はじめに
ジャン=ブレーズ・アムグ牧師は、今の時代への率直な指摘からこのメッセージを始めます。多くの人が「イエスを愛している」と口にする時代です。歌い、祈り、告白します ―― 「ああ主よ、あなたを愛します。私にとても良くしてくださって。」しかしイエスは、どんな言葉やどんな感情をも超える一つの基準を示されます。
その基準は、ヨハネ 14:15の一つの言葉に集約されます ―― 「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしの戒めを守るべきである。」イエスはあなたの愛を、感情や涙、教会に通う年数や奉仕の数で測られるのではありません。イエスはあなたの愛を、あなたの従順によって測られます。この説教者は、日曜日の賛美だけでは済まされない本当の問いをあなたに投げかけます ―― あなたのイエスへの愛は、日々の生き方の中に現れているでしょうか。
メッセージの構成
1. イエスへの真実の愛は従順によって現れる
- 「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしの戒めを守るべきである。」イエスは「わたしを愛するなら、わたしについて語りなさい」とも「わたしのために歌いなさい」とも「奇跡を行いなさい」とも言われませんでした。福音を伝えることも、歌うことも、暗唱することも誰にでもできます。しかし何よりもまず、イエスはご自分が教え、命じられたことを守るようあなたに求めておられます。
- 説教者は、あの厳しい箇所を思い起こさせます。多くの者がイエスのもとに来てこう言います。「私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。」するとイエスはこう答えられます ―― 「わたしはあなたがたを全然知らない。不法を働く者どもよ、わたしから離れ去れ。」(マタイによる福音書 7:22-23)
- ヨハネの第一の手紙 2:3-4がすべてを締めくくります ―― 「わたしたちが神の戒めを守るなら、これによって、わたしたちが神を知っていることを確信できるのである。神を知っていると言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。」たとえ毎日教会に来ていても、みことばを実践に移さないなら、あなたは決してイエスを知ってはおらず、イエスもあなたを知ってはおられません。
- 「従順とは、目に見えない愛の目に見える証しである。」聖書的な愛とは献身であり、単なる感情ではありません。神はまず先にご自身を献げてくださいました ―― 「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」 ―― そして今度は、神が命じられることに、あなたも献身をもって応えるよう求めておられます。隣人を自分自身のように愛せよと命じられれば、あなたは献身します。敵を赦せと命じられれば、あなたは献身します。
- 例え話 ―― 息子アブサロムから逃げるダビデ王。ある男(シムイ)が来て、彼を罵り、ひどい言葉を浴びせます。ダビデは恐るべき戦士であり、周りには千人、万人をも打ち破ることのできる兵士たちがいました。その場で彼を殺すこともできたはずです。しかしダビデは将軍を制止します ―― 「彼に触れるな。もしかしたら神が私を試すために彼を遣わされたのかもしれない。」ダビデは、神がご自身のうちに、ご自身を通して、ご自身のためだけに、ご自身が望まれることに従うことを学んでいたのです。敵を愛するとは、そういうことです。
2. イエスの戒めがあなたの習慣を揺さぶるとき、あなたはそれでもイエスを愛しているか
- 都合の良いときに従うのは簡単です ―― 「ああ、あの人は私に飴をくれる。ずっと愛し続けよう。」しかしそれをもらえなくなった日には、突然「意地悪な神様」「私を愛していない神様」「他の人のほうを好む神様」になってしまいます。人はつぶやき始め、批判し始め、妬み始めます。イエスはといえば、あなたの話し方、行い、まなざし、歩き方、食べ方、眠り方にまで触れてこられます。それでもあなたはイエスを愛していますか。
- 本当に赦すこと。 赦すとは「あなたを赦すが、忘れはしない」ということではありません。記録帳をずっと開いたままにしておいて、40年後、次に何か失敗した瞬間にそれを持ち出すことでもありません。もし神がそのようにしてあなたを赦されるなら、あなたは滅んでしまうでしょう。マタイによる福音書6章は明確です ―― 「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」あなたが赦す仕方。恨みを抱いたまま、つぶやきながら、批判しながら。そのままの仕方で、神もあなたを扱われます。
- 敵を愛すること。 説教者はここで立ち止まります ―― 私の敵とは誰でしょうか。兄弟でしょうか、姉妹でしょうか、配偶者でしょうか、同僚でしょうか、イスラム教徒、仏教徒、フリーメイソン、エホバの証人でしょうか。「敵を自分自身のように愛しなさい。」あなたを傷つけるその人を、神があなたを愛されるように愛しなさい。私たちが毎日神に対して行っている悪を思い出してください。目覚めた瞬間から、思いの中で、ハンドルを握りながら。それでも神は私たちを愛し続けておられます。
