はじめに
「ときどき、思いがけないことが起こって、言葉を失うことがあります。」ロンドンのStreatham Baptist Churchの牧師ブルース・ネイデン(Bruce Naden)は、このように語って、シリーズ「ホスピタリティの40日間」の第5週を始めます。この日の聖書箇所は使徒行伝10章24〜48節で、使徒ペテロがローマの百人隊長コルネリオの家に入っていく場面です。
牧師は「思いがけないこと」の例として、ひいきのサッカーチーム、レスター・シティの話をします。「はみ出し者、のけ者、見捨てられた者」の寄せ集めのようなチームがプレミアリーグに昇格し、ぎりぎりで降格をまぬがれ、ギリシャ代表を解任されたばかりの監督を迎えました。ブックメーカーが示した優勝のオッズは5000倍で、ネッシーが見つかる確率(2000倍)やエルビス・プレスリーが生きて見つかる確率(2500倍)よりも低いとされました。ゲイリー・リネカーは、レスターが優勝したら自分の番組を下着姿で進行すると宣言までしました。そして、レスターは優勝したのです。実況のピーター・ドルーリーはこうまとめます。「レスターも世界中も、目を見開き、喜び、戸惑いながら、立ちつくしています。どうしてこんなことが起こり得るのでしょうか。」
ブルース・ネイデンは、使徒行伝のページはこのようにめくるべきだと言います。そこでは、神がはみ出し者たちの運動を動かし、聖霊の力によって世界を揺り動かしておられるからです。前の週は、ペンテコステと初代教会の分かち合う生活を見ました。9章では、サウロが復活のイエスに出会います。「かつては迫害者、今は宣べ伝える者」です。10章では、神が異邦人に救いの門を開かれます。回心するのは百人隊長だけではなく、使徒ペテロもまた変えられます。牧師はここから、ホスピタリティについての6つの教えを引き出します。
メッセージの流れ
1. ホスピタリティは、私たちの境界線が問い直されるところから始まる
- ペテロは、汚れているとされる動物でいっぱいの布の幻を見ます。しかし、これは食べ物だけの話ではありません。ペテロの中には、だれが清く、だれが受け入れられ、だれが自分の食卓を共にするにふさわしいのかという、深く根づいた考えがありました。
- レビ記には、汚れた食べ物や汚れた人々の長いリストがあります。幻の中で、神の霊ははっきりと語ります。「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない。」
- 神は、旧約聖書のラベルの貼り間違いを正しているのではありません。律法の汚れたものは、ひとつの現実を指し示しています。「私たちはみな反逆者です。私たちはみな、罪のゆえに汚れています。しかし、イエスにあって、すべてのものとすべての人は、きよくされ得るのです。」旧約聖書は、イエスにおいて成就した真理を告げる影なのです。
- 聖霊が働くとき、ペテロのあらゆる区分は砕け散ります。「神は、ペテロをもてなし上手な主人にする前に、ペテロの招待客リストを変えなければなりませんでした。」
- 牧師は、幻や夢、預言の言葉、知識の言葉を与えてくださる神を喜び、教会にもっとそれが与えられるよう求めます。しかし、こう強調します。「ホスピタリティの民となるために、幻も、預言の言葉も、夢も必要ありません。神はすでに、ご自身の御言葉を与えてくださったのです。」
- 創世記から黙示録まで、ホスピタリティは聖書を貫いています。神は創造において私たちを迎え入れ、救いにおいて私たちを迎え入れ、永遠においても私たちを迎え入れてくださいます。「すべては恵み」であり、私たちが人を迎え入れることは、その恵みへの応答なのです。
2. ホスピタリティは、理論から実践へと進む
- ペテロは、幻を頭の中で認めるだけでは終わりません。戸をたたかれるとすぐに、カイザリヤから遣わされた3人の男たちを家に招き入れ、その夜は泊まらせ、翌日に彼らと一緒に出発します。
- そして、コルネリオの家に入ります。これは思い切った行動でした。コルネリオはただの異邦人ではなく、ローマの百人隊長、つまり国を占領する側の人であり、ペテロが憎むものと思われていた相手でした。その人と食卓を共にすることは、民族への裏切り者と見られることを意味しました。
