はじめに
オリヴィエ・ファーヴル師は、センター・ド・ヴィ(Centre de Vie)でのメッセージを、ワールドカップの一場面から始めます。信仰で知られるドイツの選手が、ゴールを決めたあと、冠を置くしぐさをして喜びを表しました。試合の終わりには、ドイツの選手二人と相手チームの選手四人が手をつなぎ、一緒に祈りました。この証しは、勝負の枠を超えて記者たちの心を打ち、牧師の心も打ちました。
続いて師はヨハネの福音書5章を開きます。ベテスダの池での癒しの場面です。そこでは病人たちが、御使いが来て水を動かすのを、何年も待っていました。イエスはその人たちの真ん中を通られます。メッセージの問いはそのままタイトルになっています。御使いを待つのか、それともイエスを見るのか。
説教の中心にあるのはイエスのことばです。「子は、父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない」(ヨハネ5:19)。オリヴィエ・ファーヴル師にとって、これは毎日主にこう尋ねる招きです。「今日、あなたは何をしておられますか」。
メッセージの流れ
1. ベテスダ、待つ人々のいた場所
- オリヴィエ・ファーヴル師は、エルサレムのベテスダを何度も訪れました。そこには何世紀も前から教会が建っています。家族で訪れたとき、姪が歌い始め、司祭は「ここは神を礼拝する場所です」と言って、続けるよう励ましてくれました。
- 本文は、この池を羊の門のそばにあり、五つの廊があったと記しています。牧師は、それが五つの門ではなく五つの回廊であったと説明します。
- これらの池は、レジャー用のプールではありませんでした。むしろ神殿での儀式のために使われていました。
- 廊の下には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が大ぜい横たわっていました。「水の動くのを待っていた。それは、時々、主の使が池に降りてきて水を動かすのだが、水が動いた後最初に池にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」(ヨハネ5:3-4)。
2. 「時々」現れる御使い、そして癒されるのはただ一人
- 「時々」とは、どれくらいでしょうか。説教者は、年に一度くらい、あるいはもう少し多いくらいだろうと推測します。そこで疑問が湧きます。なぜこの御使いは時々しか来なかったのでしょうか。それは神秘であり、何よりも不公平です。
- この物語の男は三十八年も病気でした。イエスは尋ねます。「あなたはなおりたいか」。男は答えます。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしが行っている間に、ほかの人が先に降りて行くのです」(ヨハネ5:6-7)。
- オリヴィエ・ファーヴル師は、油注ぎを受けた講師が病人のために祈る集会にたとえます。すでに十人が待っていて、講師は十時半に帰ってしまい、十一番目のあなたは癒しを受けられません。ベテスダではさらに極端で、癒しはただ一人にしか起こりませんでした。
- 師はここに、今日との類似を見ます。多くの人が、神秘的な行い、秘密、技術、霊的な治療師などによる癒しを待っています。ここでは御使いですが、根本的にはそれほど違いません。いくつかの証しが出回っているために、人は何年も待つのです。
3. イエスがそこにおられたのに、水に目を注いでいた
- 別の道がありました。そのころ、イエスは神殿でもガリラヤでも病人を癒しておられました。この池と「決して時間どおりに来ない」御使いにとらわれていなければ、イエスのもとに来て癒されることもできたはずです。
- 説教者は、ロンドンの有名な説教者スポルジョンを引用します。この人々には盲目が取りついていました。イエスがそこにおられ、癒すことができたのに、誰もイエスを求めませんでした。彼らの目は水に注がれていたのです。
- 神はこの場所に恵みを与えておられ、癒しも起こっていました。しかし神は別のことを備えておられたのに、この病人たちは、どれほど美しくても、古いやり方にとどまっていました。
- そこで牧師は自分自身に問います。「私は今どこにいるのか。父のなさることを見てそれを行っているのか、それとも古いやり方にとどまっているのか」。古い油注ぎ、昔からの習慣、五年前、十年前、十五年前に読み、聞き、経験したことのことです。
4. 子は、父のなさることを見てそれを行う
- メッセージの中心は、ヨハネ5:19-20です。「子は、父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることはなんでも、子もそのとおりにするのである。父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子に示されるからである」。
