エフタ:勝利を悲劇に変えた誓い

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「エフタは言った。エフタはギルアデ人で、勇敢な戦士でした。彼は遊女の子でしたが、彼を生んだのはギルアデでした。」(士師記11:1、口語訳)

人生の始まりがつらいものだったという方もいるでしょう。エフタは兄弟たちに拒まれ、家族から追い出され、異国の地へと追いやられました。普通なら心が折れてもおかしくありません。それでもなお、神様はエフタを勇敢な戦士として、士師の時代のイスラエルの解放者として立て上げてくださいました。ただ、その物語は決してきれいごとではありません。従順の輝かしい頂点があると同時に、自分の娘の命を奪うことになった愚かな誓いという痛ましい出来事もあるのです。もしあなたが拒絶を経験したことがあるなら、心に傷を抱えているなら、あるいは深く考えずに神様に対して何かを誓おうとしているなら、エフタの物語はきっとあなたに語りかけてくるはずです。

まず時代背景を思い出してみましょう。士師記は霊的に衰退した時代を描いています。繰り返し出てくる言葉があります。「イスラエルの人々は主の目の前に悪であることを行った」という一節です。そのたびに民は神様から離れ、より強い敵に苦しめられ、悔い改め、そして神様は聖霊に満たされた士師、すなわち解放者を起こして民を救い出してくださいます。デボラ、ギデオン、そして今日はエフタです。

1. 拒絶の中で鍛えられたリーダーシップ

エフタは冒頭の一節から「勇敢な戦士」と紹介されています。これは強い言葉です。聖書の中でこの称号を持つ人物はギデオンとエフタの二人だけです。彼の名前自体が「彼は開く、彼は解放する」という意味を持っています。名前の中に、すでに神様に仕えるための使命が刻まれていたのです。

とはいえ、彼の人生は波乱に満ちていました。遊女の子として生まれたことは、当時の文化の中では非常に重い十字架でした。これは彼のせいではなく、父親の過ちなのに、その代償を彼が負わされたのです。正式な家庭に生まれた異母兄弟たちは、ついに彼を家から追い出してしまいます。エフタはトブの地へと逃れました。何も悪いことをしていないのに、拒まれてしまったのです。

拒絶の痛みは、あなたにも覚えがあるかもしれません。ヨセフも兄弟たちから同じ経験をしました。イエス様ご自身も、信じようとしない兄弟たちから拒まれました。理由も分からないまま脇に追いやられることは、誰にでも起こり得ることです。そして、この傷の中でエフタが何をしたかが、決定的に重要です。彼は絶望や落胆に沈み込むことはありませんでした。彼はそこから違う道を選んだのです。

「そこで、ならず者たちがエフタのもとに集まり、彼と共に出かけて行った。」(士師記11:3、口語訳)

ここにリーダーの特徴が表れています。人々が彼のもとに引き寄せられ、その人々が彼との関わりの中で建て上げられていくのです。彼は彼らに目的を、ビジョンを、召しを与えます。ダビデも同じ経験をしました。サウルに追われて、アドラムの洞穴に身を隠していたときのことです。

「悩んでいる者、負債のある者、不満を抱く者たちが皆、彼のもとに集まって来て、彼はその頭となった。彼と共にいた者はおよそ四百人であった。」(サムエル記上22:2、口語訳)

共通点など何もない、ばらばらな男たちでした。しかし、ダビデとの関わりの中で、彼らは主のために大きな働きをする勇士たちへと変わっていきました。リーダーというものは、本来一緒に歩むはずのない人々をまとめ、たとえ厳しい状況の中でも、共に進むべき方向を示すことができるのです。エフタもまた、「ならず者たち」を兵士へと変えていきました。

2. ギルアデへの帰還:神様のご計画を受け入れ、赦す

しばらくして、アモン人たちがイスラエルに戦争を仕掛けてきました。ギルアデの長老たち(かつて彼を拒んだ、まさにその人たち)が、トブの地までエフタを迎えに来ます。

「来て、私たちの指導者になってください。私たちはアモン人と戦います。」(士師記11:6、口語訳)