- 説教者は、自分の国についての余談を挟みます。今、肌の色や出身によって、イギリス人であること、イングランド人であることの意味を定め直そうとする人々がいる、と。また、ボートで渡ってくる人をだれであれ救助するからといって、RNLI(英国王立救命艇協会)の救助隊員を裏切り者と呼ぶ人々にも触れます。「彼らは裏切り者ではありません。」
- ペテロは、政治的、文化的、宗教的な壁を越えていきます。これはもはや理論ではなく、従うようにという招きです。
- 牧師は、前の週に話した物語に戻ります。アヒルたちがアヒルの教会に行き、アヒルの牧師が「あなたたちには飛ぶための翼がある」と熱く説教し、みんなが「ハレルヤ」「アーメン」と叫び……そして、よちよち歩いて帰っていく、という話です。「神が、私たちを御言葉の聞き手にとどまらせず、行う者としてくださいますように。」
- 会衆への問いかけです。「この数週間で、あなたは動きましたか。一歩の大きさは問題ではありません。でも、動きましたか。」文化や世代をこえ、通りで、カフェで、職場で、地域で実践されるホスピタリティとは、どのようなものでしょうか。
3. ホスピタリティは、ラベルではなく、その人を見る
- コルネリオは、親族や親しい友人たちを集めていました。ペテロが着くと、神が語られることを聞こうと、家じゅうの人が待っています。ペテロは、神が人をわけへだてなさらないことを、理解しはじめます。
- 人をラベルを通して見るのは、とても簡単です。移民、難民申請者、人種差別主義者、金持ち、貧しい人、外国人、信仰を持たない人、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒。
- ホスピタリティは、区分の向こうを見るよう私たちを招きます。そこにいるのは、神のかたちに造られた人であり、さらに、イエスが死ぬことを引き受けてくださった相手なのです。
- 福音は、民族、国籍、社会的な地位、文化的な親しみやすさを、仲間に入る条件にしようとするあらゆる試みを打ち壊します。
- 「ホスピタリティは、『この人たちは私たちの仲間だろうか』と問うのをやめ、『神はこの人の中で、すでにどのように働いておられるだろうか』と問いはじめるときに始まります。」
4. ホスピタリティは、福音を分かち合う場をつくる
- コルネリオは、ただおしゃべりをするため、あるいはコーヒーを飲むためにペテロを招いたのではありません。神が語られることを聞きたくて、人々を集めたのです。その家は、福音が宣べ伝えられ、出会われる場所になります。
- コルネリオはすでに神を敬っていました。偶像を捨て、生き方が向きを変えたしるしとして、貧しい人々に施しをしていました。これは、ローマ人、まして占領する側の者がするはずのないことでした。ペテロは、この人に福音を伝える必要はないと思ってもおかしくありませんでした。「あなたも、そういう人を知っているかもしれません。神を信じていて、良いことをしている。でも、イエスを知らない人です。」
- 食卓を囲むと、信頼が築かれ、人は自分が見てもらえていると感じ、警戒心を解きます。食卓は、耳を傾け、祈り、証しし、新しい発見をする場所になります。
- ブルース・ネイデンは、これをスポーツのチャプレンとして学びました。何をしているのかと聞かれると、彼はこう答えていました。「意図をもって、一緒に時間を過ごしているんです。」人々を知り、愛し、仕え、自分の内にある希望について説明する機会を神が開いてくださるよう祈ること。研修では、「自分は客であることを忘れないように」と繰り返し言われたそうです。そのため、彼は迎え入れられ、食事を出されました。朝食、昼食、ときには夕食も。「私がしていたのは、祈ること、顔を出すこと、そしてたくさん食べることだけでした。」
- のちにキャプテンになったイスラム教徒の選手が、毎週コーヒーを飲みながら、リーダーシップについて彼と話していました。6、7週間たったとき、その選手はこう言いました。「ブルース、このイエスという方について、もっと知りたいんです。」彼はキリストのもとに来て、クリスチャンの結婚式で結婚しました。「いつもこうなるわけではありません」と牧師は言います。「ただ祈り、顔を出し、よく愛することが必要だったのです。」
