も負わせることなく、自由に福音を語ることができたのです。

だからこそパウロは、ヤコブが語る「完全な律法、すなわち自由の律法」(ヤコブの手紙 1:25)へと最も多くの人を導くために、自分の権利のすべて、あるいはその一部を手放す自由があると考えていました。主イエス・キリストによって自由にされた者としての権利さえも、主から受けた福音のメッセージの力を弱めないために、あえて手放したのです。

2. 仕える者となられたイエス様に倣う

パウロはイエス様に倣う者でありたいと願っていました。それはマルコの福音書 10:45のキリストのみことばと重なります。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるためです。」

ですから、キリストにあって自由であるということは、自分の特権を主張することではありません。むしろ、イエス様に似た者となりたいと願いつつ、イエス様に従うために自由にされること、それこそが本当の意味だと言えます。クリスチャンの自由とは、他者への奉仕のための自由なのです。コリントの人々は自分たちの名誉や地位に強くこだわっていましたが、パウロは彼らをそれ以上のところへと招こうとしています。パウロが示すのは価値観の逆転です。他者への奉仕は、たとえどれほど正当な権利であっても、自分の特権を守ることより優先されるのです。

3. ユダヤ人にはユダヤ人のように、弱い人には弱い人のように

20節から22節で、パウロはユダヤ人にはユダヤ人のように、律法の下にある人には律法の下にある人のように、律法を持たない人には律法を持たない人のように、そして弱い人には弱い人のようになったと語ります。誰も除外しません。最も身分の低い人も、最も名誉ある人も、どちらも同じように大切にされているのです。同じ普遍性はローマ人への手紙 10:12にも見られます。「ユダヤ人とギリシア人との区別はありません。」

パウロの考える「弱い人」とは、自分の信仰を規則や制約でおおい、神の子どもとしての自由を狭めてしまっている人たちのことです。反対に「強い人」とは、福音と主の御霊の導きを心から信頼し、その自由を存分に生きている人たちのことです。しかし気をつけたいのは、本当に自由な「強い人」が、つまずきの石になってはならないということです。パウロが語るように、「すべてのことが許されていますが、すべてのことが益になるわけではありません」。

4. キリストの律法は形だけの服従ではない

21節でパウロは、自分は神の律法を持たない者ではなく、「キリストの律法」に従う者であると語ります。このキリストの律法とは、エレミヤ書 31:33の預言の成就なのです。「わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」

それは、パウロが別の箇所で「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法」(ローマ人への手紙 8:2)と呼んでいるものです。これは、主イエスとそのみことば、そしてみことばの意味を照らしてくださる御霊に従うことを意味します。しかし、押しつけられた道徳の規則を機械的に守ることとは違うのです。

5. アンティオキアでのペテロという反面教師

パウロの姿勢をよく理解するために、アンティオキアでのペテロの態度と比べてみましょう。パウロはガラテヤ人への手紙 2:12でこう伝えています。ヤコブのもとから来たユダヤ人の一行が到着する前、ペテロは異邦人と共に食事をしていました。しかし彼らが来ると、割礼を受けた人々を恐れて、身を引き、異邦人から距離を置いてしまったのです。

表面的には、ペテロの行動はパウロが勧める「ユダヤ人にはユダヤ人のように」という姿勢と似ています。しかし、その内側にある動機はまったく違いました。ペテロは人からどう見られるかを恐れて行動していたのです。エルサレムから来た、まだ律法にとらわれていたユダヤ人クリスチャンたちを前にして、主から受けた自由を貫くことができませんでした。一方パウロは、弱い人たちを律法主義に閉じ込めるためではなく、自由へと導くために、あえて弱い人のようになったのです。

外見は似ていても、その内側にある動機はまったく正反対です。あなたの隣人は、その違いを敏感に感じ取ります。あなたが自分を恐れていると感じれば、相手はかたくなに律法主義を強めます。しかし、あなたが相手を尊重しながらも、その制約に自分は縛られていないと感じれば、相手は考え始めることができるのです。

