赦して自由になる

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はじめに

私たちは誰もが、いつかどこかで傷を負った経験があります。ふとした思い出や、一つの考え、一枚の映像だけで、もう塞がったと思っていた古い傷がまた痛み出すことがあります。そして、私たちは被害者であるだけではありません。私たち自身もまた誰かに悪いことをし、誰かを傷つけてきました。そこで問いが生まれます。受けた悪と、自分がなした悪の両方から解放されるには、どうすればよいのでしょうか。コロサイ人への手紙は、それをたった一行でこう答えています。「互いに忍び合い、だれかがだれかに対して不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも赦し合いなさい」(コロサイ3:13)。レオボト・イタリアで語られた「愛に根ざして #grounded」シリーズのこのメッセージは、赦しがまず何よりも、あなた自身のための自由の行為であることを示してくれます。

メッセージの構成

1. 赦すことは、恵みに応えることであって、恵みを勝ち取ることではない

  • パウロは、大部分が異邦人からの改宗者で形成されたコロサイの教会に手紙を書いています。この教会は教理の混乱の時期を通っていました。誤った教え、人間的な理論、そしてユダヤ教の名残が、まだあちこちに残っていたのです。
  • 律法は赦しについて何と言っているでしょうか。あなたが赦すなら、神様もあなたを赦してくださる。あなたが赦さないなら、神様もあなたを赦してくださらない。律法によれば、まず一歩を踏み出すのは人間であり、神様はそれに応じてくださるのです。
  • 恵みは何と言っているでしょうか。「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも赦し合いなさい」。まず一歩を踏み出すのは神様です。神様が赦してくださる方であり、人間はそれに応えるのです。
  • 今日もなお、多くの人が福音の真理とは無関係な哲学、理論、宗教を追い求めています。パウロのメッセージは変わらず力を持っています。互いに忍び合い、互いに寛容であり、互いに赦し合いなさい。なぜなら神様が、見返りを何も求めることなく、無償であなたがたにそうしてくださったからです。

2. 赦しは、あなたを牢獄から連れ出す自由の行為である

  • 「赦し」という言葉は、文字どおりには「手放す」「行かせる」「解き放つ」という意味です。それは忘れることではありませんし、何も起きなかったふりをすることでもありません。悪を正当化することでも、過去を消し去ることでもありません。
  • 赦しは恨みの鎖を断ち切り、憎しみや怒り、復讐したいという思いから心を解放します。自分が牢獄の中にいると想像し、そこから出て再び自由になることを決意する。それが赦しです。
  • 赦さないことを選ぶとき、あなたはその牢獄の中にとどまり続けます。しかもそこには、あなただけではありません。あなたを傷つけた人も、頭の中で、昼も夜もあなたと一緒にそこにいるのです。その一方で、相手はすでに忘れて、自分の人生を歩み続けているかもしれません。あなただけが、「今度こそ仕返しをしよう、言いたいことを全部言ってやろう」と考え続けているのです。
  • 時が経つにつれ、この牢獄はあなたを蝕んでいきます。それは苦味の道へとあなたを導きます。それは単なる悲しみや痛みではなく、深く刺すような、内側を掘り進んでいくような苦しみなのです。

3. 苦味の根に気をつけて

  • 「だれも神の恵みから落後することのないように、また苦い根が生えて悩ましたり、それによって多くの人が汚されたりすることのないように、気を配りなさい」(ヘブル12:15)。
  • 苦味は毒を持った根です。それが根を下ろすと、深く沈み込み、抜き取ることがとても難しくなります。それは魂を蝕み、内側から食い荒らし、人を分断し、平和を壊し、関係を破壊します。
  • この「多くの人」とは誰のことでしょうか。この節はこう答えています。「神の恵みから落後する」人々、すなわち神様の愛も赦しも経験したことのない人々です。彼らは赦すことがより難しく、そして人を傷つけることをより簡単にしてしまいます。
  • 痛みがあまりに強いとき、唯一できる答えは、まっすぐに神様のもとに行くことです。自分一人ではどうにもならないこと、傷があまりに深いことを、誠実に神様に告白しましょう。そこから聖霊が働き始めます。日ごとに、痛みが神様の平安に取って代わられるまで。

4. 七度を七十倍するまで赦す:つまり、いつも赦し続けるということ

  • ある日、ペテロは兄弟間の赦しについてのイエス様の教えを聞いたあと、イエス様のもとにやって来ます。彼はこう質問します。「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか」(マタイ18:21)。
  • 当時のラビの伝統的な教えでは、三回までは赦す義務がありました。それ以上は、義務とはされていませんでした。ペテロは七回まで引き上げることで、体裁よく見せようとしていたのでしょう。おそらく肩をたたかれて褒められることを期待していたはずです。
  • イエス様は、その予想を裏切られます。「あなたに言います。七回までではなく、七回を七十倍するまでです」(マタイ18:22)。つまり490回です。ペテロが数え始め、やがて数えきれなくなる様子を想像してみてください。それこそが目的なのです。人生において、赦す回数を数えることなどできないのです。
  • それなら、この「七度を七十倍するまで」という教えを知っていながら、なぜ私たちはこれほど赦すことが苦手なのでしょうか。まず一つには高慢があります。そしてもう一つには、本当に難しく複雑な状況があり、それには時間と、心の中で働く神様の恵みが必要だからです。
  • 小さなことにも目を向けてみましょう。兄弟姉妹の間で、何週間も、何か月も、何年も口をきかなくなることがあります。夫婦の間でも、心を閉ざしてしまうことがあります。職場や教会でも、挨拶を返してもらえなかった、感謝の言葉がなかったというだけで、「よし、今度はもう挨拶しないでおこう」と思ってしまう。ほんの些細なことで、私たちは頑なになってしまうのです。

