はじめに
「あなたがたは信じた時に、聖霊を受けましたか」。これは、パウロがエペソで出会った数人の弟子たちに投げかけた問いです(使徒行伝19章2節)。パウロは、救われて何年になるのか、どの教会に通っているのかとは尋ねません。いちばん大切なことに、まっすぐ入っていきます。
神戸キリスト栄光教会の牧師が、2026年9月20使徒行伝19章1-7節から語りました。メッセージのタイトルは、ただ一つの問いを掲げています。なぜ聖霊は下られたのか、というものです。
メッセージは聖書の本文を一節ずつたどっていきます。準備の段階にとどまっていた弟子たち、「私はキリストのものです」と告げるバプテスマ、異言についての率直な整理、そして私たちを証人にするという聖霊の目的です。最後に、お笑いの舞台での思いがけない個人的な体験談と、自分は小さいと感じているすべての人への励ましの言葉で結ばれます。
メッセージの流れ
1. 核心を突く問い
- 物語は、アポロがコリントにいるところ(使徒行伝18章)から始まります。そこから視点はパウロに移り、パウロは内陸の地方を通ってエペソに着きます。
- パウロはそこで数人の弟子に会い、信じた時に聖霊を受けたかどうかを尋ねます。彼らは、聖霊がおられることさえ聞いたことがない、と答えます。
- 牧師は、この人たちはおそらく旧約聖書に出てくる神の霊のことは知っていただろうと説明します。彼らが知らなかったのは、最も有力と思われる読み方では、イエスによって成し遂げられた聖霊の新しい働きのほうでした。
2. 準備の段階で止まっていた
- パウロは、どんなバプテスマを受けたのかと尋ねます。答えは、ヨハネのバプテスマでした。アポロも「ただヨハネのバプテスマしか知らなかった」のです(使徒行伝18章25節)。
- バプテスマのヨハネは、イエスの道を備えるために神から遣わされました。ヨルダン川での彼のバプテスマは悔い改めのバプテスマでした。自分の罪を認め、神のもとに立ち返り、主を迎える備えをしなさい、というものです。そして彼はこう付け加えました。私のあとから来る方を信じなさい、と。
- ヨハネは光ではなく、光についてあかしをするために来た人でした(ヨハネ1章8節)。この弟子たちはヨハネのメッセージを受け入れていましたが、イエスが成し遂げた救いを、まだ十分には聞いても理解してもいませんでした。十字架、死に対する勝利、復活、そして天から注がれる聖霊のことです。
- 悔い改めは欠かせません。それは方向転換であり、信仰生活でも日常生活でも同じです。けれども、それはゴールではありません。悔い改めは、私たちをメシア、イエスへと向かわせるものです。
3. あなたは本当は何を信じていますか
- 牧師は会衆に問いかけます。私たちの中にも、ヨハネのところで止まってしまっているものはないでしょうか。もしあるなら、早く気づくほうがよいのです。
- それは律法主義的な形をとることがあります。「もっと悔い改めなければ、もっと祈らなければ、もっと聖書を読まなければ」。どれも良いことで、大切なことです。しかしそこで止まると、知らないうちに中心がずれていきます。中心がイエスではなく、自分が何をやり遂げたかになってしまうのです。
- 福音はこう言っているのではありません。神に受け入れられるためにもっと努力しなさい、とは。福音はこう言います。あなたのために来られたイエス・キリストを信じなさい。そうすればあなたは救われます。
- 牧師は、ローマ人への手紙10章9-10節を会衆に読ませます。「すなわち、もしあなたの口で、イエスは主であると告白し、あなたの心で、神が死人の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」「自分は何を信じているのか」という問いが浮かんだとき、この言葉を一人ひとりが告白できるようになってほしい、と牧師は願っています。
4. バプテスマ:キリストのものになる
- 5節で、この弟子たちはイエスのことを聞き、それに応え、主イエスの名によってバプテスマを受けます。
- 牧師は、自分の教会の喜びを語ります。前の週に、若い夫婦と子どもたち、合わせて5人がバプテスマを受け、さらに小学生が翌週のバプテスマに向けて準備をしているそうです。
- バプテスマは単なる宗教的な儀式ではありません。それは「私はイエス・キリストのものです」と告げるものです。ローマ人への手紙6章は、それをキリストの死と復活につながることとして示しています。霊的な結婚、葬りと復活にもたとえられます。
- ガラテヤ人への手紙3章27節:「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。」イエスを頭で知っているだけでは足りません。クリスチャンはキリストのものであり、キリストの内にとどまります。
