はじめに
ロベルト・サレミ師は、トリノのアッセンブリーズ・オブ・ゴッド福音教会(ADI)で、よく知られた箇所であるイエスのバプテスマ、マタイ3章13~17節から語っています。師は、この記事の一節をそのまま題にする以外に良い題が見つからなかったと打ち明けます。「ヨハネはイエスの言うとおりにした」という言葉です。
一見すると些細な点に思えるかもしれません。しかしマタイはあえてこれを書き留めています。ヨハネは初めイエスに逆らい、やがて抵抗をやめます。そのとき天が開くのです。
このメッセージは単純な問いを投げかけます。イエスが御言葉や使命や戒めをもってあなたの人生に来られたとき、あなたは逆らいますか。それとも、イエスにおまかせしますか。
メッセージの流れ
1. ほとんど現実離れした会話
- ヨハネとイエスは親戚で、互いをよく知っていました。それぞれが相手が誰であり、自分がどんな役割を果たすべきかを分かっていました。
- ヨハネは悔い改めを説きました。遠慮のない人らしい「とても率直な」説教でした。さらに、神の赦しが必要だと理解した印として、バプテスマを授けていました。
- イエスのバプテスマは公の証しです。私たちがバプテスマを受けるとき、キリストが自分の人生になしてくださった御業を証しするのと同じです。ここからイエスは公に宣教を始め、キリストとして認められることを望まれます。
- 「すべてはとても一直線に進んでいました。」それなのに、この会話が起こります。「考えてみればほとんど現実離れした」会話です。
2. ヨハネは逆らった
- 「ところがヨハネは、それを思いとどまらせようと努めて言った、『わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか』」(マタイ3:14)。説教者は、この反応を「少し不思議だ」と感じたと認めています。
- ヨハネの立場に立ってみてください。彼は神のもとに戻りたい罪人たちにバプテスマを授けていました。そこへ、聖霊の啓示によってその歩みと使命を知っていたお方が進み出てこられたのです。知っていたからこそ、逆らうべきではありませんでした。
- 「確かに残念な態度ですが、私たちにとてもよく似ています。」イエスはメッセージ、目的、使命、新しいビジョン、励まし、方向づけ、ときには戒めをもって私たちの人生に来られ、霊的な成長において「小さな一歩」を踏み出させようとされます。
- そして私たちはときにこう言います。「いいえ、イエスさま、物事はそのように進むべきではありません。」
- ヨハネの疑いはもっともなものでした。「しかし、それはこの状況における彼への神のみこころではありませんでした。」私たちも、もっともな疑いを神の選びにぶつけ、人生がどの方向に進むべきかを神に教えようとすることがあります。
3. 私たちの計画と主のご計画
- ソロモンはそれを学んでいました。「心の思いは人にあり、舌の答えは主から来る」(箴言16:1)。また、「人の心には多くの計画がある、しかし主のみこころだけが堅く立つ」(箴言19:21)。
- 説教者は、計画や願いや意見を持ってはいけないと言っているのではありません。ただ、私たちが心を神にささげたとき、「私たちの面倒を見てください、人生を導いてください」と申し上げたはずです。
- なぜ私たちは逆らうのでしょうか。ときには、物事の進み方が分かるだけの経験があると思っているからです。ときには、何かを実現したいという願いが強すぎて、神のみこころに逆らってしまうからです。
- イエスは、取り除くべき悪や変えるべき習慣を示されたり、祈りや読書や奉仕にもっと忠実であるよう励まされたりします。そのときの答えは、「無益な抗議」をやめて、イエスのみこころを受け入れることです。
- 「イエスは私たちの人生の主でしょうか。」私たちは皆「はい」と答えます。ならば、すべてはキリストがどの位置におられるか、そして私たちがどれだけ信頼するかにかかっています。「キリストが私たちの舟におられるなら、どんなに激しい風も静められます。」
4. イエスは粘り強く、私たちを御業に加えてくださる
- ヨハネは逆らいましたが、イエスは答えられました。「イエスが私に粘り強く向き合ってくださったすべての時に、神に栄光を」とロベルト・サレミ師は語ります。何度も心の前に戻ってきてくださったからです。
- 「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」(マタイ3:15)。イエスはお一人でヨルダン川に入ることもおできになりました。しかしイエスは、物事を一人でなさろうとはされません。私たちを御業に加えたいのです。
- 「神のみこころに従うことは決して簡単ではありません。自分の力で神に従おうとするのは不可能です。けれども、イエスとともにするなら、それは自然なことになります。」
- イエスのバプテスマは、脇役の出来事ではありません。それは預言の言葉を成就し、イエスの宣教全体の基調を定めるものでした。ヨハネは神の御業に加わりましたが、一人でするよう求められたわけではありません。イエスはいわば、「いっしょにやろう」と言っておられたのです。
- 説教者は、イエスのくびきは軽いという御言葉(マタイ11:30)を思い起こさせます。自分の力ではなく、イエスとともに、置かれた場所で仕えるということです。
5. 準備ができた人ではなく、従う備えのある人
- 神のみこころを果たす力が自分にはないと感じて、悲しみの時期を通ることがあるかもしれません。複雑すぎる、大きすぎる、備えも資格もないと感じるのです。
- 「イエスは、準備ができたと感じている人を探しておられるのではなく、イエスに従う備えのある人を探しておられます。」イエスは、準備ができていたからヨハネを求められたのではなく、従う備えのあるヨハネを求められたのです。
