はじめに
このメッセージは、Église Baptiste Toulouse Métropole の新しいシリーズ「バトンの受け渡し」の第一回で、テモテへの第二の手紙を取り上げています。この日の本文は、テモテへの手紙第二 1章1〜12節です。
これは使徒パウロの最後の手紙で、彼が書いた十三番目の手紙にあたります。とりわけ胸に迫る手紙です。パウロは四度の宣教旅行を終えたのち、ローマでの二度目の投獄の最中、おそらく紀元66年にこの手紙を書いています。裁判を待つ身で、自分が処刑されることを知っていました。今回は、もう抜け道はありません。パウロは、エペソに残っているテモテを信仰において励まし、栄光の御国へ旅立つ前にもう一度会いたいと願ってこの手紙を書きました。いわば遺言のような手紙です。
説教者は、このメッセージの核心をこう要約しています。「恐れが私たちの忠実さを消し去ろうとするとき、たとえその忠実さに代価が伴うようになっても、キリストに忠実であり続けるために、私たちは神の恵み、御霊の力、そして死に対するイエス・キリストの勝利を見つめる必要があります。」
メッセージの構成
1. 代価の大きい状況にいる忠実なしもべ、テモテ
- テモテは不信者ではなく、キリストを否んだ人でもありません。忠実であり続けることがますます高くつく状況に置かれた、忠実なしもべです。
- 霊的な父であるパウロは獄中にあり、死が間近に迫っています。多くの人がパウロを見捨てました。「アジヤにいる者たちは皆、わたしを捨てて去った。その中には、ピゲロとヘルモゲネがいる」(15節)。その直後、パウロはオネシポロのために感謝しています。オネシポロは忠実にパウロに寄り添い、鎖につながれた彼を訪ねた人です。
- 偽教師たちがエペソの教会を脅かしており、テモテはそれに抵抗しなければなりません。彼自身も恐れの誘惑を知っています。
- パウロの言いたいことは、「泣くのをやめて、もっと熱心になりなさい」ではありません。むしろこう語っています。恐れや福音の代価があなたの炎を消そうとするときには、誰があなたに御霊を与えたかを思い出し、霊的な父の模範を見つめ、その父が死を覚悟している福音をじっと見つめなさい、と。
- 私たちはテモテと同じ状況を生きているわけではありませんが、福音が受け入れられにくいときに黙ってしまう誘惑、実がなかなか見えないときに落胆する誘惑、家族や友人との衝突を避けるために真理を薄めてしまう誘惑は、よく知っています。
2. 神の賜物を再び燃えたたせなさい
- 「そういうわけで、わたしが按手をしたことによってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃えたたせなさい」(6節)。この「そういうわけで」は、テモテの偽りのない信仰(5節)を指しています。炎はずっと前に灯されました。二人は十五年ほど一緒に主に仕えてきたのです。
- 昔も今も変わらない危険は、恥辱や十字架、自己放棄への恐れです。それは妥協や罪深い譲歩へと私たちを押しやり、致命的な結果を招きます。熱意が冷め、心が冷えていくことです。
- この炎は、単なる能力ではありません。それは「キリストとその福音を知らせ、さらにはその福音のために苦しむことさえいとわない、勇気ある心構え」です。恵みが心の中に生み出す熱意と勇気と忍耐のことです。
- テモテはこの賜物を按手によって受けました。おそらく任職のときのことで(テモテへの手紙第一 4章14節)、彼について語られた預言(テモテへの手紙第一 1章18節)とも結びついています。説教者はジョン・パイパーの言葉を引き、その場でテモテは涙を流したのではないかという見方を紹介しています。パウロが4節で思い起こしている涙です。
- メッセージははっきりしています。炎は神ご自身が灯してくださいました。「私たちが心の中に火をつける必要はありません。」私たちがすべきことは、その火を絶やさず、薪をくべて燃え続けさせることです。
- 朝起きて祈るため、画面を消してみことばを読むため、ソファから立ち上がって兄弟姉妹に会いに行くために、戦いがあります。説教者は証ししています。みことばから離れ、教会の集まりから遠ざかるようになった人は、例外なく最後には火が消えてしまいました。そのようなときに、取り返しのつかない選択をし、最も痛ましい失敗を経験したのです。
3. ストーブの火:灰、熾火、薪、そして酸素