- あまり信仰熱心ではないユダヤ人の家庭に育った18、19歳の若い選手は、自分のルーツとつながり直したいと願っていました。牧師は、イエスがこれらすべてをどう成就されたかをすぐに説明するのではなく、彼の発見や祭りに関心を寄せながら、そばに寄り添いました。ある日、その青年はイエスについて話したいと言いました。牧師はその後、彼と連絡が取れなくなり、今どうしているかはわかりません。けれども、彼が福音の真理に引き寄せられたことは知っています。
- 「食卓を整えるのは私たちですが、そこで私たちと他の人々に出会ってくださるのは神です。」私たちの食事、家庭集会、地域のカフェ、友人の輪が、信仰についての率直な質問を安心して口にできる場所になったとしたら、どうでしょうか。
5. ホスピタリティは、客だけでなく迎える側も変える
- 「神は人をかたよりみないかたで……ほんとうによくわかってきました。」ペテロは、自分こそがメッセージを届ける側だと確信して到着します。そして確かに、告げるべき良い知らせがありました。死んで復活されたイエスにある、いのち、赦し、新しい出発です。
- しかし、ペテロ自身もまた、弟子として形づくられていきます。神はこの出会いを用いて、神についての理解と、良い知らせが差し出すものについての理解を広げてくださいます。
- 牧師は、前の週に語った言葉をもう一度取り上げます。本人も「耳が痛い」と認めつつ真実だと言うその言葉は、南アフリカで気づかされたものだそうです。「自分の部族だけでは、弟子として十分に形づくられることはできません。」自分と似ていて、同じように考え、同じ教育を受けた人たちだけでは足りないのです。
- だれにでも盲点があります。感情の面、心理の面、世界観の面、そして文化の面での盲点です。子どものころから受け継いだ確信の中には、福音の力により、また別の文化から来たイエスの弟子の目を通して、解体されるべきものがあります。
- 「あなたたちがいなければ、私はイエスにもっと似た者にはなれません。そして、あなたたちも、レスター出身のおしゃべりな、白人の労働者階級の男がいなければ、イエスにもっと似た者にはなれないのです。」
- 私たちは、ホスピタリティを、人のためにするものだと考えがちです。しかし、迎え入れるとき、私たちは、相手と同じくらい自分も学ぶことがあるのだと気づきます。
6. ホスピタリティは、聖霊の驚くべき働きの余地を残す
- ペテロがまだ話し終えないうちに、招きの言葉もまだ口にしていないのに、聖霊がコルネリオとその家の人々の上に下ります。もし確証が必要だったなら、これがそれです。神の民に加わるしるしは、もう割礼ではありません。イエスを信仰によって受け入れた神の子どもすべてのうちに宿る、聖霊の賜物なのです。
- 「割礼ではなく、バプテスマを。」17歳でキリストに出会った、もとは異教徒であった牧師は、このことを喜びます。
- 聖霊はどこに下ったのでしょうか。一軒の家です。神は、私たちの建物や、プログラムや、文化的な期待の中に閉じ込められてはおられません。「神が働く資格のある場所を、あなたが決めて柵で囲ってはいけません。」人は教会の中で救われますが、ロッカールームや食堂、刑務所の独房、食卓のまわりでも救われています。
- ペテロは思い起こさせます。証人たちは、イエスが「死人の中から復活された後、共に飲食しました」。イエスは、復活の前にも後にも、食べ、飲んでおられました。父が御子を遣わされたように、イエスは私たちを遣わされます。
- 「もし、リバイバルが、一度にひとつの食卓から、ひとつの家から、ひとつの出会いから起こるとしたら、どうでしょうか。」牧師は付け加えます。日曜日に集まるのをやめようという話ではありません。神は礼拝の中でも人々に出会ってくださいます。しかし、「私たちは日曜の朝の集まりにすべての荷を負わせてきましたが、それはその集まりの役割ではありません」。
- 聖霊の働きの主な場所は、壁の外、日常の中にあります。牧師にとってそれは、リーグ・ワンのAFCウィンブルドンのスタジアムの座席で、がんの治療を受けている友人のとなりに座っている時間です。「聖霊がそこで私たちに出会ってくださらない理由があるでしょうか。」神は、ご自分の民と他の人々に日常の中で出会い、そこから特別なことをなそうとされます。
7. 結び:ガリラヤ湖の民となる
- イスラエルには2つの湖があります。死海とガリラヤ湖は、同じ水源から水を受けます。死海はその水をためこみ、死んでいます。ガリラヤ湖は水を流し出し、いのちにあふれています。
