はじめに
この12月14日の日曜日、エリム教会は、神学、異文化ミニストリー、賛美と芸術を学ぶ「セルティ・カレッジ」の学生たちを迎えます。カシー牧師が皆さんを迎え入れた後、エリック牧師とその学生たちにバトンを渡し、聖書全体を貫くひとつの問いをたどるアドベント礼拝が始まります。神は約束を守られるのでしょうか。
賛美の合間、ひとつの御言葉が繰り返し語られます。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(イザヤ 7:14)。インマヌエルとは「神は私たちと共におられる」という意味です。エリック牧師は、この約束が語られたのは、神の前で口を閉ざしていた不従順な民に対してであり、その成就には何世紀もの時間がかかったことを思い起こさせてくれます。
もしあなたが今、神が沈黙しているように感じ、約束の実現が遅れていて、まるで二つのアドベントの間に取り残されているように感じているなら、この礼拝はあなたのためのものです。神はあなたに語られた言葉をひとつも忘れてはいません。
記事の構成
- イザヤ書7章の背景:神の前で口を閉ざす民への約束
- インマヌエル:文字どおり「神は私たちと共に」
- イスラエルだけでなく、すべての国のために備えられた救い
- 400年の沈黙、そしてバプテスマのヨハネ:神は約束を守られる
- このアドベント礼拝が今日のあなたに語ること
1. イザヤ書7章の背景:神の前で口を閉ざす民への約束
エリック牧師は、クリスマスによく引用されるこの箇所を開きます。「それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(イザヤ 7:14)。牧師は、この節を毎年耳にしていても、その背景まではあまり意識されていないことに気づかせてくれます。
イザヤの時代、民は神に背いていました。神から離れ、偶像に心を向け、不正がまかり通っていました。富める者、力ある者が弱い者を踏みにじり、やもめたちは搾取されていました。神が「しるしを求めなさい」と言われたのに、民は答えることを拒みます。まるでさらなる裁きを恐れるかのように、距離を置いていたのです。
まさにその沈黙の只中で、神ご自身が動き始められます。「人をわずらわすことでは足りず、あなたがたはまた、わが神をもわずらわそうとするのか。それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる」(イザヤ 7:10-14参照)。つまり、あなたがもう神に何も求める勇気を持てなくなったときでさえ、神のほうから約束を与え続けてくださる、ということです。
神が告げたことは、その後すぐに実現するものではありませんでした。何世紀もかかって成就することを告げられたのです。イザヤは、まもなく捕囚として連れ去られようとしている民に語っています。インマヌエルの約束は、彼らの未来がすべて崩れ去ろうとしているまさにその時に与えられました。
2. インマヌエル:文字どおり「神は私たちと共に」
エリック牧師はこの言葉の意味を丁寧に説明してくれます。ヘブライ語で「インマヌ」は「私たちと共に」、「エル」は「神」を意味します。つまりインマヌエルとは、文字どおり「神は私たちと共におられる」ということです。それ以上でも、それ以下でもありません。
今日、ユダヤ人がこの箇所を読むとき、多くの場合、クリスチャンとは違う解釈をします。それはこの節が、イザヤが書いた当時、いかに謎めいたものであったかを示しています。この約束が何を意味するのか、誰も正確には理解していませんでした。この約束の意味が完全に明らかにされるには、イエスの到来を待たなければならなかったのです。
そしてエリック牧師はこうつなげます。イスラム教徒でさえ、イエスの処女降誕を信じています。これは彼らとの対話のきっかけになりうるもの、壁ではなく橋なのです。この点は、礼拝の少し前にエレーヌが語った、コクシーとネリーという二羽のひよこの物語ともつながります。一方が姉妹への仕返しとして大きな壁を作らせようとしたとき、職人たちは代わりに橋を作りました。私たちの平和であるメシアに倣い、私たちも平和の造り手として召されているのです(マタイ 5:9)。
インマヌエルの約束は、単なる神学用語のラベルではありません。それは、あなたを苦しめているものの真ん中に、神ご自身が来られるという知らせです。遠くから見守るのではなく、あなたの人生の中に入って来ることを選ばれた神なのです。
3. イスラエルだけでなく、すべての国のために備えられた救い
イザヤ書7章に入る前に、学生の一人であるJPが、あまり説教されることのないイザヤ 19:19-25を会衆の前で朗読します。そこでは、エジプトの中心に主にささげられた祭壇が築かれること、エジプトとアッシリアとイスラエルを結ぶ道ができること、そしてこの三つの民が共に全地の祝福となることが告げられています。この箇所はさらに、こんな驚くべき言葉にまで至ります。「わが民エジプト、わが手のわざアッシリア、わが嗣業イスラエルは祝福される。」