5. 情け容赦のないしもべのたとえ:自分の負債を測る

  • なぜ私たちがこれほど赦せないのかを説明するために、イエス様はあるたとえ話をされます(マタイ18:23-35)。ある王が清算をしようとしていました。一人のしもべが王に一万タラント、現在の価値に換算すればおよそ2億2000万に相当する、途方もない金額を借りていました。
  • 王は、そのしもべを妻や子どもたち、家族全員、そして持ち物すべてとともに売り払うよう命じます。しもべは王の足もとにひれ伏し、懇願します。哀れに思った王は、その負債をすべて帳消しにしてやりました。
  • ところがそのしもべは、そこを出るとすぐに、自分に百デナリ、今の価値でおよそ9000ユーロに相当する、決して軽くはないけれど返せない額ではない借金を持つ仲間に出会います。彼はその仲間の首を絞めんばかりにつかみ、今すぐ全額返すようにと迫ります。
  • 仲間は懇願します。「もう少し待ってくれ、必ず全部返す」。しかし、しもべはそれを拒み、彼を牢に入れてしまいます。あまり賢明な判断とは言えません。牢の中にいて、どうやって返済できるというのでしょうか。
  • この様子を見ていた人々は憤り、心を痛めました。これは私たちにも考えさせられることです。周りの人々は私たちの振る舞いを見ており、時にそれは驚くほど矛盾したものに映っているのです。
  • 王はそのしもべを呼び出します。「悪いしもべだ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債を全部帳消しにしてやったのだ。私がおまえをあわれんだように、おまえも自分の仲間をあわれむべきではなかったか」(マタイ18:32-33)。
  • ここから私たちへの教えが見えてきます。私たちは皆、到底払いきれない罪の負債を抱えていました。誰一人としてそれを清算することはできませんでした。イエス様が私たちの代わりに来てくださり、十字架へと進み、私たちのために死んでくださり、その負債のすべてを払ってくださったのです。私たちは惜しみなく、無償で、完全に赦されました。神様が私たちにしてくださったように、私たちもまた他の人にしなければならないのです。

6. 「彼らは何をしているのかわからないのです」:十字架でのイエス様の動機

  • 十字架の上で、イエス様は敵意に満ちた群衆を目の前にしておられました。人々はイエス様をののしり、あざけりました。「もしおまえがキリストなら、十字架から降りて自分を救ってみろ。もしおまえがイスラエルの王なら、自分自身を救ってみろ」。聞くに耐えないほど、辛辣な言葉でした。
  • それでもイエス様はこう言われました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)。呪うこともできたはずです。しかしイエス様は呪いませんでした。父なる神様に赦しを願い、そしてその理由まで語られたのです。
  • その人々は、自分が何をしているか分かっていたのでしょうか。もちろんです。彼らは一人の人間を十字架に釘打っていたのです。彼らが分かっていなかったのは、その十字架の上に「誰」がいるのかということでした。すなわち、イエス様、恵みそのもの、私たちの救い主だということです。
  • イエス様は、その群衆を血に飢えた殺人者の集団としては見ておられませんでした。むしろ彼らを、罪と欺きの犠牲者として、羊飼いのいない羊、迷える羊として見ておられたのです。
  • このことに目を向けるなら、あなたもまた、赦すための理由を見つけることができます。故意にであれ、そうでないにせよ、あなたを傷つける人たちは、自分があなたに悪いことをしていると分かっているでしょうか。多くの場合、その答えはイエスです。しかし、彼らが分かっていないことは何でしょうか。それは神様の愛です。彼らは神様の恵みも赦しも、一度も経験したことがないのです。
  • この「彼らは分かっていない」という言葉は、「かわいそうに、彼らは何も分かっていないのだから」という意味ではありません。これはあなた自身のためのものです。あなたが自由であり続けるため、憎しみや恨み、怒りや侮辱の中に閉じ込められたままにならないためのものなのです。