- 会衆の頭上には、川が流れるところではすべてが生きる、と宣言する横断幕が掲げられています。牧師はそこに、神が私たちを招いておられるいのちの姿を見ます。神の恵みを受け、そのいのちを、迎え入れることとホスピタリティによって、他の人々へ流れさせることです。
- 聖霊は、徹底して生活を分かち合う共同体に新しいいのちを吹き込みます。そのいのちは、飢え渇いた世界にあふれ出し、民族、人種、階級の壁を打ち壊します。
- 「それを受けたなら、分かち合いなさい。ガリラヤ湖の民となりましょう。」
- 結びの祈りは、私たちが築いてきた壁と、見過ごしてきた人々について赦しを求め、ホスピタリティを実践する勇気を願います。「ラベルではなく人を見ることができるよう、あなたがすでに働いておられる場所を見分け、そこであなたに加わることができるよう、私たちを助けてください。」
ポイントのまとめ
- 神は、ペテロを主人にする前に、ペテロの招待客リストを変えなければなりませんでした。ホスピタリティは、聖霊が私たちの境界線を揺り動かすときに始まります。
- 人を迎え入れるのに、幻は必要ありません。神の御言葉は、最初から最後まで、境界を越えていく神を示しており、私たちの迎え入れは、その恵みへの応答です。
- どのラベルの向こうにも、神のかたちに造られ、イエスが死んでくださった、ひとりの人がいます。その人の中で、神はすでに働いておられるかもしれません。
- 食卓は、福音が聞かれる場所をつくります。そして、その出会いは、迎え入れられる人だけでなく、迎える人も変えます。
- 聖霊は、教会の建物の中だけにとどまりません。家庭やロッカールーム、スタジアム、私たちの日常の中で働かれます。
個人への適用
- 今月に入ってから、ホスピタリティの理論から実践へ、たとえ小さくても一歩を踏み出しましたか。
- あなたは、ある人たちに、思わずどんなラベルを貼っていますか。また、その人たちの中で神がすでに働いておられる場所を、どのように探すことができるでしょうか。
- 知り、愛し、仕えようという思いで、だれを食卓に招いたり、コーヒーを飲みながら会いに行ったりできるでしょうか。
- あなたの周りに、別の文化や別の世代から来た人はいますか。その人は、イエスについて、あなたに何を教えてくれるでしょうか。
- あなたの一週間の中の、どの日常の場所で、知らず知らずのうちに、聖霊の働きの周りに柵を立ててしまっていますか。
引用された聖句
- 使徒行伝 10:24-48
- 使徒行伝 10:9-23
- 使徒行伝 10:15
- 使徒行伝 10:28
- 使徒行伝 10:34-35
- 使徒行伝 10:41
- 使徒行伝 2:41-47
- 使徒行伝 9:1-22
- レビ記 11章
- ヤコブの手紙 1:22
- ヨハネの福音書 20:21
- エゼキエル書 47:9
よくある質問
使徒行伝10章でペテロに与えられた、布の幻は何を意味していますか。
説教者によれば、この幻は食べ物よりもはるかに大きなことを語っています。ペテロは、だれが清く、受け入れられ、自分の食卓を共にするにふさわしいのかについて、固まった考えを持っていました。神は、ご自分がきよめたものを汚れたものと見なしてはならないと告げます。イエスにあって、すべてのものとすべての人は、きよくされ得るのです。神は、ペテロをもてなし上手な主人にする前に、ペテロの招待客リストを変えなければなりませんでした。
なぜペテロがコルネリオの家に入ることは、それほど大胆な行動だったのですか。
コルネリオは、ユダヤ人から汚れていると見なされた異邦人というだけではありませんでした。ローマの百人隊長であり、国を占領する側の人でした。その人と食卓を共にすることは、民族への裏切り者と見られることを意味しました。それでもペテロは、政治的、文化的、宗教的な壁を越えていきます。神が、だれをも汚れた者と見てはならないと教えてくださったからです。
ホスピタリティを実践するのに、幻や預言の言葉は必要ですか。
いいえ。説教者は、神が今も幻や預言の言葉を与えてくださることを喜んでいますが、ホスピタリティの民となるためにそれらは必要ないと語ります。神はすでにご自身の御言葉を与えてくださり、その御言葉は創世記から黙示録まで、境界を越えて人を迎え入れる神を示しています。私たちが人を迎え入れることは、その恵みへの応答です。