アモン人とは、ロトの子孫です。イスラエルの二つの敵の民、アモン人とモアブ人は、実はアブラハムと同じ家系から出ています。もとをたどれば同じ出自でありながら、二つの異なる霊がそこにありました。アブラハムは神様に結びつき、ロトは地上のものに結びついていたのです。信仰者にも二つのタイプがあると言えるでしょう。ロトの霊にある者は世のものを愛し、自分の好むものを求め、地上の快楽の中に生きます。アブラハムの霊にある者は神様を求め、その臨在を、そのみこころを求めます。たとえどんな代償を払うことになっても、です。

「なぜなら、肉の望むところは御霊に逆らい、御霊の望むところは肉に逆らうからです。この両者は互いに相反していて、あなたがたは自分が望むことを行うことができません。」(ガラテヤ人への手紙5:17、口語訳)

霊的に弱っていたギルアデの住民たちは、アモン人に支配されてしまいます。あなたが弱っているとき、外側の敵に対して脆くなります。これは霊的な意味でも真実です。しかし、問題が起こったとき、人は本当に助けてくれる人を探し求めます。エフタは拒絶を受けたにもかかわらず、困難な状況の中で良い証しを立てていました。そして、その証しが彼のために語ってくれたのです。

肩書きよりも、証しの方が価値があります。語るのはあなたの人生そのものです。もし主があなたと共におられるなら、その御手はあなたに従い、どんな場所でも祝福されるでしょう。ヨセフがそうでした。家族のもとでも、ポティファルの家でも、牢の中でも、エジプトの頂点に立ってもです。状況は変わっても、神様の祝福は変わりません。新しい試練が来るたびに、それは一つの試験です。自分自身について、他者について、そして神様について学び、成長していくのです。

エフタはギルアデへ戻ることを受け入れます。まさか自分が屈辱を受けたその地に、再び戻ることになるとは思ってもいなかったでしょう。しかし、神様が私たちに、逃げ出したはずの場所へ戻るように招かれるとき、それを受け入れる必要があります。ヨセフもまた、自分にされたすべての悪を赦し、兄弟たちのもとへ戻り、彼らの恩人となる必要がありました。

傷つけられたとき、どうやって赦せばよいのでしょうか。人間の力だけでは無理です。簡単にはできません。私たちの弱さを助けてくださるのは、神様の恵みです。イエス様のことばに耳を傾けてみましょう。

「しかし、わたしはあなたがたに言います。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それは、天におられるあなたがたの父の子となるためです。」(マタイの福音書5:44-45、口語訳)

私たち自身の力だけで実行するのは不可能なことです。だからこそ、私たちは祈り求めなければなりません。神様が私たちの心に、天からのその愛を注いでくださるようにと。それなしには、あなたは効果的に仕えることはできません。エフタも、赦しと心の癒やしという段階を経る必要がありました。そうでなければ、神様に仕えることはできなかったでしょう。

傷ついたとき、あなたには二つの道があります。一つ目は、苦々しさに陥り、内側から自分を蝕む復讐心にとどまり続ける道です。二つ目は、神様の助けを求めて赦し、ページをめくり、前に進む道です。これがクリスチャンの歩む道です。

傷つくことを完全に避けることはできません。私たちは弱く、たとえ最も優れた人であっても、いつか誰かを傷つけてしまうものです。しかし、その傷を手当てしなければ、傷口は化膿してしまいます。そして化膿した傷を放置すれば、切断することになり、さらに悪ければ命に関わることさえあります。手遅れになる前に、行動してください。

「主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包んでくださる。」(詩篇147:3、口語訳)

打ち砕かれた心を癒やすことは、神様にとって何の問題でもありません。問題があるのは私たちの側です。どうすればよいのか分からないからです。しかし神様はご存じです。あなたは苦しみ、苦々しさ、断罪、復讐心の中に生き続ける必要はありません。あなたは自由にされることができます。それが、聖霊による神様の恵みです。

3. ミツパでの献身:上から来る力を求めて

指導者として立てられたエフタは、とても大切なことをします。主の御前、ミツパへと戻るのです。

「エフタは、自分が語ったすべてのことばを、ミツパで、主の御前に繰り返した。」(士師記11:11、口語訳)