- 自分自身を捨てること。 「自分を捨てなさい、自分を忘れなさい、自分を明け渡しなさい。あなたはわたしの所有物なのだから」とイエスは言われます。自分自身を捨てるとは、神にご自身を献げること、自分が何者でもないことを認めることです。本当の高慢とは、いばり散らすことではありません。自分自身を捨てないこと、すでに与えられていながらも、なお自分が何者かであることを神に証明し続けようとすることです。
- 自分の十字架を負うこと。 自分の十字架を負うこと(ルカによる福音書 9:23)とは、御霊の実である忍耐をもって困難な試練に耐えること。批判せず、つぶやかず、妬まず、人を傷つける言葉を吐かずに。です。十字架を負うとは死ぬことです ―― 「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである。」キリストがあなたのうちに生きておられるなら、あなたは死んでいるのです。
- 聖さのうちに生きること。 絶えず神の御前に生き、神のために取り分けられた者として生きなさい。修道女や司祭のように振る舞って、自分がクリスチャンであることを見せつけることではありません。クリスチャンは行いによって見分けられます。時には語る必要さえありません。その人が違うこと、他の人のようには行動せず、話さず、反応しないことが分かるのです。クリスチャンは人を引き寄せます。良い人も悪い人も、大きな魚も小さな魚も釣り上げる小さな釣り針のように。そして、あなたのうちで選び分けをなさるのは神ご自身です。
3. 多くの人が口先でイエスを敬いながら、その心は遠く離れている
- 「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」私たちはこうして、白く塗った墓のようになってしまいます。墓地に行ってみてください ―― 外は美しい墓、花、立派な写真。管理人に石の蓋を持ち上げてもらってごらんなさい。立ち上ってくるのはシャネルやディオールの香りではなく、ひどい悪臭です。
- 多くの人が口先ではイエスを敬いながら、心はそこにありません。彼らの生活には、イエスの心も、愛も、平安も、喜びも、勝利も、解放もありません。彼らはイエスの偉大さも権威も認めておらず、イエスを「小さなイエス」に矮小化してしまっています。
- しかしイエスは死んで、よみがえられました。とこしえに生きておられます。もはや十字架の上にはおられません。それは終わったことです。イエスは王の王であり、永遠に治め、その御名はすべての名にまさる名です。「天上のもの、地上のもの」において(ピリピ人への手紙 2:9-11)。
- ですから、今のままでとどまってはいけません。歌い、説教し、神に仕え、献金をささげる人もいます。しかし、あるものを手放すことは拒みます。イエスが求めておられるのは、完全に献げられた心、本当にご自身に自分を明け渡す人です。
4. イエスを愛するとは、みことばにとどまること
- 牧師はある姉妹の祈りを思い起こします ―― 「主よ、あなたのみことばを愛します。私たちにあなたのみことばを生きさせてください。」みことばを愛するとは、朝から昼、夜までずっとみことばの前にいることではありません。仕事場で一人でいるとき、一つの聖句が心によみがえってくる、そういうことです。同僚たちがひどい言葉を口にする。神の御霊があなたの心にただ「けがれた思いから自分を守りなさい」とささやかれる、するとあなたは、神があなたを守ってくださるゆえに、その議論に加わらないのです。
- 詩篇 119:11はこう表現します ―― 「わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。」神の戒めとみことばを守らないことは、些細なことではありません。それは神に対して罪を犯すことです。そして神は、故意にご自分に罪を犯す者を祝福されません。
- みことばをないがしろにしながらイエスを愛することはできません。イエスを愛する者は、みことばを読み、毎日黙想し、実践しなければなりません。イエスが愛であるなら、あなたも愛します。イエスが赦しを求められるなら、あなたも赦します。イエスが従順を求められるなら、あなたも従います。
- こうして神はあなたを変えてくださいます。ローマ人への手紙 12:1-2 ―― 「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きた供え物としてささげなさい……この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられなさい。」その心の刷新は、みことばを通して起こります。
- 「従順を伴わない知識は、霊的な高慢を生む。」サタンや悪霊たちに聞いてみるとよいでしょう。彼らは知っています。それでも従いません。彼らは退けられました。神はあなたに知ることだけを求めておられるのではありません。従うことを求めておられるのです。
