はじめに
この水曜日の夜、マレシャル牧師は創世記16章を開きます。アブラハムの壮大な物語のかたわらに、ひっそりと置かれた一章です。けれども、そこには聖書全体の中でも最も心を揺さぶる二つの問いが記されています。「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」
この問いを投げかけたのは、主の使いでした。相手は、ひとり身重で荒野へ逃げてきた女性です。自分の物語を語ってくれる人もなく、生まれてくる子どもに未来があるようにも見えません。この女性こそ、サライの女奴隷であったエジプト人ハガルです。
もしかすると、あなたの道のどこかにも、この二つの問いが待っているかもしれません。自分では選ばなかった荒野が、いつの間にか目の前に広がっていて、自分がどこから来て、どこへ向かっているのか、よく分からなくなっているかもしれません。この説教が伝えたいことは一つです。神様は見ておられ、聞いておられ、誰にも見つけられるはずのない場所にまで、あなたを迎えに来てくださるということです。
メッセージの構成
1. 背景:アブラム、飢饉、エジプト、そして連れ帰られた女奴隷
創世記16章に入る前に、創世記12章を思い出しておく必要があります。アブラムは75歳、金銀と家畜に恵まれた富める者でしたが、まだ神を知らず、偶像礼拝の世界に生きていました。まさにその年齢のときに、主は彼にこう言われました。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する。」
アブラムは、どこへ行くのかも分からないまま旅立ちます。900キロメートル以上も歩きながら、彼には黙想し、祈り、自分を召してくださった神を知り始める時間がありました。ところが、カナンにたどり着いたとたん、飢饉が襲います。ここでアブラムは、主に伺いを立てませんでした。自分の頭で考えたのです。そしてエジプトへ下り、そこに滞在します。
マレシャル牧師はこう強調します。「論理は神のみこころではありません。人間の理屈は神のみこころではないのです。」これはアブラムの個人的な選択であり、神はそれをあえて許されました。エジプトでアブラムはサライについて嘘をつき、彼女を自分の妹だと偽ったため、パロは彼女を自分のハーレムに迎え入れます。主はパロに大きな災いを下されます。パロは贈り物とともにアブラムを送り出しました。羊、牛、しもべ、はしため、雌ろば、らくだです。エジプトから連れ帰られたこのはしためたちの中に、ハガルがいたのです。
この世からの贈り物が、いつも祝福であるとは限りません。ハガルは、自分では決して望まなかったような状況に置かれることになります。あなたもまた、自分では選ばなかった状況の中に、今いるのかもしれません。
2. 遅れる約束と、人間的な解決策
神はアブラムに子孫を約束しておられました。けれども、その約束はなかなか実現しません。サライは不妊であり、アブラムも年を重ねていました。そこでサライは、人間的な解決策を提案します。「私の女奴隷によって、あなたは子どもを持てるかもしれません。」今で言えば、代理母のような発想です。アブラムは妻の声に耳を傾けました。ハガルはアブラムに与えられ、身ごもります。
この結びつきは、神のみこころではありませんでした。これは二人の女性の物語ではなく、人が自分の手で成就させようとした約束の物語なのです。身ごもるとすぐに、ハガルは自分の女主人を見下すようになります。当時の文化において、不妊は恥とされ、女性は家から追い出されることさえありました。サライは屈辱を感じ、対立が表面化します。
サライはアブラムに言いました。「私とあなたとの間を、主がおさばきになりますように。」アブラムは答えます。「見なさい、あなたの女奴隷はあなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい。」サライはハガルを苦しめ、ハガルは逃げ出します。
3. 最初の荒野:「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」
創世記16:7〜8にはこうあります。「主の使いは、荒野にある泉のほとりで彼女を見つけた。それはシュルの道にある泉であった。主の使いは言った。『サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。』彼女は言った。『私は女主人サライのところから逃げているのです。』」
よく見てください。ハガルは最初の問いには答えることができました。自分がどこから来たのかは分かっていたのです。女主人から逃げてきた、と。けれども二番目の問い、「どこへ行くのか」には、彼女は何も答えられません。分からないのです。彼女は行き先も定めずに歩いているのです。
マレシャル牧師はここから話を広げます。これは人生における大きな問いなのです。私はどこから来たのか。私はどこへ行くのか。私たちは皆、両親が創造されたエデンの園に由来しますが、私たち自身はその園の外で生まれました。ですから、人は探し求めます。神は存在するのだろうか。私は神に出会えるのだろうか。死んだ後には何があるのだろうか。人生は生きるに値するのだろうか、と。
