はじめに
「世に影響される」ことと「世に影響を与える」こと、この二つの違いはたった一言なのに、向かう方向はまったく逆です。ニース・ラリアーヌ教会の牧師サミュエル・マブーが、ローマ人への手紙12章2節から取り上げるのはこのテーマです。「あなたがたはこの世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心の一新によって自分を変えなさい。そうすれば、何が神のみこころで、何が良いことで、神に喜ばれることで、完全なことであるかを、わきまえ知るようになります。」「調子を合わせる」という言葉は「型にはめられる」という意味です。この説教が問いかけているのは軽い話ではありません。今あなたを形づくっているのは、キリストでしょうか、それともこの世でしょうか。牧師自身、「この説教は少し痛いところを突きます」と前置きしています。しかしそれは、神があなたを置かれた場所で再び塩となり光となるためです。
メッセージの構成
1. この世は私たちの生活に絶えず影響を与えている
- 私たちは天にいるのではなく、また閉ざされた共同体で生きているのでもありません。この世に組み込まれて生きています。それ自体は良いことです。
- しかし聖書は「全世界は悪い者の支配下にある」と言い、コリント人への手紙第二4章4節は悪魔を「この世の神」と呼び、それが人の心を暗くして福音の栄光の輝きを見えなくすると教えています。
- この影響は、学校を通して、メディアを通して、身の回りの文化を通して、幼い頃から罪を当たり前のものへと変えていきます。
- イザヤ書5章20節。「悪を善、善を悪と言い、闇を光とし、光を闇とする者たちに、わざわいあれ。」
2. すべてが変わっていく世の中で、変わらない神
- 法律は変わり、人々の考え方も変わり、悪だったものが「善」になり、その逆も起こります。人間は揺れ動くものです。
- しかし神ご自身は変わりません。「父には移り変わりや、移り行く影はありません」(ヤコブの手紙1章17節)。
- 2000年前に罪であったものは、今日も罪のままです。良かったものは、今も良いままです。罪という基準は変わりません。
- この神の変わらなさこそ、私たちが人生をかけて立つことのできる岩なのです。
3. この世と教会、混ざり合わない二つの所属
- ヤコブの手紙4章4節。「不真実な者たちよ、世を愛することは神に敵することだと知らないのですか。世の友となろうと思う者は、自分を神の敵としているのです。」
- この世はこの世の君に属し、真の教会は神に属します。基準を下げるとき、この境界線は曖昧になっていきます。
- 「隠れクリスチャン」がますます増えています。職場でも家族の中でも、何の違いも見えないので、誰もあなたがクリスチャンだとは気づきません。
- これは高慢になれという呼びかけではありません。私たちは他の誰よりも優れていたわけではなく、むしろ多くの場合、それ以上でした。けれど、ある時、私たちは分けられたのです。
4. 塩と光:隠しようのない使命
- マタイの福音書5章13節から16節。「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょう。」
- 「あなたがたは世界の光です。山の上にある町は隠れることができません。」
- もう輝かなくなったクリスチャンは、照らすべきだったこの世にとって、もはや役に立ちません。
- イエスはクリスチャンを作れとは言われませんでした。弟子を作れと言われたのです(マタイの福音書28章19節)。教会に来るだけでは足りません。
5. 聖化を少しずつ削っていく、具体的な妥協
- 離婚について。聖書が示す唯一の理由は不貞です。神は今も夫婦や家族を回復させる神です。
- 中絶について。受精の瞬間からいのちがあります。それは神がいのちを与えられるからです。避妊の手段ではありませんし、そこには深い傷が残りますが、神は回復させてくださいます。
- お酒について。食事の席で一杯飲むこと自体は罪ではありませんが、酔うことを当たり前のように扱ったり、笑いのネタにしたり、真似したりすることは、家庭を壊すものへの扉を開くことになります。
- 服装と性について。自分の体と相手の体を大切にし、結婚まで自分を守り、結婚という私的な領域に属するものを外に見せないこと。
- 言葉について。下品な冗談、絶え間ない批判、あざけり。「悪い交わりは良い習慣を腐らせる」(コリント人への手紙第一15章33節)。
6. 遠くからでは勝てない霊的な戦い
- エペソ人への手紙6章12節。私たちが戦っているのは血肉に対してではなく、天にいる支配、権威、この暗闇の世の力に対してです。
- 戦いは激しさを増しているのに、私たちの教会はこれまでになく祈らなくなっています。賛美の夕べは満員でも、水曜日の祈祷会は空いていきます。
- 不安をあおるニュース番組を消し、賛美を流し、再びひざまずき、自分の国、自分の町、自分の上に立つ権威のために、批判する代わりに祈ること。
- 聖書のために「時間がない」と言いながら、SNSのための時間は見つかっている。バランスを取り戻すのは私たち次第です。
7. 見下さずに離れる:その中から出て、すべての人を迎え入れる
- コリント人への手紙第二6章14節から18節。「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。……だから、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。」
