大工か、神か:イエスとは本当は誰なのか

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はじめに

ある日、イエスは自分が育った町ナザレに戻ってこられました。人々は彼が子どもの頃から彼を知っていました。彼が通りで遊び、父の仕事場を手伝い、安息日ごとに成長していく姿を見てきたのです。ですから、彼が会堂に立ち上がり、預言者イザヤの巻物を手に取り、「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとおりに実現しました」と宣言したとき、人々はどう考えればよいのか分からなくなります。「この人はヨセフの息子ではないか。この人は大工ではないか。」

この問いを、ナザレの町は二千年前に自らに投げかけました。そして今日、この問いはあなたに投げかけられています。大工か、神か。ただの人間か、それとも救い主か。これこそが、キタヤマ氏が神戸クライスト・グローリー教会で説教したルカの福音書4:14-30のこの箇所の核心です。この題名は、ジョシュ・マクダウェルのよく知られた著書『大工よりずっと偉大な方』の第3章の題名を引き継いでいます。イエスは嘘つきなのか、狂人なのか、それとも主なのか。

この箇所をじっくりと読んでください。あなたがこの問いにどう答えるかで、すべてが変わります。

記事の構成

1. あなたはイエスを誰だと言うか

2. イザヤ書61章を選んだ、その意図

3. メシアの使命、その四つのポイント

4. ヨベルの年、恵みの年

5. 「今日、この聖書のことばが実現した」

6. ナザレの拒絶、そしてあなたの拒絶

1. あなたはイエスを誰だと言うか

ルカの福音書4:22で、ナザレの住民たちは「これはヨセフの息子ではないか」と言って反応します。ここには疑い、ほとんど不信に近いものがあります。同じ出来事を記すマルコの福音書では、彼らはさらに踏み込みます。「この人は大工ではないか」(マルコの福音書6:3)。そしてマタイの福音書では、「この人は大工の息子ではないか」(マタイの福音書13:55)とあります。

こうして、彼の成長を見てきた町は、「大工か、神か」という問いに答えました。大工だと。それ以上でも以下でもありません。

今日、同じ問いがあなたに投げかけられています。あなたはどう答えますか。ナザレの人々のように、イエスをあなたの理性が測れる範囲に押し込めてしまいますか。それとも、彼が大工よりもはるかに偉大な方であり、神の御子、メシア、救い主であると告白しますか。

2. イザヤ書61章を選んだ、その意図

17節には、預言者イザヤの巻物がイエスに手渡され、イエスが「その書を開いて、次のように書いてある箇所を見つけられた」とあります。英語訳は特に原文に忠実で、he found the place where it was written(そこに書かれている箇所を見つけられた)となっています。イエスは、都合の良い箇所に偶然たどり着くことを期待して聖書をめくる子どものように、無作為に巻物を開いたのではありません。彼は探し、見つけ、選んだのです。

この選択は意図的なものです。もちろん、神の摂理が特定のページへと導くこともあり得るでしょう。それは排除されません。しかしいずれにせよ、御父の御心はイザヤ書61章へと向けられていました。イエスは、この箇所を自分自身に当てはめるために、意図的にこれを選ばれたのです。

なぜこの箇所なのでしょうか。それは、イザヤ書61章がメシア預言のテキストだからです。それは、主の霊に油注がれ、良い知らせをもたらすために来られる方を告げ知らせています。この箇所を読むことによって、イエスは公然と宣言しておられるのです。この預言されたメシアとは、わたしのことだ、と。

3. メシアの使命、その四つのポイント

18節と19節は、イエスの使命を描き出します。キタヤマ氏はそれを四つのポイントにまとめています。

a. 貧しい者に良い知らせを伝える

「主の霊がわたしの上にある。主が、貧しい者に良い知らせを伝えるようにと、わたしに油を注がれたからである。」「貧しい者」という言葉は、お金に困っている人だけを指すのではありません。マタイの福音書は「心の貧しい者」(マタイの福音書5:3)について語っています。それは、神の前で自分の霊的な貧しさを認め、自分の力では何も差し出せないことを知っている人たちのことです。イエスは、まさにそのような人たちに福音を告げ知らせるために来られたのです。

b. 捕らわれ人に解放を告げ知らせる

イエスの使命には、罪、サタン、抑圧など、人を奴隷にするあらゆるものからの霊的な解放が含まれています。イエスご自身がヨハネの福音書8:34-36でこう言っておられます。「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です……ですから、御子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」同じ章の少し前では、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネの福音書8:32)と宣言しておられます。これこそ、イエスが来られた理由なのです。

c. 盲人の目を開く

イエスには肉体の視力を癒やす力があり、福音書はそれを証ししています。しかしそこには霊的な次元もあります。聖書において、盲目は神を見ることができない状態を表しています。パウロはエペソ人たちのためにこう祈っています。「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって……その力がどれほど偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように」(エペソ人への手紙1:18-19)。御国の到来と救いの良い知らせを見分けるために開かれなければならないのは、心の目なのです。

d. 虐げられている者を自由にして送り出す

これは捕らわれ人の場合と同じ働きです。罪のため、社会的な不正義のため、霊的な力のために重荷を背負っている人たちが、解放の知らせを受け取ります。キリストは、押しつぶすものを打ち砕くために来られるのです。

4. ヨベルの年、恵みの年

19節がすべてを要約しています。「主の恵みの年を告げ知らせるため。」この表現は、モーセの律法がヨベルの年と呼んでいたものを指しています。レビ記25:8-10を開いてみましょう。

「あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい……あなたがたは五十年目の年を聖別し、その地に住むすべての者に自由を布告しなければならない。これはあなたがたにとってヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。」