5. イエスを愛するとは、隣人を愛すること
- 私の隣人とは誰でしょうか。それは、共に祈り、共に食事をし、共に笑い合う人だけではありません。説教者はここでカードをひっくり返します ―― 「私の隣人とは、私を横目でにらむ人でもあるのです。」
- イエスは常に、神への愛と隣人への愛を結びつけて語られます(マタイによる福音書 22:37-39)。そしてヨハネの第一の手紙 4:20は容赦なく言い切ります ―― 「神を愛する、と言いながら兄弟を憎む者があれば、それは偽り者である。」あらゆる賜物を持ち、声高らかに祈っていても。兄弟を打ちたたき、姉妹の悪口を言うなら、あなたは嘘をついているのです。
- 恨みや妬み、悪口、赦さない心のうちに生きながら、キリストを愛していると主張することはできません。それは不可能です。たとえどんな主教や大主教、預言者という肩書を掲げていようとも。
- ルカによる福音書 9:23がそれを裏付けます ―― 真実の愛は、従うことに代償を伴うときにこそ現れます。イエスにならって愛することには、代償が伴います。自分自身を、自分の好みを、自分の恨みを手放さなければなりません。あなたは、完全に自分を明け渡し、たとえ一度だけでもイエスの戒めを実践してみて、それがどうなるか見てみる備えができていますか。
6. 初めの愛を捨ててはならない
- エペソの教会に対して、イエスはこう宣言されます ―― 「あなたは初めの愛から離れてしまった。」(ヨハネの黙示録 2:4)今日、多くの群れがこの状態にあります。神を愛することは、あなたを神の御前へと導き入れ、また、あなたの隣にいる人を、その人自身が愛の存在となるまで愛するようあなたを押し出すものです。
- 私たちのうちに成長していくのは、このイエスへの愛です ―― 「彼は必ず栄え、わたしは衰える。」あなたのうちにあるものが消えていくために、イエスがあなたのうちで大きくならなければなりません。
- そこで、あなた自身への問いがあります ―― あなたは以前よりイエスを愛していますか、それとも以前より愛していませんか。まだ祈りに渇いていますか。まだみことばに飢えていますか。まだイエスに仕える喜びがありますか。あなたの心はまだキリストのために燃えていますか。
- 本当の危険は、罪に陥ることだけではありません。本当の危険は、あなたのイエスへの愛が冷めていくのを放っておくことです。神の臨在は、あなたの生活の中に、家庭の中に、職場に、街の中に、まだ実感できるものとしてありますか。
7. イエスを愛する者はその約束を受ける(ヨハネによる福音書 14:21)
- 「わたしの戒めを保ち、それを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身を現わすであろう。」(ヨハネによる福音書 14:21)この約束は計り知れないほど大きなものです。しかしそれには条件があります。まず戒めを守り、みことばを心のうちにたくわえ、それを実践しなければなりません。
- 主の御前で自分を吟味してください ―― 私は、たとえ代償が伴っても、イエスに従っているだろうか。ある習慣が、私の心の中でキリストの場所を奪ってしまってはいないだろうか。私の生き方は、私が口にしている言葉を裏付けているだろうか。私のイエスへの愛は成長しているだろうか、それとも冷めてしまっただろうか。
- イエスは見せかけの愛を求めておられません。イエスが求めておられるのは、愛によって従う弟子たちです。「従順とは、神の愛を得るための手段ではなく、恵みによって救われた者たちの応答である。」私たちは恵みによって救われています。従順は私たちの愛の応答であって、私たちの支払いではありません。
- 今日もなお、イエスはペテロに問われたのと同じ問いをあなたに投げかけておられます ―― 「わたしを愛するか。」(ヨハネによる福音書 21:15-17)もしあなたの答えが「はい主よ、わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」であるなら、その答えを、従順と聖さと誠実と献身の生き方をもって裏付けてください。イエスを愛するとは、ただ言葉にすることではなく、毎日そのみことばに従って生きることです。
覚えておきたいポイント
- イエスはあなたの愛を、感情や涙、教会歴の長さではなく、みことばへの具体的な従順によって測られます。
- イエスを愛するとは、その戒めがあなたの習慣を揺さぶるときにも愛することです。記録帳を持ち出さずに赦すこと、敵を愛すること、自分自身を捨てること、十字架を負うこと、聖さのうちに生きること。
- 多くの人が口先ではイエスを敬いながら、その心は遠く離れています。外から見れば墓は美しくとも、中は死のにおいがします。イエスが求めておられるのは、完全に献げられた心です。
- 従順を伴わない知識は霊的な高慢を生みます。悪霊たちは知っていながら、退けられています。みことばをないがしろにし、隣人を軽んじながらイエスを愛することはできません。
- 本当の危険は罪だけではありません。キリストへの愛が冷めていくのを放っておくことです。あなたは以前よりイエスを愛していますか、それとも愛が薄れていますか。