今日、どれほど多くの人生が、行き先も分からないまま、答えのない問いの荒野を歩んでいることでしょうか。
4.「戻りなさい……へりくだりなさい」:主の不思議な命令
主の使いはハガルに言いました。「あなたの女主人のもとに帰り、彼女の手の下でへりくだりなさい。」これは人間的には理解しがたいことです。彼女は身重で、ひとりぼっちで、苦しめられてきたのです。それなのに神は言われます。戻りなさい、へりくだりなさい、と。
けれども神は、彼女を手ぶらで送り出されたのではありません。そこに約束を添えてくださいました。「わたしはあなたの子孫を大いに増し加える。それは、数えきれないほどになる。見よ、あなたは身ごもっている。男の子を産み、その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたからである。」
イシュマエルとは「神は聞かれる」という意味です。息子の名前そのものの中に、ハガルは生涯、神が自分の叫びを聞いてくださったという記憶を刻み続けることになります。神の命令の中には、あなたにとって理不尽で、心をかき乱し、不当に感じられるものがあるかもしれません。けれども、その命令の背後には、いつも約束があるのです。
5. エル・ロイ:「あなたは、私を見ておられる神です」
ここで大きな転換が起こります。ハガルは、この啓示の与え主が神であることを認めます。彼女は自分に語りかけてくださった主の御名をエル・ロイと呼びました。「あなたは、私を見ておられる神です。」さらにこう言います。「私を見られた方の後を、私はなお見て、ここに生きているのだろうか」(創世記16:13)。
それゆえ、この井戸はカデシュとベレデの間にあって、ベエル・ラハイ・ロイ(「私を見ておられる、生きておられる方の井戸」)と呼ばれています(創世記16:14)。井戸、場所、そして名前。荒野の真ん中、神の啓示など最も期待できないような場所であっても、神が彼女を見守り続けておられたことを、決して忘れないためです。
もしかすると今夜、あなたはこう思っているかもしれません。「私は人生の荒野の中にいる。数々の悩みを抱え、家庭は揺らぎ、家族は壊れたり再び形を変えたりしている。世界中で女性を傷つける人身売買もある。」神はあなたを見ておられます。あなたの荒野を知っておられます。あなたの苦しみを知っておられます。そして、その荒野から生まれてくるものの名前さえも、すでにご存じなのです。
6. 二度目の荒野:ベエル・シェバ、空になった皮袋、そして低木の下の子ども
ハガルは戻り、へりくだり、イシュマエルを産みます。アブラハムは86歳でした。その後、約束のとおりイサクが生まれます。ある祝いの日、サラはイシュマエルがイサクをからかっているのを見ます。対立が再燃します。アブラハムは朝早く起きました。「パンと水の入った皮袋を取り、それをハガルに与え、彼女の肩に載せた。子どもも彼女に渡し、彼女を去らせた。」
今度は、ハガルはもう身重ではありません。14歳か15歳、あるいは16歳くらいの少年を連れています。彼女はベエル・シェバの荒野で道に迷います。水の入った皮袋一つ、パンひとかけら、そして子ども一人。それがすべてです。
皮袋の水がなくなると、彼女は子どもを一本の低木の下に置き、矢の届くほどの距離まで離れて座り、こう言いました。「私は、この子が死ぬのを見たくありません。」そして彼女は声をあげて泣きました(創世記21:14〜16)。
今日、どれほど多くの母親が我が子のために泣いていることでしょうか。どれほど多くの父親が我が子のために泣いていることでしょうか。この人生という荒野の中で。ある子どもは暴力への道を選んだかもしれません。ある娘は、あなたの心を引き裂くような選択をしたかもしれません。あなたを困らせる夫や妻がいるかもしれません。そしてあなたは、少し離れたところに座り込んだまま、もう見ていられなくなっているのです。
7.「神が子どもの声を聞かれた」
創世記21:17。「神は子どもの声を聞かれた。神の使いは天からハガルを呼んで言った。『ハガルよ、どうしたのか。恐れてはならない。神は、子どもがそこにいる場所で、その声を聞かれたからだ。立ちなさい。子どもを起こし、あなたの手でしっかりと抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするからだ。』」
今回聞かれたのは、母親の声ではなく、子どもの声でした。母親がもう終わりだと思い込んでいるときにも、その子どもと神との間で何が起こっているのか、私たちには分からないことがあります。神はあなたの息子の声を聞いておられます。神はあなたの娘の声を聞いておられます。神はあなたの夫の声を聞いておられます。神はあなたの妻の声を聞いておられます。
マレシャル牧師はこう語ります。ある日、教会の裏手にある使われなくなった工場の中で、ベッドと、自分の教会の出版物コーナーで売られていたキリスト教書籍を見つけました。彼は連絡を取りました。ある日曜日の午後、一人の少年が、裸足で、信じられないような状態でやって来ました。少年は言いました。「私の両親はクリスチャンで、福音派の教会に通っています。」この少年はすぐ近くにいたのに、神はその声を聞いておられ、彼は両親のもとへ帰って行きました。
