はじめに
その日曜日、福岡の油山シャローム教会の横田法路牧師はインフルエンザにかかっていました。そこで教会は、第35回九州聖会の第一聖会で語られたメッセージの録画を流しました。創世記39章6-23節、ポティファルの家での、そして牢獄でのヨセフです。タイトルは「共にいて支え、育ててくださる主の恵み」でした。
牧師はまず、ひとつの打ち明け話から始めます。この聖会で紹介されたとき、お父様の葬儀で「父は語ったとおりに生きた人でした」と言うことができた、という話が添えられました。その葬儀のあとの祈りは、ただひとつでした。「私に、語っていることを生きさせてください。」この思いをもって、牧師はヨセフの人生を開きます。
結論は最初から示されます。キリスト者の生活の中心は、キリストのかたちに変えられることです。そしてヨセフの人生は、神が牢獄の中においてさえ、どのようにそれをなさるかを示しています。
メッセージの流れ
1. キリスト者の生活の中心:キリストのかたちに変えられること
- 聖会のテーマは、きよめの実、すなわち実を結ぶ信仰と生活です。牧師は、あらゆる教派にわたるキリストのからだの豊かさと、神が自分を置いてくださったきよめを重んじる教会の群れのために感謝をささげます。
- 他の伝統の牧師たちから、ある悩みを打ち明けられるそうです。イエスを信じ、救われ、天国に行けるけれど、そこで止まってしまうクリスチャンがいる。この地上でどう生きたらよいのか分からないのです。
- 救いと永遠のいのちは、計り知れない恵みです。しかし、それだけではありません。いまここで、きよめの実を結ぶこと、すなわちイエスに似た者へと変えられることがあります。
- 牧師は日本ならではのたとえを用います。「本丸」、つまり城の中心にあって、戦いに勝つために落とさなければならない場所です。キリスト者の生活の本丸は、キリストのかたちに変えられることです。
- パウロの手紙には、コリントでもガラテヤでも、込み入った問題があふれています。それらの問題も大切ですが、私たちがイエスに似た者に変えられるとき、そこに光がさし、希望が戻ってきます。教会の中でもそうです。
- パウロはガラテヤの人々に、「あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」と書いています(ガラテヤ人への手紙4章19節)。女性は普通、ひとりの子のために産みの苦しみを一度しか経験しないものだ、と牧師はユーモアを交えて言います。けれどもパウロは、もう一度やり直すことをいとわないのです。
2. 泉のほとりにとどまる
- どうすれば変えられるのでしょうか。キリストにとどまり、その愛の中にいることによってです。そのとき、キリストが私たちの内に形づくられます。「とても単純なことかもしれませんが、福音は単純です。」
- ヨセフの生涯をまとめるために、創世記49章22節を読みます。「ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。」
- 垣根とは、人生の壁のことです。限界、制約、「ここから先には進めない」と言っているかのような障害です。人間的に見れば、ヨセフはそこで止まるはずでした。それでも彼は、ひとつ、またひとつと越えていきました。
- その秘訣は、特別な才能でも、自分の力でもありません。ヨセフは泉のほとりに植えられた木でした。水の乏しい中東では、水はいのちそのものです。ヨセフは、いのちの源につながり続けていたのです。
- 「本当に大切なのは、あれこれではありません。いのちの源であるキリストにつながり続けることです。」
3. 竹の節
- 竹は伸び、節をつくり、また伸び、新しい節をつくります。キリストのかたちに形づくられることは、一直線には進みません。
- 人生の季節ごとに試練があります。二十代には二十代の、三十代には新しい課題があります。私たちは節にぶつかり、壁にぶつかります。
- それを越えると、新しい成長が訪れます。そしてまた別の試練、別の段階がやってきます。こうして、キリストは私たちの内に形づくられていきます。
- あなたは、なぜこんなことが自分に起こるのかと思っているかもしれません。神はこれらのことを材料にして、あなたをキリストのかたちへと成長させ、さらに多くの実を結ぶ者に整えておられます。
- この実は、あなたのところで止まりません。イエスは救うために来られました。私たちがイエスに似た者となるとき、神は私たちを用いて、家族や友人、子どもたちの救いへと導かれます。きよめの実は、伝道の実となるのです。
4. ヨセフ:信頼から牢獄へ
