マルコ9章:不信仰な世代にならないで

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はじめに

ローマにあるコイノニア教会のユースの礼拝は、ゲームから始まります。「信じやすさクイズ」です。本当か嘘か。日本のある島には、人間よりウサギのほうが多い。万里の長城は月から肉眼で見える。タコの心臓は三つある。いちばん多く間違えた人が「今日の信じやすい人」に選ばれます。

ゲームが終わると、アレッサンドロ・ムンガイ氏はそこから教訓を引き出します。「私たちは、人から示されたことには驚くほど信じやすく、簡単に影響されてしまいます。それなのに、神が語ろうとされること、神が私たちを通して現そうとされることには、とても疑い深いのです。」そして、マルコ9章14〜28節を開きます。口のきけない霊に苦しめられた息子をイエスのもとに連れて来た、父親の物語です。

そこから、離れるべき不信仰な人の三つの姿勢が語られます。教会に通っていても、生活のある部分では不信仰のままでいることがあるからです。

メッセージの流れ

1. 心にとめておきたい一節:地上に信仰が見られるだろうか

  • 物語に入る前に、説教者はWhatsAppのメッセージのように、ひとつの聖句を心に「ピン留め」しようと提案します。「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか。」(ルカ18:8)
  • この言葉を読むたびに、主のために今すぐ何かをしなければという内なる切迫感を覚えるそうです。イエスは再び来られます。そのとき備えができている者でありたいと願っています。
  • 「私たちは自分の人生の主人であるかのように思い込み、長期的な計画を立てます」。けれども、主は今夜戻られるかもしれませんし、明日、五年後、十年後かもしれません。それを知っているのは神だけです。
  • 備えるだけでなく、ほかの人も一緒に連れて行き、できるだけ多くの人に神のことを伝える責任が私たちにはあります。そのためには、不信仰な世代ではなく、「私は信じます」と宣言する世代でなければなりません。
  • 彼はジェレミー・キャンプの曲『There Will Be a Day』を引用します。いつか涙も恐れも重荷もなくなる日が来る。彼がいちばん心を打たれるのは「その日まで」という言葉、つまりその日まで、私たちはあなたにすがり続ける、というところです。

2. 物語:群衆、律法学者、弟子たち、そして一人の父親

  • イエスについて来る群衆がいます。律法と預言者を書き写す務めの律法学者たちがいます。彼らは聖書を研究するあまり、自分はメシアよりも知っていると思い込み、ただイエスを訴える口実を探していました。
  • 子どもを解放できなかった弟子たちがいます。おそらく人々に嘲られ、苦い思いをしていたでしょう。イエスは彼らに権威を授けていましたが、何ひとつ自分たちの功績によるものではないことを、まだ理解していませんでした。
  • そして、本当の主役である父親と息子がいます。聖書は、子どもの年齢も、その状態の原因も、母親がいたかどうかも語っていません。説教者は、これは自分の想像だと断ったうえで、この父親がたったひとりでその重荷を背負っていたのではないかと思い描きます。
  • マタイは、てんかんの発作に近い症状も記しています。「だからといって、今日てんかんを患っている人が憑かれているということではありません。はっきりさせておきましょう。」
  • 口のきけない霊という点は重要です。ユダヤの伝承では、霊を追い出すにはその名を知る必要があるとされていました。話すことのできない子どもを、どうやって解放するのでしょうか。

3. 不信仰な人は、神を最後の手段にする

  • この父親は、来る前におそらくあらゆることを試したでしょう。「人は神のもとに来る前に、人間的で地上的な解決策を探すことがとても多いのです。」
  • 問題にぶつかると、まず親に、友人に、配偶者に相談し、次に専門家に相談します。なかには、偽りの聖人のところへ行く人さえいます。そして失うものが何もなくなったとき、ぎりぎりになってようやく神に向かうのです。
  • サッカーのたとえです。監督は最高の選手を最後の4分まで取っておいたりせず、最初から出場させます。ところが私たちは主にこう言います。「試合に出てください。ただし、私の問題を全部解決するのに5分だけあげます。」
  • 説教者は、親も友人も配偶者も医者も否定しません。「私は病気になれば医者に行きます。」しかし、そのどれも主より先に来るべきではありません。「主は控えの選手ではありません。私たちの人生のレギュラーでなければならないのです。」
  • 神だけがいやせる傷があります。魂の傷は、どんな医者も、友人も、専門家も、人を癒すことも救うこともできません。それができるのはイエスだけです。
  • 混乱のただ中にイエスが来られます。自己紹介も、問題の理解も、悪霊の名を知ることも必要ありません。群衆をかき分けて、子どもを解放されます。あなたの頭の中に押し寄せている疑いと地上の解決策の群衆にも、同じようにしたいと願っておられます。