- オリヴィエ・ファーヴル師は、以前よりずっとゆっくり聖書を読み、一つの節に何日も留まることがあると語ります。イエスは病人にただ立ち上がるよう言われたのではありません。「起きあがれ、床を取りあげて歩け」(ヨハネ5:8)。中風の人はそのとおりにしました。そこには信仰の行いがあります。
- 癒しは安息日に起こり、これがパリサイ人たちを不快にさせます。彼らは神を喜ばせるために、禁じられる仕事を三十ほど定めていました。けれども、よい原則から律法主義へと滑り落ちてしまうのです。
- 牧師の例です。断食中にお茶を飲んでもよいかと尋ねられました。その答えは、主は心を見ておられる、各自に確信があり、大切なのは決まった形ではなく神への近さだ、というものです。
- イエスが父の望まれることしかしないと言われるとき、ほかのことができないからではありません。それは選びです。イエスはその視点で行動すると決められたのです。
- 二、三年前から、小さなグループが毎週水曜の正午にリバイバルのために祈っています。牧師はもっと多くの奇跡と癒しを祈っています。けれども、鍵は別のところにあると気づきました。イエスご自身に近づき、親しい交わりの中にいればいるほど、神がなさっていることの中に入っていけるのです。師の祈りはこうです。「父よ、今日、センター・ド・ヴィで、私がまだ見ていないどんなことをしておられますか」。
5. 神が備えてくださる神聖な出会い
- センター・ド・ヴィに通っていたある兄弟は、農業を営み、会社も経営する非常に多忙な人ですが、神の国に立ち返り、聖霊に対して自分を開いておきたいと願いました。彼を訪ねてきたある営業の人は、顔の半分が麻痺していました。兄弟は勇気を出して、その人のために祈ることを申し出ました。
- 医師たちは、回復するとしても数か月、あるいは数年かかると言っていました。数日後、その人からメッセージが届きました。顔に温かさが広がり、癒されたというのです。その後、兄弟はその人をイエスのもとへ導くことができました。
- 「申し出ることは決して簡単ではありません」とこの兄弟は認めます。チームのある姉妹も、ラ・ショー・ド・フォンの職場で同じようにしていて、祈りを断られることはまれだそうです。
- 井戸でのイエスとサマリヤの女との出会い(ヨハネ4章)のように、神聖な出会いがあります。牧師は問いかけます。この夏、神はあなたにどんな出会いを備えておられますか。そこであなたは聖霊の通り道となって、誰かに触れ、ことばを語り、助言を与え、癒しをもたらすのです。
- 師は、無理に事を進めなくてもよいほど、イエスに近くありたいと願っています。子は絶えず父のほうを見ています。愛が、子を父のみわざに協力させます。子は天における神のみこころを見つめ、それを地で成し遂げるのです。
- 不安をあおる、未知のことだらけの世界の中でも、神は働いておられます。終わりまでにあとどれくらいあるかを知ろうとするよりも、師はこう尋ねたいと思っています。「主よ、イスラエルのために、ヌーシャテルのために、私の職場、学校、大学のために、あなたの祈りは何ですか」。神があなたをそこに置かれたのであり、それは決して偶然ではありません。
- イエスは五千人以上の群衆を養い、同時に、三十八年間病気だった男のために、十二年間出血の止まらなかった女のために、スロ・フェニキヤの女のために、足を止められます。牧師は、群衆に対しても、一人ひとりに対しても向けられる、この心を求めています。
- 近況も伝えられました。センター・ド・ヴィがラ・ショー・ド・フォンで支援してきたウクライナ人のグループは小さな教会になり、毎週土曜日に大人が約二十人、子どもが十二人ほど集まっています。この夏には三十人を超えるバプテスマが予定されており、そのうち十二人ほどが次の日曜日で、その中にウクライナ人が四人います。
6. ことばと態度を神に整えていただく
- 主と違って、私たちは罪のない者ではありません。父のなさることを行うには、内側から整えられ、問いかけられ、変えられることが必要です。
- オリヴィエ・ファーヴル師は、フランス語圏スイスの友人たちとの集まりでのことを語ります。その場にいた牧師の返事を厳しいと感じました。チームの一人が、師がそれまでに言ったことを考えれば、それはむしろ当然だと指摘してくれました。
- ごく控えめだと自ら言う政治への関わりの中で、師はほとんどあらゆることについて意見を述べ、あとでそれが妥当だったかと考えます。政治で、あなたの仕事で、教会で、何を言い、何を言わないのが正しいのでしょうか。
- 師は箴言を引用します。「愚かな者は、すぐに怒りをあらわす、賢い人は、侮辱をも忍ぶ」(箴言12:16)。「言葉を少なくする者は知識を持つ、心の冷静な人は英知がある」(箴言17:27)。