神は、深い絶望の中にある声を聞いてくださいます。神こそ、私たちの破れを繕ってくださる方ではないでしょうか。
8. 神が開いてくださる井戸
創世記21:19。「神が彼女の目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。彼女は行って皮袋に水を満たし、子どもに飲ませた。」
井戸はそこにありました。ずっと前からそこにあったのです。ただ、ハガルにはそれが見えていませんでした。彼女の目を開いてくださったのは神でした。もしかすると、あなたの井戸もすぐそばにあるのに、あなたにはまだそれが見えていないだけなのかもしれません。
イエス様はこう言われました。「だれでも渇いているなら、私のところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の内側から生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37〜38)。神の川は、いつも神の御心の中に流れています。あなたの人生の荒野の中でも、あなたの目は開かれ得ます。あなたはイエス・キリストの死とよみがえりを見ることができます。そして、今あなたがいるその場所で、あなたを赦したいと願っておられる方が、あなたの手を取り、立ち上がらせ、再び歩み出させてくださるのです。
覚えておきたいポイント
- この世からの贈り物が、いつも祝福であるとは限りません。ハガルがアブラムの家に来たのは、アブラムが神に伺いを立てず、自分の頭で考えて行動したからでした。人間の理屈は神のみこころではありません。
- あなたの人生には二つの大きな問いがあります。どこから来たのか、どこへ行くのか。最初の問いには答えられても、多くの場合、あなたを揺さぶるのは二番目の問いです。
- 神は見ておられます。エル・ロイです。啓示など最も期待できないような荒野の場所であっても、神はあなたを見守り続けておられます。
- 神は子どもの声を聞かれます。あなたの息子、娘、配偶者のために希望を失わないでください。あなたにはもう聞こえなくなっていても、その声は天にまで届いているのです。
- 井戸はすでにそこにあります。神が目を開いてくださり、生ける水の川はイエス・キリストの中に流れています。
自分への適用
- 最近下した決断の中で、神に伺いを立てる代わりに、自分の頭で考えて判断したことは何でしょうか。その理屈から何が生まれ、あなたは何を主にお委ねしたいと思いますか。
- もし今夜、御使いがあなたに「どこへ行くのか」と尋ねたら、あなたは正直に何と答えるでしょうか。もし答えがないなら、神に導きを求める備えができていますか。
- あなたが今日通っている荒野はどこですか(健康、家族、仕事、信仰)。そこで、神に見られていないように感じているのはどんなことでしょうか。
- もう「取り戻せない」と思い込んでしまった子ども、身近な人、配偶者はいませんか。その人の声を、聞いてくださる神にお委ねする備えができていますか。
- 神がすでにあなたのそばに備えてくださっているかもしれない井戸で、あなたの目がまだ見ていないものは何でしょうか。
引用された聖句
- 創世記12章・アブラムの召命とエジプトへの下り
- 創世記16章・最初の荒野でのハガル、エル・ロイ、ベエル・ラハイ・ロイ
- 創世記21:14〜21・ベエル・シェバの荒野でのハガルとイシュマエル
- ヨハネ7:37〜38・「だれでも渇いているなら、私のところに来なさい」
よくある質問
なぜ神は、ハガルに苦しめられに戻るよう命じられたのですか。
この命令は受け入れがたいものですが、決して空虚な命令ではありません。神はこの命令に約束を添えてくださいました。数えきれないほどの子孫、イシュマエルという名の息子、「神は聞かれる」という約束です。ハガルにとって、戻ってへりくだることは、まさに約束が実を結ぶための場所となります。神はサライの虐待を是認されたわけではありません。誰にも見られていないと思っていたその場所で、神ご自身がハガルをご自分の保護、すなわちエル・ロイのもとに置いてくださったのです。
ハガルが神に付けた名前、エル・ロイとは誰のことですか。
エル・ロイとは「見ておられる神」という意味です。これは聖書の中で、人間が神に名前を付ける最初期の例の一つであり、しかもそれを行ったのは、異邦人で、女奴隷で、身重で、逃亡中の一人の女性でした。ベエル・ラハイ・ロイ、「私を見ておられる、生きておられる方の井戸」は、この出会いのしるしを永遠にとどめ続けます。
今日、ベエル・シェバの荒野を通っている人に、何と言葉をかければよいでしょうか。
三つのことをお伝えしたいと思います。一つ、誰にも見つけてもらえないときでも、神はあなたが今いるその場所で、あなたを見ておられます。二つ、あなたの子ども、あなたの配偶者、そしてあなた自身の声も、天にまで届いています。三つ、井戸はすでにそこにあります。それはイエス・キリスト、生ける水の川です。神に、あなたの目を開いてくださいと願い、そして飲んでください。
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