聖書 — 口語訳 (1955)
コリント人への第二の手紙 3
概要
コリント人への第二の手紙3章で、パウロは自分の働きを弁護します。教会そのものが、御霊によって心に書かれたキリストの手紙だというのです。パウロは、石に刻まれ、一時的な栄光で顔が輝いたモーセが担った古い契約と、それより優れた栄光を持つ御霊の新しい契約とを比べます。モーセの覆いは、キリストにあって取り除かれます。章の終わりは、御霊が与える自由と、主の栄光を見つめる信者の変えられていくことです。
この章の5つの区分
1わたしたちは、またもや、自己推薦をし始めているのだろうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた、あるいは、あなたがたからの推薦状が必要なのだろうか。
2わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。
3そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。
4こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。
5もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。
6神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。
7もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、
8まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。
9もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。
10そして、すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのである。
11もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものである。
12こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、
13そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。
14実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。
15今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。
16しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。
17主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
18わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
鍵となる聖句
そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。
パウロは教会を、インクではなく御霊によって、石の板ではなく心に書かれた手紙として描きます。神のみわざは、変えられた人生の中に見えるのです。
もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。
仕える力は個人の才能からではなく、神から来ます。この節は、へりくだりへの招きであり、同時に信頼への招きでもあります。
神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。
パウロは文字と御霊を対比させます。律法だけでは罪を示しますが、それを生きる力は与えません。御霊はいのちを与えます。二つの契約の関係は、キリスト教の諸伝統によって異なる形で説明されています。
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
この箇所は、自由を御霊の臨在に結びつけます。したい放題にするという意味ではなく、覆いと罪責から解き放たれて、神に近づくことができるということです。
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
これはクリスチャン生活の中心となる節です。主の栄光を見つめることで、信者はそのかたちに変えられていきます。変化は、見つめるものから来るのであって、一人の努力からではありません。
説教が語っていること
コリント人への第二の手紙3章についてよくある質問
「文字は殺し、御霊は生かす」とはどういう意味ですか
パウロは、罪を明らかにして罪に定める書かれた律法と、いのちを与える御霊のみわざとを比べています。律法が悪いと言っているのではなく、律法だけでは心を変えられないと言っています。新しい契約は、信じる者の内での御霊のみわざに基づいています。
なぜモーセは顔に覆いをかけていたのですか
神の御前にいたあと、彼の顔は輝き、イスラエルの人々はそれを見つめることができませんでした。パウロは、その栄光は一時的なものだったと説明します。そして、キリストにあっては覆いが取り除かれ、神への道が開かれているという意味で、このイメージを用いています。
栄光から栄光へと変えられるとはどういう意味ですか
18節は、主の栄光を見つめる信者の、段階的な変化を描いています。信者は御霊のはたらきによって、少しずつキリストに似た者となります。それは自分の成果ではなく、時間をかけて進められる神のみわざです。
「主の霊のあるところには、自由がある」とはどういう意味ですか
この章の文脈では、自由とは覆いなしに、罪に定められることなく、変えられた心で神のもとに来られることです。それは神の意志に従って生きるための自由であり、神なしで生きるための自由ではありません。
コリント人への第二の手紙 3を引用している記事
口語訳(1955年)— パブリックドメイン。