- クリスチャンの歩みは、応答の連続です。神が私たちを選び、神が先に私たちを愛してくださり、私たちはそれに応えます。私たちから始まるものは何一つありません。
5. 異言を落ち着いて読む
- 6-7節:パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに下り、彼らは異言を語り、預言をしました。人数はおよそ十二人でした。
- 出発点はこうです。すべてのクリスチャンは聖霊を受けています。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことはできない」からです(コリント人への第一の手紙12章3節)。
- では、聖霊に満たされた信者は、みな異言を語らなければならないのでしょうか。牧師は、よく「異言は話すの?」と聞かれること、そしてユースキャンプで異言を「出さなければ」という圧力を見たことがあると語ります。誰かを批判したいのではなく、落ち着いてみことばを読み直したいのだ、と言います。
- 異言は賜物の一つで、癒やしや奇跡、信仰と同じ一覧に挙げられています(コリント人への第一の手紙12章)。それなのに、と牧師はユーモアを交えて言います。何人の病人を癒やしたか、何個の山を海に投げ込んだか、と聞く人は誰もいない、と。
- 本文には開かれたままの部分があります。「十二人ばかり」「数人の弟子」とあるだけです。もっと大勢いたのかどうか、全員が異言を語ったのかどうかは分かりません。はっきりしているのは、聖書がここで、聖霊に満たされた人はみな異言を語ると言っているわけではない、ということです。
- 牧師は二つの行き過ぎを挙げます。異言を語らなければ聖霊に満たされていないと断言するのは、言い過ぎです。異言を、新しい啓示を受け取るための一種のテレパシーのように見るのは危険です。神のことばである聖書の権威を越えてしまいかねないからです。
- 逆に、聖霊の働きも異言も預言も終わったと言うのは「もったいない」ことです。聖霊を制限しても良いことは何もありませんし、自由に働かれる方を制限する権威は私たちにはありません。
6. 聖霊の目的:私たちを証人にすること
- 天に昇られる前に、イエスははっきりとこう言われました。「但し、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。」(使徒行伝1章8節)
- 使徒行伝19章の異言と預言は、具体的なしるしです。しかし、それに注目しすぎて、異言を語るために聖霊を求めるようになると、的が変わってしまいます。
- 聖霊は、私が特別な人になるために与えられるのではありませんし、「超能力」を手に入れるためでもありません。牧師は笑顔で言います。そう考える人は、アニメを見すぎているのかもしれません。
- この目的を忘れると、二つの間違いに陥ります。聖霊の働きはもう終わったと平然と言ってしまうこと。あるいは、それを個人的なレベルに縮めてしまい、自分のスキルアップのようなものにしてしまうことです。
- 今日もなお、聖霊は教会の中で働いておられます。ヨハネの福音書によれば、聖霊は罪を認めさせ、人の心をイエスへと向けさせます。聖霊はイエスの栄光を現します。聖霊は助け主、寄り添って助けてくださる方であり、イエスは「わたしはあなたがたを孤児にはしておかない」と約束されました(ヨハネ14章18節)。牧師はそこに、「世の終りまで、いつも」ともにいるという約束を重ねます(マタイ28章20節)。
7. 小さいと感じるときでも、あかしをする
- 牧師は、休日である金曜日のことを話します。別の牧師と一緒に、日本最大級の漫才の大会、M-1グランプリの一回戦に出場したのです。朝10時に大阪のなんばで集合し、そのあと予想外の1時間半、ベンチで待つことになりました。
- 待っている間に、相方が「特別レッスン」をしてくれました。何をするにも聖霊とともに、それが聖霊との交わりなのだ、と。舞台袖からマイクに向かって歩き出すとき、牧師は「聖霊さま、一緒にお願いします」と言いながら進み出ました。
- 二人のネタでは、信仰と教会がどんなものかをシンプルに伝えるために、二つの聖句を引用します。「いつも喜んでいなさい」と「求めなさい、そうすれば与えられる」です。
- 出場は4回目で、子どもたちと出たときを入れると5回目でした。会場はたいてい凍りついています。最初の聖句で空気が変わり、一部の顔には「あ、宗教か」と書いてあるのが読み取れます。