彼にはリーダーとしての資質があり、難しい状況の中で実績を示してきました。それでも彼は、自分の能力だけでは足りないことを知っていました。神様が彼の能力を用いてくださるためには、まず自分自身を神様に献げる必要があったのです。あなたの持つ資質は良いものですが、それを神様に献げなければなりません。神様の助けなしには、それらは神様の御業を成し遂げることができないからです。

私たちは霊的な戦いのただ中にいます。人間的な武器では、御霊による戦いを戦うことはできません。別の武器、別の力が必要なのです。

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。」(エペソ人への手紙6:10-11、口語訳)

この力は、自然に備わっているものではありません。ジムで何時間も過ごし、強い体を手に入れても、心が弱いままということもあり得ます。霊的な力は、主の御前にひざまずくところ、祈りの中、みことばの中、神様との交わりの中にあります。それこそが、私たちに必要な武器です。エフタには剣があり、兵士がおり、馬もありました。しかし彼は、それとは別の力が必要だということを知っていたのです。

4. 聖霊に満たされて:まず平和、それから戦い

「主の霊がエフタの上に臨んだ。彼はギルアデとマナセを通って行き、ギルアデのミツパを通り、そこからアモン人のところへ向かって行った。」(士師記11:29、口語訳)

ここで三つ目のポイントです。エフタは聖霊に満たされていました。戦いに向かう前に、彼はまず外交的な道を試みます。使者をアモン人の王のもとに送り、争いの原因を確かめようとしたのです。王は、イスラエルがエジプトを出たときに自分たちの領土を奪ったと非難します。エフタは冷静にこれを訂正します。イスラエル人は通行を求めたが拒まれ、それでアモリ人と戦い、300年もの間その地に住み続けてきたのだと。「この地を私たちに与えてくださったのは神様です。今は、あなたがたの側で生活してください。」しかし王はこれを拒否し、戦争は避けられないものとなりました。

エフタは平和を求め、和解を目指す人でした。しかし、外交の道がいつも実を結ぶとは限りません。あなたが平和を望んでいても、相手が戦いを望んでいることがあります。これは現実にあることです。話を聞かず、対話をしようとしない、対立的な人々と関わるのは簡単ではありません。それでもエフタは、戦いを避けるためにできる限りのことをしました。そして、やむを得ず戦いに臨むとき、彼は神様の御霊が自分の上にある状態で、初めてその道に踏み出したのです。

そして、この聖霊を求める姿勢を、聖書は今日の私たちにも勧めています。

「あらゆる祈りと願いをもって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目をさましてどこまでも忍耐し、すべての聖徒のために祈りなさい。」(エペソ人への手紙6:18、口語訳)

多くのクリスチャンは、すべてがうまくいかないときに熱心に祈ります。しかし、物事がうまくいっているときには、その熱心さが緩んでしまいます。しかしパウロは「どんなときにも」と言っています。私たちは、状況がどうであれ、この高い祈りの姿勢を保ち続けなければなりません。御霊によって祈るとは、神様のみこころに従って祈ること、聖霊に導いていただき、祈りの内容を示していただくことです。あなたが神様に近ければ近いほど、御霊によって祈るようになります。

忍耐こそが鍵です。あるクリスチャンたちは花火のようです。回心したときには燃え盛るのに、やがてしぼんでしまいます。それはクリスチャンの本来の歩みではありません。忍耐がなければ、どんなに素晴らしい回心の経験も、いずれ崩れ落ちてしまいます。ペテロは、これを強い言葉で表現しています。

「『洗われた豚は、また戻って、どろの中を転げ回る』」(ペテロの手紙第二2:22、口語訳)

その豚は洗われたのに、また自分の泥の中へと戻っていくのです。もしあなたが忍耐し続けなければ、必ず後戻りしてしまいます。

5. 愚かな誓い:勝利が悲劇へと変わるとき

そして今、士師記の中でも最も繊細で、おそらく最も議論を呼ぶ箇所に触れなければなりません。エフタの誓いです。

「エフタは主に誓願を立てて言った。もしあなたが確かにアモン人を私の手に渡してくださるなら、私がアモン人のところから無事に帰るとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者は、だれでも主のものとなります。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」(士師記11:30-31、口語訳)