- ヨセフはヤコブの十二人の息子のうち、下から二番目です。父は彼をとても愛しましたが、その愛には少し偏りがありました。兄たちは彼をねたみ、殺そうとし、ついにはエジプトへ奴隷として売ってしまいます。
- ポティファルの家で、神はヨセフの働きを祝福されます。主人は持ち物のすべてを彼に任せます。ようやく、事が良い方向に向かっているように見えました。
- やがて主人の妻が彼に目を留め、肉体関係に誘おうとします。ヨセフは断ります。「どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」(創世記39章9節)。彼女は日ごとに迫りますが、彼は屈しません。
- ついに彼女はヨセフを偽って訴えます。主人は彼の言葉に耳を貸さず、牢に入れてしまいます。何年もかけて築いた信頼が、一瞬で崩れ去りました。ヨセフは犯罪者として扱われます。
- もし彼が悪いことをしたのなら、分かります。けれども彼は、神の前に誠実に生きようとしていたのです。この場面だけを、YouTubeの切り抜きのように切り取ったなら、「神さま、なぜですか」と問うしかありません。
- 「すばらしいのは、彼の人生がそこで終わらないことです。」
5. 「もう終わりだ」:努力が足りなかった日
- 牧師は、現在大学生である長男の話をします。高校を卒業したあと、経営学部に入るために、予備校で一年を過ごしました。
- 目的は、兄のように慕っている青年を支えるためにお金を稼ぐことでした。その青年は、いまは教会の伝道師で、海外へ宣教師として行くことを望んでいます。
- 一年間、彼は油山から予備校までの9キロを自転車で通いました。往復で一日18キロ、夏の暑さの中も、寒さの中もです。帰宅は午後10時30分で、夕食はそのあとでした。日曜日には礼拝の務めを果たし、子どもたちと遊び、ある中学生の高校入試の準備を手伝いました。
- 結果は出ませんでした。目指していた大学には、もう出願できなくなりました。涙ながらに、彼は言いました。「もう終わりだ。」そして、「努力は報われないことが分かった。」
- 父である牧師には、かける言葉がありませんでした。ただ息子と一緒に泣くことしかできませんでした。翌朝、祈りの中で、神は哀歌3章を与えてくださいました。「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」(哀歌3章22節)。牧師は祈りました。「努力が報われなかったとしても、あなたの恵みは尽きません。息子がいつかそれを分かるようにしてください。」
- いま、息子さんは目指していたのとは別の大学で学んでいます。キリスト者の学生グループであるKGKに加わり、今年は責任者となって、喜びのうちに信仰生活を送っています。
- 私たちの人生にも、「もう終わりだ」と思う瞬間があります。ヨセフの人生は、牢獄で止まりませんでした。あなたの人生もそうです。
6. 「主がヨセフと共におられた」
- 創世記39章には、ある言い回しが繰り返し出てきます。「主がヨセフと共におられた」(2節、21節、23節)。牧師によれば、主の名はヨセフの物語の中に12回出てきて、そのうち8回、つまり3分の2がこの章に集中しています。
- ヨセフが悲しみ、失望し、落胆しているそのときは、神が不在のときではありません。神がご自身を彼に現してくださるときなのです。
- 牧師は、この発見が自分の信仰生活を変えたと打ち明けます。自分が願ったのとは反対の方向に事が進むとき、神が何もしておられないように見えるとき、ヨセフを思い出すのです。まさにそこに、神は共におられた、と。
- 「霧の中にいて、神が何をしておられるのか分からなくなっているときでも、まさにそのときに、主はあなたと共におられます。」そして、それが終わりではありません。神の導きは、さらに先へ進みます。
7. 「わたし」から「神」へと移る、二年間の沈黙
- 神は、牢獄でヨセフを支えただけではありませんでした。その間に、彼の信仰を成長させられたのです。
- 40章では、パロの給仕役の長(さかずきの長)とパン焼きの長が投獄されます。二人は夢を見、ヨセフがそれを解き明かし、さかずきの長は王のそばの元の地位に戻ります。
- 彼が去る前に、ヨセフは頼みます。「わたしを覚えていて…この家からわたしを出してください」(創世記40章14-15節)。牧師は、この二つの節の中に「わたし」が六回出てくると数えます。ヨセフは神を信じていますが、自分の力で抜け出したいという思いが、まだ心の中に残っていました。
