聖書 — 口語訳 (1955)

コリント人への第一の手紙 11

概要

コリント人への第一の手紙11章で、パウロはコリントの教会の二つの混乱を正します。まず、男と女がどのように祈り、預言するかを、かしらにかぶり物をする習慣に結びつけて語ります。これは彼の手紙の中でも、特に議論の多い箇所の一つです。続いて、富む者が貧しい者をはずかしめる食事の場を戒め、パンと杯についてのイエスの言葉を思い起こさせ、聖餐の土台となる箇所の一つを伝えます。

この章の5つの区分

  1. 1-2節わたしがキリストにならう者であるように、わたしにならう者になりなさい
  2. 3-16節祈りと預言における男と女:秩序、尊厳、そして相互の依存
  3. 17-22節分裂を生む食事:集まるほどに悪くなる教会
  4. 23-26節主の晩餐の制定:パン、杯、そして告げ知らされる主の死
  5. 27-34節自分を吟味し、主のからだをわきまえ、互いに待ち合わせる

1わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。

2あなたがたが、何かにつけわたしを覚えていて、あなたがたに伝えたとおりに言伝えを守っているので、わたしは満足に思う。

3しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。

4祈をしたり預言をしたりする時、かしらに物をかぶる男は、そのかしらをはずかしめる者である。

5祈をしたり預言をしたりする時、かしらにおおいをかけない女は、そのかしらをはずかしめる者である。それは、髪をそったのとまったく同じだからである。

6もし女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。髪を切ったりそったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである。

7男は、神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきではない。女は、また男の光栄である。

8なぜなら、男が女から出たのではなく、女が男から出たのだからである。

9また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである。

10それだから、女は、かしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは天使たちのためでもある。

11ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。

12それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからである。そして、すべてのものは神から出たのである。

13あなたがた自身で判断してみるがよい。女がおおいをかけずに神に祈るのは、ふさわしいことだろうか。

14自然そのものが教えているではないか。男に長い髪があれば彼の恥になり、

15女に長い髪があれば彼女の光栄になるのである。長い髪はおおいの代りに女に与えられているものだからである。

16しかし、だれかがそれに反対の意見を持っていても、そんな風習はわたしたちにはなく、神の諸教会にもない。

17ところで、次のことを命じるについては、あなたがたをほめるわけにはいかない。というのは、あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである。

18まず、あなたがたが教会に集まる時、お互の間に分争があることを、わたしは耳にしており、そしていくぶんか、それを信じている。

19たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい。

20そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。

21というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。

22あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。

23わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、

24感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

25食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。

26だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。

27だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。

28だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。

29主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。

30あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。

31しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。

32しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである。

33それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。

34もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい。そのほかの事は、わたしが行った時に、定めることにしよう。

鍵となる聖句

3節
しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。

この節は、キリスト、男、女、神という、権威と関係の三つのつながりを示します。「かしら」という語の意味は議論されています。権威と見る人もいれば、起源や源と見る人もいます。多くの人は、それがキリストご自身に倣う、仕えることだと強調します。

11-12節
ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。 それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからである。そして、すべてのものは神から出たのである。

パウロは誤解を正します。主にあっては、男は女なしにはなく、女は男なしにはありません。すべてのものは神から出ています。この相互の依存が、前の部分とのバランスをとっています。

24-25節
感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。

パウロは、主から受けたことを伝えます。パンはあなたがたのために裂かれたからだであり、杯はイエスの血による新しい契約です。聖餐は、イエスご自身が定められた記念であり、「わたしを記念するため、このように行いなさい」と言われました。

26節
だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。

パンを食べ杯を飲むたびに、主がこられる時まで、主の死を告げ知らせています。聖餐は、十字架を振り返り、同時にキリストの来臨を前方に望むものです。

28-29節
だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。

パウロは、食べる前に自分を吟味し、そして主のからだをわきまえるよう求めます。文脈では、教会の兄弟姉妹を軽んじないことを意味し、自分の中でキリストのからだを敬うことだけを指すのではありません。

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説教が語っていること

男女の違いを喜んで生きるコネクション教会のメッセージは、2節から16節を読みます。「かしら」は支配ではなく仕えることと理解され、男と女は補い合う存在とされ、女は祈り預言するための固有の尊厳を保つとされます。要約を読む →神が求める男性像:支配者ではなく仕える指導者、家族の拠り所としてサミュエル・ペーターシュミットは3節をもとに、神にかなったかしらとは、支配する人ではなく、イエスにならって仕える人だと語ります。家族のために、誠実で、勇気があり、安定した男性になるよう呼びかけます。要約を読む →聖餐は目のための食事ですこのメッセージは17節から34節に沿って、聖餐が福音と教会の一致の目に見える姿であることを語ります。主のからだをわきまえるとは、他の肢体を軽んじないことであり、聖餐は、完全な人ではなく、悔い改めたクリスチャンのためのものだと語ります。要約を読む →恵みの傷跡ナディーヌ・ドゥモジェは、聖餐を過越の食事の中に置き直し、23節から25節を思い起こさせます。十字架を決して忘れないためにイエスが望まれた象徴であり、受け取るべき恵みの、目に見えるしるしだと語ります。要約を読む →その食卓が、あなたの教会を建て上げる牧師トゥアンは、聖餐が本当の食事の中で生まれたこと、そしてコリントでの乱用が、聖餐を兄弟愛の食事から切り離す結果になったことを示します。教会の食事は連帯のためにあり、手段のない人をはずかしめるものであってはならないと語ります。要約を読む →

コリント人への第一の手紙11章についてよくある質問

コリント人への第一の手紙11章3節の「かしら」とはどういう意味ですか。

パウロは、すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神であると書いています。「かしら」という語は、教派によって、権威、起源、源など、いくつかの意味で理解されています。多くの人は、キリストの模範は仕えることであり、御父と御子は尊厳において等しいと強調します。11節は、主にあっては男と女は互いに依存していると付け加えています。

女性は今日でもかしらをおおうべきですか。

教会によって答えは異なります。この習慣を守る教会もあれば、コリントの習慣であって、原則は男女の違いと敬意にあり、今日ベールを求めるものではないと見る教会もあります。本文について全員が一致するのは、男も女も集会の中で祈り預言すること、そしてそこに互いへの敬意と秩序が必要だということです。

ふさわしくないままで主の晩餐にあずかるとはどういうことですか(コリント人への第一の手紙11章27節)。

パウロは、完全な人だけがあずかれると言っているのではありません。文脈では、コリントの富む者が貧しい者を軽んじたように、主のからだをわきまえないで食べる人々を指しています。本文は、自分を吟味し、必要なら悔い改め、そしてあずかるよう招いています。聖餐は、赦された罪人のためのものであり、完璧な人のためのものではありません。

なぜ聖餐は「わたしを記念するため」に行うのですか。

イエスは、渡される夜、過越の食事の中で聖餐を定められました。パンは裂かれたからだを、杯は血による新しい契約を思い起こさせます。これを行うことで、主の死を思い出し、それを告げ知らせ、再び来られることを待ち望みます。そこでキリストがどのように臨在されるかについては教派により異なりますが、いずれもそれを礼拝の中心的な行為と見ています。

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