エリック牧師はこう指摘します。旧約聖書の時点で、すでに神はすべての国々を招いておられたのです。パレスチナ、ウクライナなどで争いが続く今日の世界において、神の民はあらゆる国から成っています。パレスチナ人、ウクライナ人、中国人、ポルトガル人、トーゴ人、コンゴ人、中央アフリカ人、フランス人。インマヌエルにおいて約束された救いは、特定の一つの民族のためだけのものではなかったのです。
それは朗読の直後に会衆が歌った賛美とも重なります。「その時に、その時に、神のなさることはその時に完全である。」神は、ご自分がずっと前から備えておられたもの、すべての人のための救いを明らかにするために、必要な時間をかけられたのです。
もしあなたが今、自分は周辺にいる、よそ者だ、正当な資格がないと感じているなら、この箇所はあなたのためのものです。あなたの国籍も、歴史も、パスポートも、あなたが「神の民」と呼ばれることを妨げはしません。インマヌエルとは、神が私たちと共におられるということであり、「彼らとだけ共にいる」神ではないのです。
4. 400年の沈黙、そしてバプテスマのヨハネ:神は約束を守られる
イザヤ書のあと、エリック牧師はその沈黙がどれほど長かったかを実感させてくれます。旧約聖書の終わりからメシアの到来までの間、イスラエルには預言者が現れない、約400年もの期間がありました。もう幻はなく、新しい啓示もありませんでした。長く続いた沈黙の時代です。
この沈黙は、長い捕囚のあとに続くものでした。神は民を試し、ご自分のもとに立ち帰らせるために、荒野へと送られました。多くの預言の言葉が、心を知るために荒野へと導かれる神の愛について語っています(例えばホセア 2:16を参照)。荒野は見捨てられた場所ではなく、養い育てる学びの場だったのです。
そしてバプテスマのヨハネが現れます。旧約の預言者たちに比肩する、最後の預言者です。彼が現れたのは公の広場のただ中ではなく、荒野でした。彼はこう語ります。「悔い改めよ。天の御国は近づいた」(マタイ 3:1-2)。彼は使者として、メシアの到来、イザヤが約束したインマヌエルの到来のために道を備えるのです。
ここでしっかり心に留めてください。イザヤ7章の約束からイエスの誕生まで、何世紀もの歳月が流れました。神はご自分の言葉を忘れてはいませんでした。あきらめてもいませんでした。ご自分の暦にしたがって、確かに約束を果たされたのです。
5. このアドベント礼拝が今日のあなたに語ること
エリック牧師は、自ら準備した聖書の言葉に基づく讃美「インマヌエル、神は私たちと共に」を歌って締めくくります。続いて会衆は詩篇136篇を、節ごとに繰り返される「まことに、その恵みはとこしえまで」という応答とともに歌い継ぎます。神々にまさる神をほめたたえよう。紅海を二つに分け、イスラエルを救い出し、私たちが辱められているときにも私たちを心に留めてくださる方。まことに、その恵みはとこしえまで。
この12月14日の礼拝が、あなたに残してくれるものを、ここに記します。
あなたが神の前で口を閉ざしているときでも、約束は与えられている
イザヤ書7章の民のように、あなたも神に何かを求めることを恐れているかもしれません。裁かれることへの恐れ、失望への恐れ、断られることへの恐れ。それでも神は、ご自分から動いてくださいます。あなたが何も求める勇気を持てなくても、しるしを与えてくださるのです。あなたの霊的な貧しさは、決して神の真実さを妨げる障害にはなりません。
インマヌエルは飾りの称号ではない
神はあなたと共におられます。遠くにおられる神でも、概念としての神でも、条件付きの神でもありません。あなたが荒野のような沈黙の中にいるときも、待合室で待たされているときも、望んでいる答えとの間にまだ400年が横たわっているように感じられるときも、神はあなたと共におられます。この「インマヌエル」という名前は、説明ではなく、共にいることを約束してくれるのです。
神の民の中でのあなたの居場所は、パスポートによっては決まらない
イザヤ書19章は、エジプトが「わが民」と呼ばれるようになることを告げています。今週日曜日の、いくつもの国から来た学生たちが共にする礼拝は、その小さな実例です。あなたのどんなアイデンティティのしるしも、この約束からあなたを締め出すことはありません。あなたは全地への祝福となるよう招かれているのです。
沈黙は忘却ではない
神がバプテスマのヨハネの前に400年間沈黙されたとしても、それでもイザヤ7章を忘れてはいなかったのですから、あなたのことも忘れてはおられません。神の沈黙は、約束の取り消しではありません。それはただ「その時に」という言葉であることもあるのです。あなたの待つ時間は、神にとって無駄にはなっていません。
インマヌエルのように、橋を架けよう
コクシーとネリーの物語に登場する職人たちのように、クリスチャンとしてのあなたの召命は、壁ではなく橋を築くことです。メシアは私たちの平和です。あなたと神とを隔てていた壁も、あなたと自分に似ていない人々とを隔てていた壁も、取り壊してくださいました。このアドベントの時、あなたは誰に対して、壁ではなく橋を差し伸べることができるでしょうか。