- ヨセフは、さかずきの長にすがります。そして、さかずきの長は彼を忘れてしまいます(創世記40章23節)。「ヨセフがあれほど尽くしてあげたのに、本当にひどい話です。けれども、それこそがヨセフに必要なことでした。」
- 「二年の後」(創世記41章1節)。二年間の沈黙です。ヨセフはおそらく、人に失望し、自分の信仰にも失望したことでしょう。それは彼にとって、神が彼を形づくってくださった恵みの時でした。
- あなたも、なぜ扉が開かないのか、なぜ計画が思うように進まないのかと思っているかもしれません。それは、あなたの信仰が、自分中心の信仰から神中心の信仰へと移るときなのかもしれません。
- パロが夢を解き明かさせるためにヨセフを呼んだとき、ヨセフは答えます。「いいえ、わたしではありません。神がパロに平安をお告げになりましょう」(創世記41章16節)。
- のちに、ヨセフは長男をマナセと名づけて言います。「神がわたしにすべての苦難と父の家のすべての事を忘れさせられた」。そして次の子をエフライムと名づけます。「神がわたしを悩みの地で豊かにせられた」(創世記41章51-52節)。彼は「忘れることができた」とも、「豊かになった」とも言っていません。主語は神です。
- 「自分で何とかしなければ、自分が動かなければ」から、「神がなさる、神がなさった、神がなさるだろう」へと移ること。これが聖化です。こうして私たちは、高ぶりから解放され、失望と落胆の泥沼から引き上げられるのです。
- 牧師は祈りで締めくくります。すべてを自分で片づけようとする「わたし」がイエスとともに死に、イエスが私たちの内に生き、私たちの信仰がイエス中心、神中心になりますように。
心に留めたいこと
- キリスト者の生活の中心は、あらゆる問題を解決することではなく、キリストのかたちに変えられることです。
- ヨセフが垣根を越えられたのは、泉のほとりに植えられていたからです。キリストにとどまることが、実を結ぶ人生の秘訣です。
- すべてが崩れ、神が不在のように思えるとき、そこにこそ、神は最も近くにおられることが多いのです。「主がヨセフと共におられた」。
- 沈黙と待つ時は、なお自分中心の信仰を、神が清めてくださる恵みの時となりえます。
- 成熟した信仰は、「わたしではありません、神です」と言います。あなたの人生の主語が、神になるのです。
個人の適用
- いま、あなたの前にどんな壁が立ちはだかっていますか。それを越えるために、あなたはどの泉から汲んでいますか。
- あなたの人生の中に、その場面だけを切り離して見つめ、「もう終わりだ」と思っているところはありませんか。まさにその場所に神が共におられると考えたら、何が変わるでしょうか。
- 最近の祈りの中で、「わたし」「わたしがしなければ」「ここから抜け出させてください」と、何回言っていますか。あなたは、どの「さかずきの長」に助けてもらうことを当てにしていますか。
- 扉が開かない時期を過ごしていますか。それを、神があなたを形づくっておられる時として受け取るには、どうしたらよいでしょうか。
- 今週、あなたの生活のどの領域で、ヨセフのように「わたしではありません、神です」と言えるでしょうか。
引用された聖句
よくある質問
ヨセフが牢獄に入れられたとき、神はどこにおられたのですか。
横田法路牧師は、「主がヨセフと共におられた」という言い回しが創世記39章に集中していることを指摘します。牧師によれば、主の名はヨセフの物語の中に12回出てきて、そのうち8回がこの一つの章にあります。ヨセフがすべてを失うそのときこそ、神が彼に最もご自身を現されるときなのです。
なぜヨセフは、さらに二年間牢獄にとどまったのですか。
創世記40章14-15節で、ヨセフはさかずきの長に、自分を覚えていてくれるよう懇願します。説教者は、その願いの中に「わたし」という言葉が六回出てくると数えます。さかずきの長は彼を忘れてしまいます。横田法路牧師にとって、この二年間の沈黙は、神が、なお自分中心だった信仰を神中心の信仰へと変えてくださった恵みの時でした。
創世記41章によれば、神中心の信仰とはどのようなものですか。
パロの前で、ヨセフは答えます。「いいえ、わたしではありません。神がパロに平安をお告げになりましょう」(創世記41章16節)。息子たちをマナセとエフライムと名づけたときにも、ヨセフは「神がわたしに…忘れさせられた」「神がわたしを…豊かにせられた」と語っています。彼の人生の主語は、もはや「わたし」ではなく神です。説教者にとって、これこそが聖化の実なのです。
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