ネヘミヤ記9章:喜びへと導く悲しみ

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はじめに

有名な考古学者と一緒に、エルサレムの旧市街を見学しているところを想像してみてください。考古学者はあなたをトンネルへ案内し、いくつかの石を動かして秘密の部屋を見つけます。すると壁の中に、隠された巻物がありました。彼はそれを調べて言います。「この巻物は2500年前のものです。皆さんのために翻訳できると思います」。それは、毎週教会で祈っているのと同じ神への祈りでした。

シドニーのヴァイン教会サリーヒルズ(Vine Church Surry Hills)の一員であるアル・スチュワート(Al Stewart)は、「ネヘミヤ:立ち上がって建て直そう」というシリーズのこのメッセージを、このように始めます。その巻物は、すでにあなたの手の中にあると彼は語ります。それがネヘミヤ記9章です。ホメロスの『オデュッセイア』とほぼ同じくらい古い書物ですが、違いがあります。『オデュッセイア』は作り話であり、「これは本当に起こったこと」なのです。

説教者はこの祈りを全文朗読し(8分かかります)、そこから三つのシンプルなポイントを引き出します。罪は悲しみをもたらすこと、神のご性質、そして喜びへと導く悲しみです。

メッセージの流れ

1. 背景:城壁の再建、そして民の再建

  • 紀元前605年から590年にかけて、三度の侵攻により、バビロンの王ネブカデネザルはエルサレムを破壊し、住民の多くをバビロンへ連れ去りました。アル・スチュワートは、自分たちの世界がすべて壊されるのを見た人々の心の傷を想像するよう促します。
  • 約70年後の紀元前539年、ペルシャ人がバビロンを征服しました。キュロス王は、自分のために祈ることを条件に、ユダヤ人がエルサレムに帰ることを許可しました。帰った人もいれば、残った人もいました。
  • それからおよそ一世紀近くたっても、町は廃墟のままでした。紀元前458年、書記官エズラ、「いわば聖書の教師」が戻ってきて、モーセの律法を教えました。その13年後、アルタクセルクセス王の献酌官ネヘミヤが、王の資源を用いて城壁を再建する許可を得ました。
  • 紀元前445年、城壁は52日で完成します(ネヘミヤ記6章15節)。旧約聖書では、エルサレムは神の町です。イエスが来られてからは、神の国はもはや地理的な場所ではなく、イエスを王として愛する人々の心の中に、イエスが治めておられる場所です。
  • そこから、もっと大切な仕事が始まります。神の民と、神との関係を建て直すことです。モーセからネヘミヤまでは千年の隔たりがあり、民は律法の理解を失っていました。誰も巻物を持っておらず、人々は集まって御言葉の朗読を聞きました。こうしてエズラは朝から正午まで律法を読み(ネヘミヤ記8章2-3節)、彼が読んだものは、あなたの聖書にも載っています。モーセの五書です。

2. 歴史全体を貫く祈り

  • 三週間後、同じ月の24日に、民は断食して集まり、荒布をまとい、頭に土をかぶっていました。一日の四分の一は律法の朗読に、もう四分の一は罪の告白と礼拝に費やされました。レビ人たちは叫びます。「立ちあがって永遠から永遠にいますあなたがたの神、主をほめなさい」(ネヘミヤ記9章5節)。
  • この祈りは、天地創造からおよそ1600年の歴史にわたります。創造主なる神(6節)、アブラハムの召命(7、8節)、エジプトからの脱出とシナイ山(9節から15節)、荒野での反逆(16節から21節)、約束の地への入国(22節から25節)、士師の時代(26節から28節)、エルサレム陥落までの王たちの時代(29節から35節)、そして捕囚からの帰還です。
  • 「細かいところが全部わからなくても心配しないでください」。説教者は会衆に、耳と心で聞いて、この祈りの精神をつかむよう呼びかけます。

3. 罪は悲しみをもたらす

  • 「この祈りからは、悲しみがにじみ出ているのが感じられます」。36節で民はこう言います。「われわれは今日奴隷です」。彼らは自分たちの土地で、ペルシャの王たちに支配され、税を納めています。
  • 告白は失敗をはっきり言い表します。先祖たちは「ごうまんにふるまい、かたくなで」ありました(16節)。うなじをこわくするとは、頭を正しい方向に向けようとすると抵抗する馬やロバの姿です。彼らは律法に背を向け、預言者たちを殺し(26節)、神の大きな恵みを味わいながらも神に仕えませんでした(34、35節)。
  • 問題の根本はこうです。彼らは、神が善い方であり、自分たちにとって最善を望んでおられることも、神が知恵ある方であり、何が最善かを知っておられることも、信じなかったのです。「結局それは、神が悪者か愚か者、あるいはその両方だと言っているのと同じです」。
  • 彼らは完全な愚か者だったのでしょうか。「今日の人々と変わりません」。彼らは周囲の文化と、その豊穣の神々に誘惑されました。その神々は、官能、自由、支配、健康、富、すばらしい人生を約束しました。「どこかで聞いたことがありませんか」。それは偽りであり、奴隷状態と悲しみに行き着きました。
  • 彼らの最大の悲しみは、町が廃墟になったことではありません。神の栄誉を汚し、神を傷つけ、神にふさわしい扱いをしなかったことです。

