はじめに
私たちは毎週「御国が来ますように」と祈り、信条の中で「主は生ける者と死ねる者とを審かんために来られる」と告白します。けれども日々の慌ただしさに流されるうちに、この待ち望む心はいつの間にか眠り込んでしまいます。待降節第一主日にあたり、ステファヌ・ギエさんはマタイ24章36〜44節を、イザヤ書2章とローマ書13章とともに黙想します。キリストはあなたが知らない時に来られます。それはあなたを脅かすためではなく、あなたの日常の歩み方を目覚めさせるためです。
メッセージの構成
1. 主の来臨は、意識的な歩みを求める
- 三つの箇所が響き合います。「さあ、主の光の中を歩もう」(イザヤ書2:5)、「あなたがたが眠りから覚めるべき時刻がすでに来ている」(ローマ書13章)、「だから、目をさましていなさい」(マタイ24:42)。
- 信じる者は何事もなかったかのように生きるよう招かれてはいません。主は来られます。そしてそのことは、あなたの人生に具体的な変化をもたらします。
- 普遍的教会の礼拝は、私たちを共通の待望の調べに合わせてくれます。メシアを待ち望んでいたイスラエルの民に連なり、今日、主の来臨への待望を新たにするのです。
- 黙示録はほとんどこの言葉で締めくくられます。「御霊も花嫁も言う、『来てください』」。私たちが主の来臨を待ち望んで祈るとき、それを促しているのは御霊ご自身なのです。
2. 日付を計算できる兆候は一つもない
- 弟子たちは兆候を尋ねます(マタイ24:3)。イエスは偽預言者、戦争、飢饉、地震について語られますが、その都度こう付け加えられます。「しかし、それはまだ終わりではない」。
- イエスが唯一お与えになる兆候は、来臨そのものです。「そのとき、人の子が雲に乗って来るのが見られるであろう」(マタイ24:30)。
- 「その日、その時は、だれも知らない。天の御使いたちも、子も知らない。ただ父だけが知っておられる。」
- 日付を「解読した」と主張する人々。本、メール、「正しい計算」を謳うメッセージ。に心を乱されないでください。そうしたものに対しては、ゴミ箱こそが時間の最善の使い方です。
3. 本当の危険は、すべてが順調なときに眠り込むこと
- イエスはノアの時代を語るのに、大惨事ではなく、ごく普通の営みを挙げられます。「食べたり飲んだり、めとったり、とついだりしていた」。
- 待望の心を最も眠らせるのは、平穏な時代、「すべてがまずまずうまくいっている」時代です。天幕はゆるみ、眠気が忍び寄ります。
- 詩篇119篇70節は「彼らの心は脂肪のように鈍く」と語ります。豊かさの真っただ中で眠り込む心を描く、印象的なイメージです。
- ステファヌさん自身もこう認めます。「私は食べ、飲み、結婚し、三人の子どもたちも結婚した。まさに私そのものだ。」外見上、イエスの弟子たちを他の人々と区別するものは何もありません。
4. 違いは内側にあり、目には見えない
- 「そのとき、畑にふたりの男がいるならば、ひとりは取り去られ、ひとりは残される。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残される」(マタイ24:40-41)。
- 厳しい言葉です。外見上、二人を区別するものは何もありません。それでも、一方は取り去られ、他方は残されます。
- 神を恣意的な方だと非難するのでない限り、違いはどこか別の場所にあります。それは内面に、日々の行いへの向き合い方にあるのです。
- あなたは食べ、飲むこともできます。あるいは、主が糧を与えてくださることに感謝しながら、食べ、飲むこともできます。あなたはお金のために働くこともできます。あるいは、神と隣人への愛に生きようとするキリストの弟子として、仕事に取り組むこともできます。
5. 目をさましている:キリストに向かって目覚めている者となる
- 私たちは「目覚めた者」となるよう召されています。それは時代のイデオロギーに対してではなく、キリストに対して、その教えに対して目覚め、それを日々の生活の中でどう実践するかを求めることです。
- 新約聖書では、「目をさます」という動詞はしばしば「祈る」という動詞とともに用いられます。これはキリストご自身の求めそのものです。
- パウロはこうまとめます。「食べるにも、飲むにも、また何をするにも、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」(コリント人への第一の手紙10:31)。実に大きな課題です。
- 新約聖書は「来る」という動詞を、多くの場合現在形で用います。キリストとは、来られる方です。いつか来られる方であるだけでなく。主は今まさに来られつつあり、あなたはすでに日常の中でその臨在を味わうことができるのです。
心に留めておきたいこと