- キリストに仕えることは喜びであり、みこころに従うことは、イエスとともにするほど単純になります。だからこそ、イエスとの個人的な関係を育て、イエスに頼り、その御言葉に耳を傾けるよう勧められています。
- 私たちの人生には、バプテスマのヨハネの人生と同じように、いつも「工事中」と書かれています。「私にはあなたに仕え、忠実であり、従う力がありません。ご自分でやってください」と言うこともできます。けれどもイエスは、私たちとともにいて励まし、聖霊で満たしてくださるお方です。
6. 従ったあと、天が開いた
- ヨハネは神のみこころを受け入れ、二人はともに正しいことを成就し、「見よ、天がひらけ」ました(マタイ3:16)。
- 私たちは何度、「主よ、ご自身を現してください、聖霊で満たしてください、天を開いてください」と祈るでしょうか。ここでは、その前に祈りがあったとは書かれていません。あったのは、従順と奉仕とへりくだりの行いでした。ヨハネはへりくだり、逆らうのをやめ、イエスの言うとおりにしたのです。
- 「同じ原則は今日も変わりません。」天が開かれるのを見るには、何時間祈らなければならないのでしょうか。この箇所が示しているのは、へりくだりと従順の行いがあり、そのあとに天が開かれたということです。
- 御霊が鳩のような姿をとったのか、本当に鳩がイエスの上に降りたのかは分かりませんが、「それは重要ではありません」。彼らは天からの声を聞き、三位一体を見たのです。神が御自身を現しておられました。
- 私たちに求められているのは、バプテスマのヨハネのように「イエスの手の中の、へりくだった道具」となることです。イエスとの本物の、生きた、感じられる関係をもって。
7. 「いいえ」から「はい、主よ」へ
- もしヨハネが「いいえ、あなたにバプテスマは授けません」と言い張っていたら、どれほどの祝福を失っていたでしょうか。出来事はそれでも起こり、イエスは別の人を見つけたでしょう。「私たちが頑なさのために、どれほど多くの祝福を失っているか、考えてみてください。」
- 示されたイメージはこうです。私たちの意志がイエス・キリストに手を取られ、イエスが望む場所へと導かれること。従い、聖霊に心を変えていただき、イエスとの関係を育てていくなら、私たちは自分の人生の上に天が開かれるのを見るでしょう。
- ヨハネはイエスへの「いいえ」から出発し、神が御自身を現されるのを見るところまで来ました。
- あなたも「いいえ」や「まだです」を抱えてここに来たかもしれません。「主よ、今はその時ではありません、ほかのことをしています」「主よ、私の家族のことで間違えておられます、私ならこうしたでしょう」と。けれども、あなたの人生に神の御業を見て帰ることができます。
- 私たちは「取るに足りない僕」(ルカ17:10)です。それでも神は私たちを用いて何かをなさろうとしています。そのみこころは良く、完全だからです。最後の祈りはこうです。「主よ、はい。力も能力もないかもしれません、時期でもないかもしれません。けれども、あなたが何かをおっしゃるなら、私は『はい』と言いたいのです。」そして、「主よ、あなたに行っていただきたいのです。私の人生で、私の家で、私の奉仕で。」
心に留めたいポイント
- ヨハネの疑いはもっともなものでしたが、神のみこころではありませんでした。私たちのもっともな反論が、イエスに逆らわせることがあります。
- 私たちには多くの計画がありますが、実現するのは主のご計画です(箴言19:21)。
- イエスは一人で行動したいとは思っておられません。私たちを御業に加えてくださいます。一人で従うのは不可能ですが、イエスとともになら自然になります。
- イエスは、準備ができたと感じる人ではなく、イエスに従う備えのある人を探しておられます。
- 天が開く前に、へりくだりと従順の行いがありました。ヨハネは逆らうのをやめ、イエスの言うとおりにしたのです。
個人的な適用
- あなたの人生のどの分野で、今イエスに「物事はそのように進むべきではありません」と言っていますか。
- 取り除くべき悪、変えるべき習慣、あるいは祈りや読書や奉仕への取り組みとして、イエスは今日あなたに何を示しておられますか。
- なぜ逆らっているのでしょうか。十分な経験があると思っているからですか。それとも、個人的な願いがみこころより強いからですか。
- 仕えるには備えが足りない、あるいはふさわしくないと感じていますか。自分の力ではなくイエスとともにするなら、何が変わるでしょうか。
- 今週、どの「いいえ」や「まだです」を「はい、主よ」に変えられますか。
引用された聖句
よくある質問
なぜバプテスマのヨハネは、最初イエスにバプテスマを授けることを拒んだのですか。
ヨハネはイエスが誰であるかを知っていました。そこで「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」と言いました。ロベルト・サレミ師によれば、それはもっともな疑いでしたが、その状況でのヨハネへの神のみこころではありませんでした。私たちも、自分の理屈を神の選びにぶつけるとき、同じことをしています。
マタイ3章15節の「すべての正しいことを成就する」とはどういう意味ですか。
イエスはお一人でヨルダン川に入ることもおできになりました。しかしヨハネを御業に加えることを選ばれ、「われわれにふさわしい」と言われました。説教者はここに一つの原則を見ています。自分の力で神に従うのは不可能ですが、イエスとともにするなら自然になります。イエスは私たちを御業の参加者にしたいと望んでおられるからです。
なぜイエスのバプテスマのとき、天が開いたのですか。
ロベルト・サレミ師は、この場面の前に祈りが記されていないことを強調します。あったのは、へりくだりと従順の行いでした。ヨハネは逆らうのをやめ、イエスの言うとおりにしたのです。そのとき天が開き、御霊が鳩のように降り、天から声が聞こえました。