4. 神のご性質

  • この祈りは神の姿を描き出します。神はすべてのものにいのちを与え(6節)、正しい方であるがゆえに約束を守り(8節)、力強く海を分け(11節)、そのおきては正しく、戒めは良いものです(13節)。
  • 神は「罪をゆるす神、恵みあり、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊か」な方です(17節)。惜しみなく与える方で、神の民は「あなたの大いなる恵みによって楽しみました」(25節)。
  • しかし、神の忍耐にも限りがあります。「果てしない忍耐は、無関心と同じです」。神は長い年月、ご自分の霊と預言者たちによって民に警告し、その後、周囲の民の手に渡されました(30節)。そしてそのすべてにおいて、神は正しく、真実であり続けられました(33節)。
  • 「このような神を、どうして信頼せずにいられるでしょうか」。そして説教者はこう付け加えます。「私はこうしたことをすべて神について信じていますが、悲しいことに、しばしば神を無視してしまいます」。

5. 罪、避けられがちな言葉

  • 罪について語ることは、今は流行りません。多くの教会やキリスト教の教師は、罪のことを決して口にしません。「彼らはイエスを人生のコーチにしたいのです」。けれども、イエスは何度も罪に対して警告されました。世間では、この言葉は笑いを誘います。ちょっとした後ろめたい楽しみ、あるいはスポーツの試合での一時退場といった具合です。
  • 突き詰めれば、罪を犯すとは、神を無視して自分のルールを作ることです。創世記3章から、蛇は偽りをささやきます。神はあなたに何かを隠している、神は善い方でも知恵ある方でもない、従わなければあなたは自分自身の小さな神になれる、と。「そして、それは涙で終わりました」。
  • ローマ人への手紙1章と2章によれば、神はご自分の律法を人の心に記されました。黄金律が正しいことは、誰もが知っています。人にしてもらいたいように、人にしなさい、という教えです。アル・スチュワートによれば、討論で最も手ごわい無神論者であるクリストファー・ヒッチェンズ(Christopher Hitchens)でさえ、著書『神は偉大ではない』の中でそう書いています。この簡潔で理にかなった規則は、どんな子どもにも教えることができ、「どんな無神論者にも手の届くもの」だというのです。
  • 彼の言うとおりです。では、なぜ私たちはそれを実践しないのでしょうか。ニュースサイトを開くだけでわかります。戦争、汚職、貪欲、暴力、そして互いに口をきかなくなった家族に至るまで。罪は悲しみをもたらします。
  • それどころか、事態はもっと深刻です。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ人への手紙6章23節)。これが私たちの稼いだものです。罪は、いのちの源である神から私たちを引き離し、やがては私たちの裁き主から永遠に引き離すことになります。イエスはそれを地獄と呼び、何度も繰り返しそのことを告げられました。
  • クリスチャンであっても、神を無視することを選ぶたびに、悲しみがついてきます。うわさ話を広める、毒だと知りながら画面で見てしまう、愛する人にそっけなく自分勝手に接してしまう。すると悲しみがすぐ後ろからやってきます。もっと重い罪は、さらに長い影を引きずります。パウロはこう書いています。「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである」(エペソ人への手紙4章30節)。

6. 悲しみの人と、二つの悲しみ

  • ただひとりだけ、罪の悲しみを味わう理由のない方がおられました。いつも神を信頼しておられたからです。それでもイザヤ書53章は、その方を「悲しみの人」と呼びます。私たちの悲しみを担われたからです。
  • ゲツセマネで、イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネにこう言われます。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」(マタイの福音書26章38節)。翌日、イエスは私たちの悲しみと罪責を負い、ゆるしの代価を払うために十字架で死なれました。そしてその向こう側には、復活の喜びがあります。
  • コリントの教会への厳しい手紙の後、パウロはこう書いています。「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」(コリント人への手紙第二7章10節)。
  • この世の悲しみはこう言います。痛いのが残念だ、捕まったのが残念だ、何もかもめちゃくちゃになったのが残念だ、と。「それは行き止まりです」。神のみこころに添った悲しみは、私たちを引き返させ、神のもとへ連れ戻してゆるしを求めさせ、「その先にはいのちがあります」。
  • それが祈りの終わりに起こることです。「このもろもろの事のためにわれわれは堅い契約を結んで、これを記録し」(ネヘミヤ記9章38節)。彼らの悲しみが、神を信頼するために彼らを神のもとへ連れ戻したのです。
  • 悔い改めとは、憐れみ深く恵み深い神が私たちをゆるしてくださるということに「すべてを賭ける」ことです。そして、神がなぜゆるしてくださるのかを、私たちは紀元前445年の民よりもよく知っています。「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」(ローマ人への手紙6章23節)。
  • まだイエスに従っていない人たちに、アル・スチュワートはこう語ります。多くの人は、クリスチャンは罪責感と悲しみを売る商売をしていると思っています。「違います。人は私たちがいなくても、罪責感や悲しみを十分に生み出せます。クリスチャンが扱っているのは、ゆるしと喜びです」。