これは重大なこと、愚かな誓いです。彼はこれを異教徒のやり方でしてしまいました。当時、周辺の文化では、人身供犠を伴う誓いが珍しくありませんでした。モレクは人身供犠を求めていましたし、将軍たちは戦いの前にこの種の誓いを立てることがよくありました。エフタは、モーセの律法が人身供犠を明確に禁じていたにもかかわらず、こうした異教の習慣に自分の思考が影響されてしまったのです。それは神様のみこころではありませんでした。

ここで分かるのは、信仰者であっても、神様に仕える者であっても、間違った選択をしてしまうことがあるということです。この誓いには何の意味もありません。むしろ逆効果でした。エフタは自分自身の一族の者を犠牲として献げると約束してしまったのです。彼は自分自身を苦しめると同時に、神様のみこころに背いてしまいました。

この誓いは、彼自身の娘に関わることでした。勝利して帰って来たとき、真っ先に彼を迎えに走り出て来たのは、まさにその娘でした。彼女は、それが自分の死を意味するとは知らずに、勝利の喜びの中で父を迎えに出てきたのです。エフタは打ちのめされますが、それでも誓いを取り消そうとはしませんでした。

彼は自分の過ちを認め、考えを改めることもできたはずです。しかし彼は自分が誓いに縛られていると感じ、それを覆すことを望みませんでした。神様への従順よりも、公の場での恥の方が、彼にとってはより耐え難いものに思えたのです。これはヘロデの過ちと同じです。ヘロデはヘロディアの娘に、望むものは何でも与えると誓ってしまいました。彼女はバプテスマのヨハネの首を求めます。権力を握っていたヘロデはバプテスマのヨハネを愛し、彼を守りたいと願っていました。しかし、公の場での誓いのために、預言者の首を差し出してしまったのです(マルコの福音書6章)。サウルも同様の誓いを立てたことがありました。夕方までに食べ物を口にする者は死ななければならない、というものです。誓いを知らなかった息子ヨナタンは蜜を口にしてしまいます。サウルは息子を死刑にしようとしましたが、幸いにも民がそれに反対し、サウルは思いとどまりました(サムエル記上14章)。

つまり、間違った誓いを取り消すことは可能だったのです。エフタも、良識に従ってそれを実行しないという選択ができたはずです。しかし彼の頑なさが、罪のない若い娘の命を奪う結果となってしまいました。決して軽々しく神様に対して誓いを立ててはいけません。神様から示されたのではない、自分自身の思いだけによる誓いは、恐ろしい被害をもたらすことがあります。

「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取ります。」(ガラテヤ人への手紙6:8、口語訳)

6. エフライムとの内輪の戦い:最大の危険は内側から来る

「エフライムの人々は召集され、北へ渡って行き、エフタに言った。あなたはなぜ、アモン人と戦うために渡って行きながら、私たちを呼んで一緒に行かせなかったのか。私たちはあなたの家をあなたごと火で焼き払う。」(士師記12:1、口語訳)

エフライムは、イスラエルの部族の一つでありながら、戦いに招かれなかったという理由でエフタに反旗を翻します。この部族は以前もギデオンと対立したことがあり、今度はエフタと再び対立するのです。そしてこれが、内輪の戦争にまで発展してしまいます。

エフタの兵士たちは、逃げるエフライム人を見分けるために、「シボレテ」(急流という意味)ということばを発音させました。エフライム人は「シ」の発音がうまくできず、「シボレテ」ではなく「スィボレテ」と発音してしまいます。そう発音した者はその場で殺されてしまいました。外側の敵をようやく打ち破ったばかりだというのに、神様の民は互いに引き裂き合ってしまったのです。

これこそが、教会にとって最大の危険です。内側での争いです。最悪の攻撃は、しばしば内側からやって来るのです。パウロはすでにこう警告しています。

「しかし、もしあなたがたが互いにかみつき、食い合っているなら、互いに滅ぼされてしまわないように気をつけなさい。」(ガラテヤ人への手紙5:15、口語訳)