6. 教会というビジョン:カルトの対極にあるもの

この教えは、ひとつの教会像を描き出しています。パウロが示すのは、カルト集団の正反対の姿です。カルトには教祖と信者がいます。カルトは、新しく入った人がそれ以上何も問わなくなるよう、あらゆる問いにあらかじめ答えを用意し、その人を内側にとどめておこうとします。イエス様ご自身もマタイの福音書 23:15で、この危うさを厳しく指摘しておられます。

パウロが示すのはその正反対です。互いに歩み寄り、相手に合わせ、その人の人生や文化、信じているものを理解しようとすること。それは必ずしもすべてを受け入れることではありませんが、共にイエス・キリストに従って歩んでいくためのものです。「教会」ということば、ギリシア語の「エクレシア」は、「〜の外へ」を意味する接頭辞と、「呼ぶ」という意味の語根から成り立っています。語源的に言えば、教会とは、自分自身の外へと呼び出された人たちの集まりなのです。カルトが人を内に閉じ込めるのに対して、教会は外へ、壁の外へと呼びかけます。

まとめ

  • クリスチャンの自由は、権利の主張ではなく奉仕です。パウロは自由な者でしたが、その自由を、最も多くの人を得るための福音の奉仕へと差し出しました。
  • イエス様に倣うとは、へりくだって降りていくことです。人の子は仕えるため、いのちを与えるために来られました。イエス様に従うとは、自分の特権を手放して相手のもとへ行くことです。
  • 動機がすべてを変えます。ユダヤ人にはユダヤ人のようになるという同じ行動でも、恐れから(ペテロ)なのか愛から(パウロ)なのかで、隣人に与える影響はまったく違ってきます。
  • キリストの律法は、心の内側にあるものです。チェックリストのような道徳規範ではなく、御霊があなたの心にみことばを刻んでくださるということです。
  • 教会はカルトの正反対です。人を閉じ込めるのではなく、外へと連れ出し、異なる者同士が共にイエス様へと歩んでいけるようにします。

あなたへの適用

主の御前で、次の問いにじっくり向き合ってみてください。

  • たとえ正当なものであっても、福音の使命よりも大切にしてしまっている権利や特権はありませんか。
  • 相手に歩み寄るとき、あなたの心の奥にあるのは、人からどう見られるかという恐れでしょうか。それとも、その人をキリストにある自由へと導きたいという愛でしょうか。
  • あなたのキリストにある自由が、弱い立場にある兄弟姉妹にとって、つまずきの石になってしまってはいませんか。
  • 誰かが福音をより深く知るために歩みを共にするとき、二次的な信念については目をつぶる備えがありますか。
  • あなたが属している教会・共同体は、外へと呼び出す「エクレシア」に近いでしょうか。それとも、内側に閉じた閉鎖的な輪に近いでしょうか。

引用聖句

よくある質問

「すべての人に対してすべてのものになる」とはどういう意味ですか。

これは自分の信念を捨てたり、流行に合わせたりすることではありません。キリストにあって自由な者であるパウロは、相手がいる場所まで自ら降りていくために、自分の権利を手放すことを選びました。これは宣教的な姿勢です。イエス様を知ってもらいたいと願う相手の文化や心の状態、弱さに合わせながらも、福音そのものについては決して妥協しないということです。

結局同じことをしているのに、なぜパウロはアンティオキアでのペテロの態度を非難したのですか。

それは、その動機が違っていたからです。ペテロはエルサレムから来たクリスチャンたちを恐れて異邦人から身を引き、結果として弱い人たちを律法主義の中に閉じ込めてしまいました。一方パウロは、愛によってユダヤ人にはユダヤ人のようになり、彼らを福音の自由へと導こうとしました。似た行動でも、動機はまったく正反対であり、隣人に与える結果もまったく逆になるのです。

「キリストの律法」とは何ですか。

それはユダヤ教の律法でも、新しい道徳規則の一覧でもありません。エレミヤ書31章の約束の成就、すなわち御霊によって信じる者の心に書きしるされる律法です。それは、イエス様とそのみことば、その御霊に従うことを意味しますが、機械的で律法主義的な服従とはまったく異なるものです。

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