自分自身への適用
- 今、イエスはあなたのどの習慣に「触れて」こられていますか。言葉でしょうか、まなざしでしょうか、行動でしょうか。今週、何をイエスに献げたいですか。
- 今日イエスがあなたに愛するよう求めておられる「あなたの敵」とは誰ですか。兄弟でしょうか、姉妹でしょうか、同僚でしょうか、あなたが横目でにらんでいる誰かでしょうか。
- 赦したと言いながら、実は定期的にその記録を持ち出している相手はいませんか。神の御前で、その記録帳をどうしたいですか。
- あなたのみことばの知識は、あなたの従順より先を行っていませんか。理論から実践へと移すべき、具体的な戒めは何ですか。
- あなたは以前よりイエスを愛していますか、それとも愛が薄れていますか。あなたの心が再びイエスのために燃えるために、今週何を始めますか。
引用聖句
- ヨハネ 14:12-17 · 「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしの戒めを守るべきである。」
- ヨハネ 14:21 · 「わたしの戒めを保ち、それを守る者は、わたしを愛する者である。」
- ヨハネ 21:15-17 · 「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか。」
- マタイ 7:21-23 · 「わたしはあなたがたを全然知らない。不法を働く者どもよ、わたしから離れ去れ。」
- マタイ 6:9-15 · 「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」
- マタイ 22:37-39 · 「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ……隣り人を自分のごとく愛せよ。」
- ルカ 9:23 · 「だれでもわたしについてきたいと思うならば、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」
- ヨハネの第一の手紙 2:3-4 · 「神を知っていると言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者である。」
- ヨハネの第一の手紙 4:20 · 「神を愛する、と言いながら兄弟を憎む者があれば、それは偽り者である。」
- ヨハネの黙示録 2:1-7 · 「あなたは初めの愛から離れてしまった。」
- 詩篇 119:11 · 「わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。」
- ローマ 12:1-2 · 「心を新たにすることによって、造りかえられなさい。」
- ガラテヤ 2:20 · 「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである。」
- ヨハネ 3:30 · 「彼は必ず栄え、わたしは衰える。」
- サムエル記下 16:5-14 · シムイが逃げるダビデを罵る。ダビデは復讐を拒む。
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よくある質問
イエスは、私を愛する前に、私が完璧に従順であることを本当に求めておられるのですか。
いいえ。説教者ははっきりとこう述べています ―― 「従順とは、神の愛を得るための手段ではなく、恵みによって救われた者たちの応答である。」あなたはまず、恵みによって愛され、救われています。従順はその後に、愛への応答としてやって来るのであって、支払いとしてではありません。そしてあなたが倒れるとき、ヨハネの第一の手紙 2:1は、あなたには父のみもとに助け主、義なるイエス・キリストがおられることを思い起こさせてくれます。
「あなたを赦すが、忘れはしない」:それは本当に赦しと言えるのでしょうか。
このメッセージによれば、いいえ、そうではありません。記録帳を開いたままにして、次に何か失敗した瞬間にそれを持ち出すことは、マタイによる福音書6章の赦しではありません。主の祈りの中の「ように」は一つの基準です。あなたは、自分自身の赦し方の程度に応じて、神に赦してくださるよう求めているのです。もし神があなたのすべての罪を、最初の過ちのたびに持ち出すという仕方であなたを赦されるなら、あなたは滅んでしまうでしょう。
自分のイエスへの愛が冷めてしまったかどうか、どうすれば分かりますか。
説教者はいくつかの簡単な問いを提案します ―― まだ祈りに渇いていますか。まだみことばに飢えていますか。まだ仕える喜びがありますか。あなたの心はまだキリストのために燃えていますか。神の臨在は、あなたの生活の中に、家庭の中に、職場に、まだ実感できるものとしてありますか。もしこれらの答えが弱々しいものであるなら、おそらくあなたの初めの愛は冷めつつあるのです。そしてイエスは、エペソの教会に対してそうされたように、あなたに立ち返るよう呼びかけておられます。
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