- キリストの再臨を待ち望むことは、受け身の姿勢ではありません。それは意識的な歩みであり、日々を生きる一つの仕方です。
- その日その時は、だれも知りません。御子でさえも。再臨の日付を数値で予告するものはすべて、捨てるべきメールと同じ扱いにしましょう。
- 本当の危険は戦争や大惨事ではなく、豊かさの中で心を眠らせてしまう心地よい日常です。
- 「取り去られる者」と「残される者」の違いは、外側からは見えません。それは、ありふれた行いにどう向き合うかにかかっています。
- 目をさましているとは、日常の中でキリストに向かって目覚め続けること。食べること、働くこと、愛することを神の栄光のために行い、すでに今来られつつある主の臨在を待ち望むことです。
あなた自身への問いかけ
- あなたが最後に「主よ、来てください」と、口先だけでなく心から祈ったのはいつですか。
- 今のあなたの心地よさ。健康、仕事、家族。は、キリストへの待望を養うどころか、それを鈍らせてはいませんか。
- 再臨の時期についての新しい「啓示」を耳にするとき、あなたは誰の言葉を信用していますか。マタイ24章36節は、そのことについてあなたに何を語りかけていますか。
- 次の食事、次の仕事の日、次に人と会う場面を、「主を待ち望む者」として生きるなら、具体的にどう変わるでしょうか。
- 今週、どんな出会い、どんなみことば、どんな受けた・行った奉仕の中に、すでに来られつつあるキリストの臨在を「味わう」ことができるでしょうか。
引用された聖句
- マタイ24:36-44 · だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるのか知らないからである
- イザヤ書2:2-5 · さあ、主の光の中を歩もう
- ローマ書13章 · あなたがたが眠りから覚めるべき時刻がすでに来ている
- マタイ24:30 · そのとき、人の子が雲に乗って来るのが見られるであろう
- 詩篇119:70 · 彼らの心は脂肪のように鈍く
- コリント人への第一の手紙10:31 · すべて神の栄光を現わすためにしなさい
- 黙示録22:17 · 御霊も花嫁も言う、『来てください』
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よくある質問
聖書はキリストの再臨の日付を知るための明確な兆候を示していますか。
いいえ。マタイ24章36節でイエスははっきりとこう言われます。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使いたちも、子も知らない。ただ父だけが知っておられる。」24章全体を通してイエスが与えられる唯一の「兆候」は、来臨そのものです(30節)。戦争や飢饉、地震は、世界が神から離れて以来ずっと存在してきました。イエスご自身、それらを語るたびに「しかし、それはまだ終わりではない」と付け加えておられます。預言的なカレンダーを解読したと主張する人々に、あなたの心の平安を乱させてはなりません。
なぜイエスは大惨事ではなく、ノアの時代のことを語られるのですか。
本当の霊的な危険は危機そのものではないからです。実際、危機はしばしば待望の心を呼び覚まします。本当の危険は、静かに続いていく普通の生活の方です。イエスは、ノアの時代の人々が「食べたり飲んだり、めとったり、とついだりしていた」と描かれます。それ自体はまったく正当な営みですが、それによって彼らは眠り込み、「洪水が来てすべての者をさらって行くまで、彼らは気づかなかった」のです。安楽と日常こそ、キリストへの待望を最も麻痺させるものです。詩篇119篇70節は、豊かさの真っただ中にある心を「脂肪のように鈍く」と表現しているのです。
私の日常生活の中で「目をさましている」とは、具体的にどういうことですか。
目をさましているとは、生活を止めることではありません。ステファヌ・ギエさんははっきりとこう語ります。「もしキリストが来週再び来られるとしても、私たちは食べたり飲んだり、日々の様々な用事をこなすことをやめたりはしません。」目をさましているとは、これら同じ活動を別の仕方で生きることです。イエスが来られることを告白する者として。それは、感謝しつつ食べること、弟子として働くこと、神の栄光のために愛することです(コリント人への第一の手紙10:31)。だからこそ新約聖書は、ほとんど常に「目をさましていなさい」を「祈りなさい」と結びつけているのです。キリストはいつか来られる方であるだけでなく、すでに来られつつある方です。あなたは日常の中で、すでにその臨在を味わうことができるのです。
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