- 「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と知恵に満ちた御霊を与えてくださいました」(7節、その日に読まれた翻訳による)。炎は、神の力、すなわち聖霊によって再び燃えたたせられます。
- 冬の朝、説教者は居間に下りてストーブを開け、灰を取り除き、熾火を集め、薪を足して通気口を開けます。しばらくすると炎がよみがえり、部屋じゅうに暖かさが戻ってきます。
- 霊的な生活も同じです。炎を窒息させる灰を払い落とし(世の誘惑)、熾火を集め(信仰の仲間との交わり)、薪を足し(神のみことばに立ち返ること)、酸素を送る(聖霊が心の中で働くままにすること)のです。
- パウロは手紙を「恵みが与えられますように」(2節)で始め、「恵みが、あなたがたと共にあるように」(テモテへの手紙第二 4章22節)で結びます。この恵みは神のみことばを通して届きます。パウロの使徒としての書簡は彼の想像の産物ではなく、神の民を養う神のことばです。
- 「御霊はすでに与えられているのに、それでも燃えたたせなければなりません。」大切なのは心を整えることです。「主よ、私に火をつけてください。私の炎を燃えたたせ、あなたのみことばで私の魂を養ってください。」
4. 恥を拒みなさい
- テモテは何を恥ずかしく感じたのでしょうか。おそらく、福音が見かけ上は弱く見えることです。語っても、実がほとんど見えない。「フランスの牧師なら誰でも、私が言っていることがわかるはずです。」
- あるいは、犯罪人のように扱われているパウロと結びつけて見られること、そして自分も苦しむかもしれないという見通しもあったでしょう。評判を失うこと、拒絶、反対、そして自分自身の内なる弱さもあります。
- 「トゥールーズでは今のところ、イエスについて語ったからといって投獄される恐れはほとんどありません。」しかし、社会的な恥、知的な恥、人間関係における恥を感じることはあります。
- 誰も原理主義者だと思われたくありません。イエスだけが救い主であること、聖書は神のことばであること、悔い改めが必要であること、善悪を定めるのは神であること。これらは誰もが喜んで受け入れる話ではなく、福音をもっと受け入れやすいものにしたい誘惑に駆られることもあります。
- 世の中は、クリスチャンを考えることをやめた人々のように見せたがります。「それでもここはトゥールーズです。大学の街です。」そのため、みことばによってすべてを創造された創造主について語るのを避けたくなります。
- 他人の目もあります。「同僚に『週末はトレイルランニングをしたよ』と言うほうが、『日曜日はいつものように、兄弟姉妹と一緒に教会にいたよ』と言うより簡単です。」また、世が退ける聖書の真理への圧力もあります。結婚まで待つという選択、創造主が私たちの性を定めておられ、結婚は男性と女性の間の契約だという確信、悪魔と地獄の存在などです。
- 「恐れは、必ずしも私たちをイエス・キリストを否むところまで導くわけではありません。隠すべきことがあるかのように、自分の神を恥じているかのように生きさせるだけかもしれません。」
5. なぜ恥じる必要があるのか
- パウロは先祖伝来の神に仕えています(3節)。ユダヤ人の信仰のもとで育った彼は、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセの神に背を向けたとは考えていません。彼にとってイエスは、神の約束の成就です。
- パウロは清い良心をもって神に仕えています。外側では、囚われ、無力で、辱められ、自由を奪われています。しかし内側では、良心が彼を認めています。神の前でも人の前でも、恥じることは何もありません。
- 福音派のプロテスタントは、フランスでは少数派です。けれども、少数派として生きるのは私たちが最初ではありません。私たちは、ときには大きな苦しみを代価として、信仰を世代から世代へと受け渡してきた信仰者たちの長い歴史の中にいます。テモテと同じように、私たちも自分に由来しない福音を受け取りました。それは忘れるためではなく、受け渡すためです。
- テモテの信仰は偽りのないもので、それは祖母ロイスと母ユニケの信仰でもありました(5節)。パウロは「あなたはクリスチャンの家に生まれたからクリスチャンなのだ」とは言っていません。しかし、二人の模範がテモテの中に本物の信仰を形づくる助けとなったのです。今度は、彼が福音を受け渡す番です。