4. 不信仰な人は、信頼が足りない

  • 多くの人が、しばしば心から、神を信じていると言います。けれどもその言葉には、たいてい「でも」が続きます。「なぜこの世にはこんなに悪があるのか」「神がいるなら、なぜ私はそれを感じないのか」。言い換えれば、それは信頼の欠如です。
  • ピリポはナタナエルに、モーセが書いた方を見つけたと告げます。ナタナエルは答えます。「ナザレから何のよいものが出ようか。」(ヨハネ1:46)おそらく彼は、大都会から軍隊を率いて現れるメシアを期待していたのでしょう。
  • ピリポは「好きにしなさい」とは言いませんでした。彼はこう言いました。「来て、見るがよい。」イエスはナタナエルがいちじくの木の下にいるのを見たと言われ、ナタナエルは告白します。「先生、あなたは神の子です。」
  • 私たちも、ときどき最初のナタナエルのようになります。「そう、神はいる。でも、私の人生に本当にどんな良いことをしてくださるのか。もうずっと答えを待っているのに。」
  • それは、この父親の思いでもありました。「しかし、もしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」(マルコ9:22)。イエスはこの「もしできれば」という言葉に答えて言われます。信じる者には、どんな事でもできる、と(マルコ9:23)。
  • 神は全能で、すべてをご存じで、あなたを母の胎にいるときから知っておられ、あなたの髪の数さえ数えておられます。神に言うべき言葉は「もしできれば」ではなく「もし御心なら」です。それは必ず「はい」と答えてくださるという意味ではありませんが、神にはそれがおできになります。
  • 父親は叫びます。「信じます。不信仰なわたしを、お助けください。」(マルコ9:24)この信仰の告白のあとで、イエスは子どもを解放されました。「だれにもできなかったところで、主がそれをなさったのです。」

5. 不信仰な人は、何をどうすればよいか分からない

  • 律法学者たちは黙り込み、父親と息子は人生が永遠に変わるのを見ました。残ったのは、うちひしがれた弟子たちです。奇跡を喜ぶ代わりに、自分たちを通して起こらなかった奇跡のことを思い悩んでいます。奇跡に少し慣れすぎていたのかもしれません。
  • 彼らは尋ねます。「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか。」(マルコ9:28)イエスは、この種のものは祈りによらなければ追い出せない、と答えられました(マルコ9:29)。
  • 弟子たちは、魔法の呪文のようなものが使えると思っていました。しかし祈りは、神の心に近づけ、神と思いを一つにさせ、神に頼ることを教えてくれます。「私が祈るのは、イエスが祈られたからです。」イエスは毎日祈っておられました。
  • 聖書にはこうあります。「絶えず祈りなさい」「御霊を消してはいけない」(1テサロニケ5:17、19)。またイエスは、求め、探し、たたき続けなさいとも言われました(ルカ11:9)。
  • 私たちはすべてをすぐに求め、答えが遅れると、神に腹を立てて不信仰のままでいます。主は説教者に、数分のうちに、ときには即座に答えてくださったことが何度もあります。けれども、忍耐と時間と努力を求められる答えもあります。
  • 神が2秒で答えられないからではありません。待つ間に、私たちが成長するのです。祈りと聖書に時間を費やすほど信仰は育ち、ちょっとした風に倒れてしまう小さなクリスチャンではなくなります。

6. ゲツセマネ:変えられるまで祈る

  • 裏切られた夜、イエスはゲツセマネにおられました。自律訓練法をしたり、鏡の前で「おまえは強い、おまえは大きい」と自分に言い聞かせたりしたのではありません。今日のある種の理論はそう勧めますが。
  • イエスは苦しみもだえて、ますます熱心に祈られ、「その汗が血のしたたりのように地に落ち」ました(ルカ22:44)。その園を出たとき、イエスは以前よりも固い決意をもっておられました。父との交わりの中にいたからです。
  • それこそ、神があなたの人生で行える奇跡です。神と本気で時間を過ごすなら、長くたたき続けることになっても、あなたは変えられて出て来ます。
  • メッセージは祈りの時間で終わります。もう望みも力もなく、「あなたでさえ、もう何もできない」と言って扉を閉ざしてしまった場所で、イエスに心を開くのです。「あなたはひとりではありません。主は、あなたの頭の中にいるすべての疑いの群れを追い出したいと願っておられます。」

覚えておきたいポイント

  • 主は最後の手段ではなく、最初に頼る方であるべきです。最後の5分で出す控えではなく、レギュラーなのです。
  • 神がいると信じるだけでは足りません。不信仰とは、「はい、でも」の陰に隠れた信頼の欠如です。
  • 神に「もしできれば」と言うのはやめましょう。神にはおできになります。「もし御心なら」と言いましょう。
  • 「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」は、疑いを抱くとき、だれもが祈れる祈りです。
  • 祈り続けることでしか得られない答えがあり、信仰は待つ間に育ちます。

自分への問いかけ

  1. 今抱えている問題に対して、あなたは主をどこに置いていますか。最初からグラウンドの上ですか、それともベンチですか。
  2. 最近、神への信仰に「はい、でも」がついてきていませんか。
  3. どんな状況で「もしできれば」と祈りましたか。それを「もし御心なら」に言い換えるとどうなりますか。
  4. 答えが遅いからと、たたき続けるのをやめてしまった扉はありませんか。
  5. 今週、祈りと聖書の時間に具体的にどれだけ時間を取れますか。

引用された聖句

よくある質問

「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」とはどういう意味ですか。

マルコ9章24節にある、子どもの父親の叫びです。アレッサンドロ・ムンガイ氏にとって、これは神の働きを疑うときにだれもが口にできる信仰の告白です。自分の不信仰を認め、神にできることをもう疑わずにいられるよう、主に助けを求めることです。

なぜ神に「もしできれば」ではなく「もし御心なら」と言うのですか。

神は全能であり、働かれることに何の困難もないからです。ですから問題は、神にできるかどうかではなく、神が望まれるかどうかです。説教者は、これは神があなたの願いにすべて「はい」と答えてくださるという意味ではなく、神にはそれがおできになるということだと補足しています。

なぜ弟子たちはマルコ9章で霊を追い出せなかったのですか。

イエスは、この種のものは祈りによらなければ追い出せないと答えておられます(マルコ9:29)。アレッサンドロ・ムンガイ氏によれば、弟子たちは、奇跡は自分たちの功績や呪文から生まれるのではなく、父との親密な交わりから生まれることを理解していませんでした。その交わりが、神の心に近づけ、神に頼ることを教えてくれるのです。

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