- ただ一人だけ、違う反応をした人がいました。最前列の、ちょうどマイクの正面に座っていた年配の女性です。最初の聖句から真剣に聞き入り、二つ目の聖句のところでは、祈るように両手を合わせていました。牧師も相方も、その方がどなたなのか、クリスチャンなのかどうかも知りません。
- 二人は一回戦で敗退しました。けれども牧師は、あのひとときがあの女性を励ましたかもしれないと思い、イエスの栄光が現されたのなら、5回目に挑戦したいと考えています。
- 7節に戻りましょう。「十二人ばかり」の男たちが、エペソのような大都市にいました。ごく小さなグループです。それでも20節では、「主の言はますます盛んにひろまり、また力を増していった」のです。
- 自分は小さいと感じているなら、この箇所はあなたのためのものです。牧師は、舞台では自信が持てないと打ち明けます。プロではないし、自分のメッセージが観客に届いているのかも分かりません。けれども問題は、何人いたかではありません。問うべきなのは、この十二人を用いたのは誰か、そして彼らの力は誰から来ていたのか、ということです。
心に留めたいこと
- エペソの弟子たちはヨハネのバプテスマで止まっていました。悔い改めは欠かせませんが、それはイエスへと導くものであり、ゴールではありません。
- 福音は「神に喜ばれるためにもっと努力しなさい」ではなく、「あなたのために来られたイエス・キリストを信じなさい」です(ローマ人への手紙10章9-10節)。
- バプテスマは、あなたがキリストのものであることを宣言します。クリスチャンの歩みは、先に私たちを愛してくださった神の愛への応答です。
- 異言は賜物の一つです。それを必ず必要な証拠にしてはいけませんし、聖霊の働きは終わったと言い張ってもいけません。
- 聖霊は、あなたがイエスの証人となるために与えられます。小さなグループであっても、聖霊に満たされていれば、みことばが力強く広がるのを見るのです。
個人的な適用
- 今日、もし誰かに「あなたは何を信じているの?」と聞かれたら、自分の努力の話を先にせずに、ローマ人への手紙10章9-10節で答えられるでしょうか。
- あなたは、まだ「準備の段階」で生きている部分はありませんか。イエスがすでに成し遂げてくださったものを、自分で得ようとしていないでしょうか。
- 聖霊の賜物を、どのように見ていますか。霊的なレベルのしるしとして見ていますか。それとも、あかしのために仕える道具として見ていますか。
- 今週、会話や約束、仕事の前に、「聖霊さま、一緒にお願いします」とシンプルに言ってみませんか。
- 自分は小さすぎて何の役にも立たないと感じるのは、どんなところですか。使徒行伝19章7節と20節を読み返し、あなたの持っているものを用いてくださるのは誰かを考えてみてください。
引用した聖書箇所
- 使徒行伝19章1-7節
- 使徒行伝18章24-26節
- ヨハネ1章8節
- ローマ人への手紙10章9-10節
- ローマ人への手紙6章3-5節
- ガラテヤ人への手紙3章27節
- ヨハネの手紙第一4章19節
- コリント人への第一の手紙12章3-11節
- 使徒行伝1章8節
- ヨハネ14章16-18節
- ヨハネ16章8-14節
- マタイ28章20節
- テサロニケ人への第一の手紙5章16節
- マタイ7章7節
- 使徒行伝19章20節
よくある質問
なぜパウロは、エペソの弟子たちに聖霊を受けたかどうかを尋ねたのですか。
この弟子たちはヨハネのバプテスマしか知りませんでした。それはメシアの来臨に備える、悔い改めのバプテスマです。彼らは旧約聖書に出てくる神の霊は知っていましたが、死んで復活し、天に昇られたイエスによって成し遂げられた聖霊の新しい働きは知りませんでした。彼らは準備の段階にとどまっていたのです。
聖霊に満たされるには、異言を語る必要がありますか。
使徒行伝19章には、この人たち、およそ十二人が異言を語り、預言したと書かれていますが、聖霊に満たされた信者がみな必ず異言を語る、とは述べていません。異言は賜物の一つで、癒やしや奇跡、信仰と並んで挙げられています(コリント人への第一の手紙12章)。説教者は、逆に聖霊の働きは終わったという考え方にも注意を促しています。
なぜ信じる者に聖霊が与えられるのですか。
イエスは天に昇られる前に、こう言われました。「但し、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、……わたしの証人となるであろう。」(使徒行伝1章8節)聖霊は、私たちを特別な人にするために与えられるのではなく、地のはてまでイエスをあかしするために与えられます。聖霊は、道のりの中で私たちを慰め、助け、強めてくださいます。
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