6. 福音のために、わたしと共に苦しみなさい
- パウロは、恥じないようにと求めるだけではありません。テモテに苦しみの分を担うよう呼びかけています。「神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい」(8節)。パウロは後にもう一度こう語ります。「いったい、キリスト・イエスにあって敬虔に生活しようと欲する者は、みな迫害を受ける」(テモテへの手紙第二 3章12節)。
- 私たちが宣べ伝えているのは、ご自分の民のところに来たのに受け入れられず、見下され、拒まれ、十字架につけられたイエス・キリストです。イエスご自身がこう語られました。「もし世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを、知っておくがよい」「僕は主人にまさるものではない」(ヨハネによる福音書 15章18〜20節)。
- イエスは、私たちが神と和解できるように、私たちの罪と恥を負ってくださいました。「ご自分の命を代価にして、私たちを兄弟と呼ぶことを恥とされなかった方を、どうして私たちが恥じるでしょうか。」
- 拒絶を引き起こすことが目的でも、すべての人の承認を求めることが目的でもありません。「同時代の人々を愛し、謙遜に仕え、神が罪人を救われる福音を恥じないでいましょう。」パウロは自分の苦しみを誇りません。しかし、キリストのために苦しむことが失敗を意味するとは信じません。説教者は、そのことを確かめるために、オープンドアのニュースを見るよう勧めています。
- 西洋では、反対は別の顔をしています。危険は、クリスチャンを黙らせようとする反対だけではありません。クリスチャンを眠らせる快適さ、散らす気晴らし、福音が本質的ではないかのように生きさせる文化もまた危険です。
- この反対は「イエスを捨てなさい」とは言いません。ささやくのです。「疲れているんだから、祈るのは明日でいい」「福音を話すのは、もっと良い機会が来てからでいい」「奉仕に戻るのは、状況がもっと落ち着いてからでいい」「あなたがやらなくても、ほかの人がやってくれる」。これらの考えは、一つひとつを取り出せば、とんでもないものではありません。危険なのは、それが生き方そのものになったときです。
- 「迫害されている東方の教会は、受ける反対のために福音を宣べ伝えることを妨げられています。西洋の教会は、快適さを追い求めることで福音を宣べ伝えることをおろそかにしています。」敵の目的は同じです。証しを沈黙させることです。説教者は、前の週末に来訪したベンジャミン・ショートの言葉を引いています。朝起きて、みことばの中で神を求め、聖霊によって祈るための戦いがあるのです。
7. 福音の輝きを見つめなさい
- 説教者は、『Changer vraiment, comment ?』(本当に変わるにはどうすればよいか)などの著者であるポール・トリップの詩の一節を読みます。誰もが、ある物語の上に自分の人生を築いています。不完全な物語もあれば、偽りの物語も、真実の物語もあります。しかし、すべての上にそびえる物語はただ一つ、「始まりの前から行き着く先までを描く、ただ一つの完全な物語」です。それだけが、救い出して贖い、救って聖め、死を打ち砕いて命を与える力を持っています。
- パウロはこの物語を9節と10節で語っています。神は私たちを救い、聖なる招きをもって召してくださいました。それは私たちの行いによるのではなく、神ご自身の計画により、永遠の昔からキリスト・イエスにあって私たちに与えられた恵みによるのです。キリストは死を滅ぼし、命と不死を明らかにされました。これは「救いの教理の要約」です。
- 十五年間パウロと共に働き、何年も前からこれらのことを教えてきたテモテに、なぜこれを思い起こさせるのでしょうか。「私たちはそれを忘れがちだからです。」炎と勇気を取り戻すには、この物語をもう一度、私たちの心にたどり直す必要があります。
- 私たちは失われていましたが、神は私たちを救ってくださいました。神の御子は完全な人となり、人間のあらゆる苦しみを味わい、完全な生涯を送り、それを私たちの身代わりの犠牲としてささげてくださいました。御子の義は私たちのものとされ、私たちの罪は御子に負わされました。