7. 赦され、和解する:新しい性質が結ぶ実

  • 回心する前、私たちはこう思いがちです。「自分はまともな人間だ」。ちょっとした嘘や、ちょっとしたこと、その程度で、大したことはしていない、と。実際、称賛に値する人々にも出会います。ボランティア活動をし、寛大で、災害のときには現場に駆けつける。そうした人々が人生において報われることは確かにあるでしょう。
  • しかし御言葉は別のことを教えています。神様が私たちを赦してくださった罪とは、何よりもまず、神様からの断絶のことです。アダムの性質がこの世界に入り込んだとき、それは人間を神様から引き離しました。そして人間が神様から引き離されるとき、人は罪を犯すのです。
  • 肉の行いはガラテヤ人への手紙5章に列挙されています。姦淫、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂。長いリストです。
  • しかしパウロはローマ人たちに、私たちは罪に対して死んだのだと語ります。そしてコロサイ人たちには、こう語ります。「キリストは、支配と権威の武装を解除し、十字架によって凱旋の行進をし、諸霊をさらしものとされました」(コロサイ2:15)。イエス様は、それらの霊から、私たちに対する権威と支配力を奪い取ってくださったのです。
  • もはや罪はあなたに対して力を持ちません。なぜならイエス様が完全な業を成し遂げ、あなたを神様と和解させてくださったからです。「そればかりでなく、私たちの主イエス・キリストによって、今すでに和解を得ている私たちは、神を喜んでいます」(ローマ5:11)。
  • そして今、あなたはどんな実を結んでいるでしょうか。御霊の実です。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)。
  • 赦しは福音の細部の一つではありません。それは福音の核心であり、本質そのものです。神様の赦しは、人間が変わる「前に」やって来ました。イエス様は十字架の「上で」赦されたのであって、その後ではないのです。

覚えておきたいポイント

  1. 赦しは自由の行為です。この言葉は手放す、解き放つという意味です。赦すことによって牢獄から出るのは、あなた自身なのです。
  2. まず一歩を踏み出すのは神様です。恵みの下では、赦されるために赦すのではなく、すでに赦されたからこそ赦すのです。
  3. 苦味の根に気をつけましょう。それはすぐに深く根を張り、抜き取ることがとても難しく、平和と関係を破壊します。
  4. 赦しの本当の数、それは「いつも」です。イエス様の「七回の七十倍」とは、人生において、もう数えなくなるということを意味します。
  5. あなたの負債はすべて帳消しにされました。神様があなたに免除してくださった2億2000万に比べれば、あなたの兄弟があなたに負っている9000ユーロなど、あなたが代わりに帳消しにしてあげるべき小さな負債にすぎません。
  6. 「彼らは分かっていない」、これがあなたが自由であり続けるための理由です。あなたを傷つける人たちは、多くの場合、神様の恵みを一度も味わったことがないのです。

あなた自身への適用

  1. 今、顔や名前を思い出すだけで、古い痛みがよみがえってくる人はいませんか。今日、その人の名前を神様の前で挙げることができますか。
  2. あなたはどんな事柄について、まだ「恵みの下」ではなく「律法の下」で生きていますか。すでに受け取ったから赦すのではなく、赦すことで何かを勝ち取ろうとしてはいませんか。
  3. 家族、夫婦関係、教会の中で、ちょっとした些細なことのために、もう誰かと話さなくなっている関係はありませんか。今週、あなたにできることは何でしょうか。
  4. 誠実に神様にこう告白する準備はできていますか。「主よ、私は一人ではどうにもできません。痛みがあまりに強いのです。私の心の中で働いてください」と。
  5. あなたを傷つけたその人を、敵としてではなく、迷える羊として見ることはできますか。それは、その人がしたことを正当化するためではなく、あなた自身が自由になるためです。

引用された聖句

FAQ

なぜ赦しは自由の行為なのですか。

「赦し」という言葉は、文字どおりには手放す、行かせる、解き放つという意味です。赦すことを拒むのは、あなたを傷つけた人と一緒に、内側の牢獄に閉じ込められたままでいることです。その人は昼も夜もあなたの思考を占領し続けますが、当の本人はすでに忘れてしまっているかもしれません。赦すとは、その牢獄から出て、再び自由になることを決意することです。それは悪を正当化することでも、過去を消し去ることでもありません。恨みと憎しみ、そして復讐したいという思いの鎖を断ち切ることなのです。

イエス様が「七回を七十倍するまで」赦しなさいと言われたのは、どういう意味ですか。

ペテロは、七回まで赦すと提案することで体裁を保とうとしていました。当時のラビの教えでは、三回赦せば義務を果たしたとされていたからです。イエス様はそれを七回の七十倍、つまり490回まで、と言い返されました。誰もそこまで数え続けることはできません。ある時点で、数を見失ってしまうはずです。それこそがまさに目的なのです。イエス様が実際に言おうとされたのは、いつも赦し続けなさい、限りなく赦し続けなさい、なぜなら神様があなたに対してそうしてくださったからだ、ということです。

傷があまりに深いとき、どうすれば赦すことができますか。

赦しは即座に、瞬間的に起こるものではありません。ある傷は時間を必要とし、聖霊が日ごとになしてくださる本当の癒やしを必要とします。まっすぐに神様のもとへ行き、自分一人ではどうにもならないこと、痛みがあまりに強いことを、誠実に告白しましょう。そこから御霊が働き始め、傷を癒やしてくださいます。やがて痛みが、神様の平安に取って代わられるまで。

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