- 離れるとは、裁くことでも、自分の方が優れていると思うことでもありません。本当の意味でキリストに属するために、自分を分けることです。
- それと同時に、罪の中にいる人たちに、それがどんな人であっても、教会の扉を大きく開くこと。教会はその人たちのためにあります。そこで彼らが出会うのは裁きではなく、いのちを与えてくださった父の愛です。
- あとは聖霊が働いてくださいます。心に触れ、変え、新しく造られた者としてくださるのです。
心に留めておきたいこと
- 「調子を合わせる」とは「型にはめられる」ということです。問題はあなたが影響を受けているかどうかではなく、誰から影響を受けているかです。キリストでしょうか、この世でしょうか。
- 神は変わりません。昨日の罪は、たとえ法律や流行がそれを別の名で呼んだとしても、今日も罪のままです。
- 「隠れクリスチャン」は弟子ではありません。名ばかりのクリスチャンです。違いは、言葉、選択、服装の中に見えるはずのものです。
- 離婚、中絶、お酒、結婚前の性関係、職場での冗談について基準を下げることは、塩から塩気を失わせることです。
- 戦いはまず霊的なものです。個人としても、共同体としても、日々の祈りの生活がなければ、この世の影響に抵抗できる見込みはありません。
- この世から離れることと、すべての罪人を愛することは矛盾しません。キリストはその両方を同時になさいます。そして、ご自分の教会にもそれを求めておられます。
あなた自身への適用
- この24時間、あなたを最も形づくったのは何でしょうか。神の言葉と祈りでしょうか、それともSNS、ニュース番組、同僚たちでしょうか。正直に振り返ってみてください。
- 言葉、見た目、お金、性、余暇の過ごし方など、あなたがなりたいと願う弟子の姿よりも、この世の姿に自分を重ねてしまっている領域はありませんか。
- 職場、親戚の集まり、SNSなど、あなたが「隠れクリスチャン」になっている場所はありませんか。今週、傲慢にならずに信仰を目に見える形にできることは何でしょうか。
- 最後に、自分の国、自分の町、上に立つ権威のために、批判する代わりに祈ったのはいつでしたか。今週、そのための具体的な時間を取ってみてください。
- いつの間にか手放してしまった祈祷会や、神と過ごす定期的な時間はありませんか。今週から取り戻せる、簡単な「はい」は何でしょうか。
引用された聖句
- ローマ 12:2 - この世と調子を合わせてはいけません
- コリント第二 4:4 - この世の神が人の心を暗くする
- イザヤ 5:20 - 悪を善と言う者たちに、わざわいあれ
- ヤコブ 1:17 - 父には移り変わりや移り行く影はない
- ヤコブ 4:4 - 世を愛することは神に敵すること
- マタイ 5:13-16 - あなたがたは地の塩、世界の光です
- マタイ 28:19 - すべての国民を弟子としなさい
- エペソ 6:12 - 支配、権威、この暗闇の世の力に対して
- コリント第一 15:33 - 悪い交わりは良い習慣を腐らせる
- コリント第二 6:14-18 - 彼らの中から出て行き、分離しなさい
よくある質問
ローマ人への手紙12章2節の「この世と調子を合わせてはいけません」とは、具体的にどういう意味ですか。
ローマ人への手紙12章2節の「調子を合わせる」という言葉は、「型にはめられる」という意味です。サミュエル・マブー牧師はこう語ります。ますます多くのクリスチャンが、キリストによってではなく、社会によって型にはめられるようになっている、と。この世と調子を合わせないとは、身の回りの考え方や流行、時代の許容範囲を、自分の思いと生き方を形づくる型にしてしまうことを拒むことです。陶器師の手ではなく、この世の手に委ねられた粘土のままではなく、しなやかな粘土であり続けることなのです。
この世から退かずに、「地の塩」「世界の光」であるにはどうすればよいですか。
私たちは、一部の閉ざされた共同体のように、外の世界と隔絶して生きるように召されているわけではありません。仕事をし、学校へ行き、まだクリスチャンでない人たちと日々関わります。それ自体は良いことです。しかしイエスはこう言われます。もし塩が塩気をなくしたら、それはもはや何の役にも立たない、と(マタイの福音書5章13節)。塩と光であるとは、言葉や服装、余暇の過ごし方、選択の中に目に見える違いを保ちながら、まだキリストを知らない人たちを本当に愛することです。職場や家庭で「隠れクリスチャン」でいることは、弟子であることではありません。それはただ、教会に来ている人にすぎません。
自分が本当にキリストの弟子なのか、それとも単に教会に来ているだけなのか、どうすればわかりますか。
イエスはクリスチャンを作れとは言われませんでした。弟子を作れと言われたのです。教会に来ることは、あなたを弟子にするわけではありません。それは、あなたを「教会に来ている人」にするだけです。本当の弟子とは、自分の罪の赦しを求めた人、御言葉に従って歩む人、家族と共に祈る人、主の前にひざまずく人、自分の罪にもはや無関心でいられない人のことです。牧師であっても、あなたに代わってあなたがそうであるかどうかを言うことはできません。一人ひとりが、神の御言葉の前で自分自身を吟味するのです。
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