- 「私たちが福音を宣べ伝えるのは、それが人気があるからではなく、真実だからです。人が自分を救えるからではなく、神が恵みによって救ってくださるからです。死を避けられるからではなく、キリストが死に勝利されたからです。」
- パウロは自分の教えを自ら体現しています。「しかし、それを恥としていない。なぜなら、わたしは自分が信頼している方を知っており」(12節)。彼は苦しみに鈍感なわけでも、牢から出られると確信しているわけでもありません。自分が信じてきた方を知っており、その方が真実であることを知っているのです。私たちの確信は私たち自身にではなく、ただ一人真実な方、イエス・キリストにかかっています。
- パウロは、死が近づく中で、テモテに「気をつけなさい、身を守りなさい、困難を避けなさい」とは言いません。「福音を恥じてはいけない」と言います。この福音は、私たちだけのものにしておくには、あまりにも尊いからです。
- 最後の呼びかけです。まだキリストを知らないなら、キリストのもとに来てください。自分を頼みにするのをやめて、「赦してください、救ってください、恵みをありがとうございます」と申し上げてください。すでにクリスチャンなら、恐れや快適さや落胆に炎を消させないでください。神の恵みに立ち返り、証しする勇気を求めてください。そして教会として、神の賜物の炎を守り続けられるように、互いに祈り、励まし合いましょう。
ポイント
- 神の賜物の炎は神ご自身が灯されたものです。私たちの役割は、みことば、信仰の仲間との交わり、聖霊の働きによって、それを絶やさず保つことです。
- 恐れは、必ずしもキリストを否ませるわけではありません。隠すべきことがあるかのように生きさせるのです。
- 西洋では、快適さや気晴らしが、迫害と同じくらい確実に証しを黙らせます。
- イエスは私たちを兄弟と呼ぶことを恥とされませんでした。私たちにも、イエスを恥じる理由はありません。
- 私たちの確信は自分自身にではなく、私たちが信じてきた方の真実さにかかっています。
個人への適用
- あなたの炎は今日、どんな状態でしょうか。どんな灰がそれを窒息させていて、今週あなたの生活にどんな「薪」を戻す必要がありますか。
- どんな場面で、信仰について黙ってしまいたい誘惑に駆られますか。職場でしょうか、家族の中でしょうか、友人の前でしょうか。
- 快適さのささやき(「祈るのは明日でいい」「ほかの人がやってくれる」)のうち、あなたにとって習慣的な生き方になっているのはどれですか。
- あなたに信仰を伝えてくれたのは誰でしょうか。そして、あなたは今度、誰に伝えるよう召されていますか。
- 今週、教会の中の誰のために、神の賜物の炎を保てるよう祈ることができますか。
引用された聖句
- テモテへの手紙第二 1:1-12
- テモテへの手紙第二 1:15-16
- テモテへの手紙第一 4:14
- テモテへの手紙第一 1:18
- テモテへの手紙第二 4:22
- テモテへの手紙第二 3:12
- ヨハネによる福音書 15:18-20
- ヨハネによる福音書 1:11
- ヘブル人への手紙 2:11
よくある質問
テモテへの手紙第二 1章6節の「神の賜物を再び燃えたたせる」とはどういう意味ですか。
説教者によれば、この賜物は単なる能力ではありません。キリストを知らせ、福音のために苦しむ勇気ある心構えであり、恵みが心の中に生み出す熱意と忍耐のことです。炎は神が灯されました。みことば、信仰の仲間との交わり、聖霊の働きによってそれを保つのは、私たちの役目です。
なぜ現代のクリスチャンは福音を恥じることがあるのですか。
トゥールーズでは、イエスについて語っても投獄されることはありませんが、社会的、知的、人間関係における恥を感じることはあります。原理主義者だと思われたり、考えることをやめた人だと見られたり、あるいは単に同僚の目を恐れたりするのです。この恐れは、必ずしもキリストを否むところまで押しやるわけではなく、隠すべきことがあるかのように生きさせます。
なぜパウロは獄中にあっても恥じないのですか。
パウロは苦しみに鈍感なわけでも、牢から出られると確信しているわけでもありません。恥じないのは、自分が誰を信じてきたかを知っており、神が自分にゆだねたものをかの日まで守る力を持っておられると確信しているからです(テモテへの手紙第二 1章12節)。彼の確信は自分自身にではなく、イエス・キリストの真実さにかかっています。