- 師が学んでいることは、心から、繰り返し励ますことです。師はある委員会の委員長に、とてもよく書けた報告書について、またある部長に、その指導のしかたについて、お祝いのことばをかけ、それが相手の心に響くのを見ました。
- もしあなたが苛立ち、苦々しさ、ストレス、不安、そしてそれゆえの利己心で満たされているなら、神の油注ぎを見る可能性は低いでしょう。けれども、イエスによって平安の中にいるなら、疲れていてさえかまいません。
- イエスは、弟子たちが食べ物を買いに行っている間、サマリヤのヤコブの井戸のそばで疲れ果てておられました。その疲れの中にも油注ぎがありました。のちにイエスは、父のみこころを行うことが自分の食物だと言われます(ヨハネ4:34)。
7. 神は癒しのための多くの道を備えておられる
- 長老たちは、病人に油を注ぐことができます(ヤコブ5:14-15)。牧師にとって、聖書の言う長老の概念は広く、牧師、グループのリーダー、役員会のメンバーなど、群れを預かるすべての人を含みます。
- 「病人に手をおけば、いやされる」(マルコ16:18)。制限はなく、どの弟子でも学ぶことができます。
- 癒しの賜物は、コリント第一12章で言及されています。ほかの人よりもこの賜物を多く持っている人がいるのです。
- イエスはしばしば本人の信仰に応じて癒されましたが、ときには中風の人の場合のように、ほかの人々の信仰に応じて癒されました。
- 神は、医療、バランスのとれた食事、薬を通しても癒してくださいます。超自然への執着から、それらをないがしろにしてはなりません。それも神の祝福です。
- 教会の中で、兄弟姉妹の間でそれを経験しないなら、外でどうして経験できるでしょうか。牧師は、この夏、あなたが病人に出会うあらゆる場所に癒しの油注ぎが流れ、あなたも「この池のほとり」で足を止めるよう祈っています。
- ベテスダの男は、希望に満ちていると同時に、絶望にも満ちていました。奇跡は起こりうるが、「私には決して起こらない」と思っていたのです。今日、あなたはその状態から抜け出し、イエスのもとに来ることができます。お金のこと、夫婦のこと、家族のこと、仕事のこと、依存のことのために。メッセージは、賛美と病人のための祈りの時間で終わります。
心に留めたいこと
- ベテスダでは、イエスが病人たちの真ん中を通られたのに、彼らは水に目を注いでいました。
- 昨日受けた恵みが、今日神がなさっていることを見えなくする習慣になってしまうことがあります。
- イエスは、父がなさるのを見たことだけを行うと選ばれました。鍵は決まった形ではなく、イエスとの親しさです。
- 神は神聖な出会いを備えておられます。祈りを申し出るには、しばしば勇気が要ります。
- 神は、超自然的なものもそうでないものも含め、医療を通しても、多くの方法で癒してくださいます。
個人への適用
- あなたは、どの「池」を長い間待ち続けて、イエスご自身を見なくなっていませんか。
- あなたは今も、五年前、十年前、十五年前に読み、聞き、経験したことで生きていませんか。それとも、主が今日何をしておられるかを尋ねていますか。
- あなたの職場、学校、地域で、神の祈りは何でしょうか。神はどんな神聖な出会いを備えておられるでしょうか。
- あなたのことばや態度の中で、苛立ち、苦々しさ、不安など、何が神のみわざがあなたを通して働くことを妨げていますか。
- 今週、あなたは誰を心から励ますことができますか。
引用された聖句
よくある質問
なぜベテスダの病人たちは水の動くのを待っていたのですか。
ヨハネ5章によれば、御使いが時々池に降りてきて水を動かし、最初にそこに入った人が癒されました。オリヴィエ・ファーヴル師は、そのたびに癒されるのは一人だけで、御使いがいつ来るのか誰にも分からなかったことを強調します。その間にも、イエスはご自分のもとに来る人々を癒しておられました。
「子は、父のなさることを見てする以外に何もできない」とはどういう意味ですか。
オリヴィエ・ファーヴル師によれば、ヨハネ5:19が描いているのは、できないということよりも、親しさの選びです。イエスは絶えず父のほうを見て、父がなさることに加わっておられます。信じる者にとっての鍵は、イエスに近づき、昨日のやり方にとどまらず、今日イエスが何をしておられるかを尋ねることです。
このメッセージによれば、神はどのような方法で癒されるのですか。
説教者はいくつか挙げています。長老による油注ぎ(ヤコブ5章)、弟子なら誰でもできる手を置くこと(マルコ16章)、癒しの賜物(コリント第一12章)、本人や周りの人々の信仰、そして医療もです。師は医療を、ないがしろにしてはならない神の祝福と呼んでいます。