7. イエスにすべてを賭ける

  • 説教者は、オーストラリアのクリスチャンシンガー、コリン・ブキャナン(Colin Buchanan)の歌『Real Hope』を引用します。自分自身の罪について歌っている歌は、彼の知るかぎりこれだけだそうです。「僕には本当の恐れがあり、本当の罪を犯し、大切な人を傷つけてしまう」。そしてサビはこうです。「僕は持っているものすべてをイエスに賭ける、イエスに身を投げ出す、本当の罪のために本当に死んでくださった方に」。
  • そして問いかけます。あなたの人生に、神にゆるしを求めるべきことはありませんか。それはわかるはずです。あなたを悲しくさせるからです。「あなたを悲しくさせるものがすべて罪というわけではありません。でも、罪はあなたを悲しくさせます。それは保証します」。
  • 彼は、一人ひとりがこうしたことを神のもとへ持っていくよう招きます。「それが初めてであっても、千回目であっても」。神はゆるすと約束してくださいますが、大切なのは悔い改めることです。それらのことから離れ、神に向き直り、変わりたいと願うことです。
  • メッセージは、英国国教会の祈祷書にある告白の祈りで締めくくられます。「全能にして憐れみ深い父よ、私たちは迷える羊のようにあなたの道から迷い出ました。[...] 私たちは、なすべきことをせず、してはならないことをしてしまいました」。そして、この確信が語られます。「神があなたの祈りを聞いてくださったことを、確かに知ってください」。

この記事のポイント

  • ネヘミヤ記9章は、イスラエルの歴史全体を振り返る告白の祈りです。一方には民の不誠実があり、もう一方には神の真実があります。
  • 罪は、神が善であり知恵ある方だと信じなくなったときに始まります。罪は自由を約束しながら、奴隷状態と悲しみに行き着きます。
  • 神は憐れみ深く、怒ることおそく、いつくしみ豊かな方ですが、その忍耐は無関心ではありません。
  • この世の悲しみは行き止まりです。神のみこころに添った悲しみは、私たちを神のもとへ連れ戻し、いのちへと導きます。
  • 悲しみの人であるイエスは、十字架で私たちの悲しみを担われました。悔い改めとは、イエスにすべてを賭けることです。

自分への問いかけ

  1. あなたの人生に、神の栄誉を汚すと知っているために悲しくなることはありませんか。
  2. どんな分野で、神が善い方であり、あなたにとって何が最善かを知っておられると信じるのが難しいですか。
  3. 「ごめんなさい」と言うとき、それはこの世の悲しみ(「捕まって残念だ」)ですか。それとも、あなたを神のもとへ立ち返らせる、神のみこころに添った悲しみですか。
  4. 「影の短い」罪(うわさ話、画面、そっけない言葉)のうち、いつの間にか当たり前だと思うようになったものは何ですか。
  5. 今週、あなたにとって「イエスにすべてを賭ける」とは、どういうことでしょうか。

引用した聖句

よくある質問

ネヘミヤ記9章では何が起こりますか。

モーセの律法が朗読されてから三週間後、民は断食して集まり、荒布をまとい、頭に土をかぶっています。レビ人たちは、創造から捕囚からの帰還まで、イスラエルの歴史全体をたどる長い告白の祈りをささげ、文書にして印を押した誓約で終わります。

なぜ罪は悲しみをもたらすのですか。

アル・スチュワートによれば、罪とは、神を無視して自分のルールを作ることであり、まるで神が善い方でも知恵ある方でもないかのように振る舞うことです。罪は世の中にも、私たちの人間関係にも苦しみを生み、聖霊を悲しませ、ローマ人への手紙6章23節にあるように、その報酬は死です。

神のみこころに添った悲しみと、この世の悲しみは何が違うのですか。

コリント人への手紙第二7章10節によれば、この世の悲しみは「痛いのが残念だ」「捕まったのが残念だ」と言うだけで、行き止まりです。神のみこころに添った悲しみは、私たちを引き返させ、ゆるしを求めて神のもとへ連れ戻し、悔いのない救いに至る悔い改めを生み出します。

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