ヨベルの年とは、解放の年です。五十年ごとに、奴隷は解放され、負債は帳消しにされ、土地は元の所有者に返されました。それは計り知れない恵み、はかりしれない喜びでした。これこそが、主の恵みの年なのです。そしてこれこそが、イエスが告げ知らせ、成し遂げるために来られたことなのです。

5. 「今日、この聖書のことばが実現した」

朗読が終わると、イエスは座られます。すべての人の視線が彼に注がれます。そして彼は、あの驚くべき言葉を口にされます。

「あなたがたがたった今聞いたこの聖書のことばが、今日、実現しました」(ルカの福音書4:21)。

この宣言には二重の意味があります。一方で、イエスはメシアの時が到来したことを告げておられます。他方で、彼はご自分こそがイザヤによって約束されたメシアであると名乗っておられます。イエスははっきりと言っておられるのです。恵みの年を告げ知らせるために遣わされた、神に油注がれた者、それがわたしだ、と。

これこそ、ナザレの人々が耳にしたことです。そして、彼らの反応がこれほど激しかった理由もそこにあります。彼らはイエスが子どもだった頃を見てきました。彼の赤ん坊の頃の泣き声を聞いたこともあったかもしれません。自分の子どもたちが彼と一緒に遊んでいるのを見たこともあったかもしれません。もしかすると、先月イエスが自分たちの家具や扉を直してくれたことさえあったかもしれません。それなら、この人がどうしてメシアでありえようか。「ただの大工の息子ではないか。」

6. ナザレの拒絶、そしてあなたの拒絶

イエスは続けて、イスラエルのやもめたちではなくサレプタのやもめのもとに遣わされたエリヤの例、そしてイスラエルのらい病人たちではなくシリア人ナアマンを清めたエリシャの例を挙げられます(24節から27節)。メッセージは明白です。彼らの不信仰のゆえに、祝福は彼らのもとを素通りしていくのです。彼らは怒りに燃え上がります(28節)。彼らはイエスを町の外へと引きずり出し、丘の頂まで連れて行き、そこから突き落とそうとします。

これは殺害未遂です。イエスは逃れられます。彼の時はまだ来ていなかったからです。しかしこの場面は、数年後にエルサレムで起こることを予告しています。「十字架につけろ。殺せ。」ナザレでイエスを拒絶する群衆は、後に彼を十字架に釘づけにする群衆を予告しているのです。

そして、その十字架の上に、イエスはとどまられました。ある人々は彼にこう叫びました。「十字架から降りてみろ。そうすればお前が神だと信じてやろう。」彼は降りることもできたはずです。天から降りて来られた方は、その木からも降りることができたはずです。しかし彼はとどまられました。なぜでしょうか。あなたを救うためです。あなたの罪を負うためです。あなたを自由にするためです。これこそが福音です。これこそが、今日、まさにこの瞬間にも実現し続けている恵みの年なのです。

心に留めたいポイント

  • イエスは大工よりもはるかに偉大な方です。彼の成長を見てきた町は、彼を人間的な出自に押し込めてしまいました。同じ過ちを犯してはなりません。
  • イザヤ書61章は、イエスのメシアとしての身分証です。イエスはご自身を現すために、意図的にこの箇所を選ばれました。
  • 彼の使命には四つの側面があります。貧しい者への良い知らせ、捕らわれ人への解放、盲人への視力の回復、虐げられている者への自由です。
  • 恵みの年は今日、成就しています。レビ記25章で告げられたヨベルの年は、今この瞬間、キリストにおいて実現しています。
  • 答えは二つしかありません。信じるか、信じないかです。中間の立場は存在しません。

適用のための問いかけ

  • 今日、あなたに「あなたにとってイエスとは誰ですか」と尋ねられたら、暗記した答えを唱えるのではなく、あなたは本当のところ何と答えますか。
  • あなたの人生の中で、イエスをあなたの主、救い主としてではなく、単なる「良いお手本」に押し込めてしまっている領域はありますか。
  • イエスの使命の四つの側面(貧しい者、捕らわれ人、盲人、虐げられている者)のうち、今のあなたの必要に最も重なるのはどれですか。
  • もし今週、「恵みの年」を具体的に生きるとしたら、それはあなたにとってどのような意味を持つでしょうか。負債の赦し、鎖の解放、霊的な家族のもとへの帰還として。
  • 信じるか、信じないか、あなたはこの選択のどこにいますか。先延ばしにしている信仰の一歩はありますか。

引用聖句

よくある質問

なぜナザレの人々はイエスを拒絶したのですか。

彼らはイエスが成長する姿を見てきました。彼らには、彼を大工の息子以外の何者としても見ることができませんでした。親しみが、彼らの識別力を鈍らせてしまったのです。イエスが、彼らの不信仰のゆえに祝福が他の者たちのもとへ行くとほのめかされたとき、彼らは懐疑から激怒へと変わり、ついには彼を殺そうとするまでになりました。

「主の恵みの年」とはどういう意味ですか。

これは、レビ記25章に記されたヨベルの年への言及です。五十年ごとに、奴隷は解放され、負債は帳消しにされ、土地は返還されました。イエスは、このヨベルの年がご自身において成就すると宣言しておられます。彼は解放し、赦し、回復するために来られたのです。そしてこの宣言は、一人の人がイエスの救いを受け入れるたびに、今もなお実現し続けています。

私は本当に、信じるか信じないかを選ばなければならないのですか。

はい、そうです。これは、ジョシュ・マクダウェルが『大工よりずっと偉大な方』で強調している点です。イエスはご自分が神であると主張されました。それなら、嘘をついていたか、狂っていたか、あるいは真実を語っていたかのいずれかです。その中間に、居心地のよい立場はありません。イエスの神性を認めないまま彼を「立派な道徳の教師」に仕立てることは、結局のところ、彼がご自身について語られたことを否定することになるのです。

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