私たちは、教会を内側から破壊しようとするこの分裂の霊と戦わなければなりません。あなたはもしかすると、外側での勝利をすでに収めているかもしれません。神様に栄光がありますように。しかし内側にも目を向けてください。敵は分裂、争い、ねたみ、悪口によって攻撃してくることを知っているからです。それはキリストが求めておられる証しではありません。キリストは、その教会に愛と平和を求めておられます。

覚えておきたいポイント

  • 拒絶がすべてを決めるわけではありません。エフタのように、あなたも不当な扱いに押しつぶされることなく、神様がのちに用いてくださるものへと自分を鍛えていただくことができます。
  • 肩書きよりも、あなたの証しの方が価値があります。あなたを拒んだ人たちにさえ認められるのは、誠実に歩んだあなたの人生そのものです。
  • 苦々しい心のままでは、神様に仕えることはできません。傷が化膿してしまう前に、赦し、神様に癒やしていただきましょう。
  • ミツパでの献身を忘れないでください。あなたの能力だけでは十分ではありません。それは神様に献げられ、御霊によって強められる必要があります。
  • 神様に対して軽々しく誓いを立てないでください。愚かな誓いや誇りからくる頑なさは、あなた自身だけでなく、他の人にも大きな代償を払わせることになります。
  • 一致を大切にしてください。教会に対する最悪の攻撃は、内側からやって来ます。愛と平和こそが、キリストが求めておられる証しです。

あなたへの適用

  1. あなたがまだ抱えている、古い拒絶や傷はありませんか。それを神様の前に差し出し、赦しを始めるために、今週できることは何でしょうか。
  2. あなたは自分の能力と、神様の御霊のどちらにより頼っていますか。「ミツパに戻り」、改めて自分を献げる必要がある部分はどこでしょうか。
  3. あなたが軽率に立ててしまった誓いや約束はありませんか。それを、神様への従順からではなく、頑なさや世間体のために続けてはいないでしょうか。
  4. あなたは、誰かと対立する前に、エフタのように外交的な道と平和をどれだけ大切にしていますか。
  5. あなたが生きているのは、じっくりと燃え続ける忍耐の火でしょうか、それともすぐに消えてしまう花火のような信仰でしょうか。長く続けるために、今日変えられることは何でしょうか。
  6. あなたは、地域教会の中で分裂を生む者でしょうか、それとも平和を作り出す者でしょうか。あなたが兄弟に対して無意識に使っている「シボレテ」があるとしたら、それは何でしょうか。

引用された聖句

よくある質問

エフタは本当に娘を全焼のいけにえとして献げたのですか、それとも生涯独身を貫かせる形で神様に献げたのですか。
士師記11章の本文は、この点について多くを語っていません。文字どおりの犠牲であったと解釈する人もいれば、結婚を禁じる形での生涯にわたる献身だったと解釈する人もいます。どちらの解釈をとるにせよ、この説教のメッセージは変わりません。それはモーセの律法に反する愚かな誓いであり、彼は本来、それを認めて取りやめるべきだったということです。神様に対して軽々しく誓いを立ててはいけません。

自分が神様に立てた誓いが、エフタのように「愚か」なものかどうか、どうすれば分かりますか。
その誓いが聖書にかなっているか、神様と隣人を敬うものであるか、感情に流されてではなく、静かに祈りの中で立てられたものであるか、そしてそれが従順へと導くのか、それとも頑なさへと導くのかを確かめてみてください。悪い誓いは、頑なに実行することよりも、悔い改めによって正すほうがはるかによい方法です。

兄弟姉妹に傷つけられたとき、どのように教会の一致を生きればよいのでしょうか。
その傷が自然に消えることはないと認めましょう。それを神様の前に差し出し、(ギルアデへ戻ったエフタのように)積極的に赦しを求め、復讐心や分裂の霊を拒んでください。教会における平和は、中心的な証しです。キリストが求めておられるのは愛であり、兄弟たちをふるい分けるような「シボレテ」ではありません。

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