覚えておきたいポイント
- イザヤ 7:14は不従順という背景の中で語られました。神は御前で口を閉ざす民にしるしを与えられます。神の真実さは、あなたの誠実さによって左右されるものではありません。
- インマヌエルとは「神は私たちと共に」という意味です。それは教理ではなく、共にいてくださる現実です。神はあなたの人生の上からではなく、その真ん中に来てくださいます。
- 救いはすべての国々のために備えられています。イザヤ書19章は、エジプトとアッシリアが「神の民」と呼ばれることを告げます。あなたの出身が、あなたを締め出すことは決してありません。
- 神は、長い沈黙のあとでも約束を守られます。イザヤとバプテスマのヨハネの間には、預言者のいない400年がありました。それでもメシアは、約束どおりに来られました。
- 平和の造り手になりましょう。神とあなたの間に、あなたと隣人の間に橋を架けましょう。あなたの小さな従順が、この地への祝福となります。
自分に問いかけてみよう
- 失望や裁きを恐れて、神にもう求める勇気を持てずにいることはありませんか。今日、それを求めてみましょう。イザヤ書7章で最初に語りかけたのは、神ご自身だったのですから。
- 今、あなたはどんな「沈黙の荒野」の中にいますか。「インマヌエル、神はあなたと共に」という名前は、その時期の過ごし方をどのように変えてくれるでしょうか。
- 出身や過去、文化のせいで、教会の中で自分は正当な一員ではないと感じることがありますか。イザヤ書19章は、神の民の中でのあなたの居場所について何を語っていますか。
- このアドベントの週、家族や教会、近所の中で架け直すべき橋はありますか。誰に向かって、一歩踏み出せるでしょうか。
- 今、あなたが信頼を寄せて委ねるべき神の「その時に」は何ですか。それを紙に書き出し、神にゆだねてみましょう。
引用された聖句
- イザヤ 7:14 ・ 見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ばれる
- イザヤ 7:10-14 ・ 民がしるしを求めることを拒む中、主ご自身がしるしを与えられる
- イザヤ 19:19-25 ・ エジプト、アッシリア、イスラエルが全地への祝福となる
- イザヤ 9:5-6 ・ ひとりのみどりごが私たちのために生まれ、ひとりの男の子が私たちに与えられる
- マタイ 1:22-23 ・ インマヌエルの約束がイエスにおいて成就する
- マタイ 3:1-2 ・ バプテスマのヨハネが荒野で宣べ伝える
- マタイ 5:9 ・ 平和をつくる者は幸いです、神の子どもと呼ばれるから
- ヨハネ 10:11 ・ わたしは良い羊飼いである
- ホセア 2:16 ・ わたしは彼女を荒野に導き、その心に語りかける
- 詩篇 136篇 ・ まことに、その恵みはとこしえまで
よくある質問
イザヤ 7:14は、イエスより七世紀も前に語られたのに、なぜクリスマスに読まれるのですか。
それは、御使いがマタイ 1:22-23でヨセフに思い起こさせる約束が、まさにこの箇所だからです。「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』。これは訳すと、『神は私たちと共におられる』という意味である。」マタイは、イエスをイザヤの約束の成就として描いています。ですからクリスマスは、単なる誕生日のお祝いではなく、守られた約束を祝う日なのです。
なぜ神は、最後の預言者のあとイエスを送るまで400年も待たれたのですか。
聖書は完全な神学的スケジュールを示してはいませんが、エリック牧師はある力強いイメージを思い起こさせてくれます。神が民を荒野に導かれたのは、彼らを忘れるためではなく、その心を知り、備えさせるためでした。この長い沈黙の期間は、待望が本物の渇望を育てていく時であり、パリサイ人などがトーラーへの忠実さを取り戻そうとした時であり、バプテスマのヨハネがメシアへの道を開けるように、地ならしが進められていた時でもありました。神の沈黙は、一度たりとも神の真実さの休止ではなかったのです。
自分の人生で神が沈黙しているように感じるとき、アドベントをどう過ごせばよいですか。
インマヌエルという言葉の意味、「神はあなたと共に」ということを思い起こしてください。沈黙は不在を意味しません。あなたに個人的に語りかけてくる神の約束をひとつ手に取り、それを神の前に差し出しましょう。イザヤ書7章のように、もう求める勇気を持てなくなっていた願いを、思い切って求めてみましょう。「その時に、神のなさることはその時に完全である」と歌える賛美の中に入っていきましょう。そして言葉を失ったときには、詩篇136篇の応答が、あなたの祈りを支えてくれます。「まことに、その恵みはとこしえまで。」
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