神が定められた秩序にとどまりなさい(1)

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はじめに

民数記は、エジプトを出てから約束の地に至るまでの、イスラエルの民の旅を語ります。神はこの民を奴隷の状態から引き出し、安息へと導かれました。あなたの信仰の歩みも、この道のりに似ています。キリストは十字架で、あなたを捕らえていたすべてのもの、罪、欲望、以前の生き方から、あなたを解放してくださいました。キリストはあなたを、奴隷の国から、旅する民へと移してくださいました。しかし、その解放と最終的な到着地(御国)の間には、荒野があります。道のりがあります。

この道をどう歩めばよいのでしょうか。神に喜ばれる仕方で、荒野をどう生きればよいのでしょうか。民数記11章と12章は、それに一言で答えます。神は秩序を定められた。そして神は、あなたにその秩序にとどまるよう招いておられる。この最初の学びは11章にとどまります。三つのことを示します。神の秩序から外れた民とはどのようなものか、自分の窮状を神に持って行くしもべとはどのようなものか、そして神がその両方をどのように顧みてくださるかです。

本文:民数記11:1〜35

「さて、民は主の耳に、苦しみのつぶやきを言った。主はこれを聞いて怒りを発せられた。主の火が彼らのうちに燃え上がり、宿営の端を焼き尽くした。民はモーセに叫んだ。モーセが主に祈ると、火はしずまった。」(民数記11:1〜3)

記事の構成

1. 民のつぶやき:タブエラ(民数記11:1〜3)

民は三日間歩き続け、つぶやきます。聖書は、何に対してつぶやいたのかを明記していません。疲れかもしれません。食べ物かもしれません。道のりの長さかもしれません。神の怒りを引き起こすのは、つぶやきの内容そのものではありません。民が水やパンに事欠き、神に懇願するとき、神は恵みをもって応えられます。しかしここでは、神は怒りを発せられ、火が宿営の端を焼き尽くします。

なぜこの違いがあるのでしょうか。それは、このつぶやきが本当の必要に基づくものではなかったからです。それは神の聖さ、神の真実、神の導き方そのものに触れるものでした。神は、ご自分の人格が疑われるとき、黙っておられません。それは、かつてのアロンの子らについても(レビ記10:1〜3)、荒野のイスラエルについても言えることです。

民はモーセに叫びます。モーセは祈ります。火はしずまります。モーセのとりなしが、さばきを止めたのです。新約聖書は、あなたにも、モーセよりも偉大なとりなし手がキリストのうちにいることを思い起こさせます。「キリストは神の右におられ、わたしたちのためにとりなしていてくださる」(ローマ8:34)。イエス様は、ペテロの信仰が絶えないように祈られました(ルカ22:31、32)。このとりなしは、あなたの祈りを無用にするのではなく、あなたを祈りへと招くものです。キリストご自身がこう言われます。「わたしがあなたがたのために父にお願いする、とは言いません。父ご自身が、あなたがたを愛しておられるからです」(ヨハネ16:26、27)。祈りなさい、求めなさい、探しなさい。あなたにはとりなし手がいますが、それでも黙っていてはいけません。

2. 欲望とマナへの軽蔑(民数記11:4〜9)

イスラエルの中にいた寄り集まりの者たちが、激しい欲望に駆られます。民もこれに加わり、泣いて言います。「だれか肉を食べさせてくれないだろうか。エジプトで無償で食べた魚、きゅうり、すいか、にら、たまねぎ、にんにくを思い出す。今や、わたしたちのたましいは乾ききっている。何もない。目にするのはマナだけだ。」

神が毎朝降らせてくださるこのパン、マナは、「力ある者のパン」と呼ばれています(詩篇78:24、25)。天からの糧、並外れた賜物です。それを民は軽んじます。「マナ以外は何もない。」ここで何が起こっているかが分かります。欲望は、いつも感謝することをやめるところから始まります。目は欠けているものに留まり、与えられているものを忘れ、美化された過去へと振り返るのです。

その過去は存在しません。彼らは、れんが作り、むちの痛み、神に届いて神を動かした叫びを忘れています。しかし欲望には、演出する力があります。敵は、キリストを知る前の人生のある一場面(ある快楽、ある仲間、ある安逸)を切り取り、それを引き伸ばして、それ以外のすべてを覆い隠す名手です。それは、あなたにほとんど奴隷の家を懐かしませるほどです。

欲望が住みつくとき、神があなたのためになしてくださったすべてが消え去ります。神の恵みはもはや重みを持たなくなります。あなたが持っていないものが、あなたが受け取ったすべてよりも重くなるのです。

3. モーセの訴え(民数記11:10〜15)

モーセは、天幕の入り口ごとに、家族ごとに泣いている民の声を聞きます。彼の怒りが燃え上がります。彼はひとりでその重荷を担っています。彼は限界に達します。彼は神に言います。「なぜあなたはしもべを苦しめられるのですか。わたしがこの民をみごもったのですか。わたしが彼らを産んだのですか。それなのに、あなたはわたしに、乳母が乳飲み子を抱くように、彼らを胸に抱いて運べと言われるのですか。わたしひとりでは、この民をすべて担うことはできません。それはわたしにとって重すぎるのです。このようにわたしを扱われるくらいなら、むしろわたしを殺してください。」(民数記11:10〜15)

この訴えは美しいものではありません。感情的で、疲れ果てていて、いくらか行き過ぎています。モーセは、後にカルメル山の後で死を求めることになるエリヤと重なります(列王記第一19:4)。どちらも、信仰によって物事を考えられる状態ではありません。彼らは疲れ果てているのです。

しかし、モーセの訴えと民のつぶやきの間には、決定的な違いがあります。民は不満を抱き、モーセと神に向かって背を向けます。モーセは不満を抱きながら、神に向かって歩み寄ります。民はある欲望を満たそうとしています。肉が欲しいのです。モーセはある召しを守ろうとしています。神が委ねてくださった民に仕え続けたいのです。一方は神から遠ざかり、もう一方は神に近づきます。たとえ乱れていても、悪い仕方であっても。

あなたが疲れ果てるときのために、ここから一つの単純な原則を引き出すことができます。もう無理だと感じるとき、まず人に話しに行かないでください。あなたのいら立ちが批判に変わり、他の人にまで広がってしまう恐れがあります。まず神に話しに行ってください。もしあなたの訴えが満たされない欲望によるものなら、それをよく吟味してください。神は、あなたが望むような生活水準も、あなたがうらやむ快適さも、あなたに借りてはいません。もしあなたの訴えが、従うことの困難さによるものなら(「もう無理です。助けてください」)、それを恐れずに神に持って行ってください。この祈りは、あなたを神に近づけるものであり、遠ざけるものではありません。

4. 神がモーセに応えられる:七十人の長老たち(民数記11:16〜25)

神はモーセを見捨てません。神はモーセに助けを与えられます。「イスラエルの長老たちのうちから、七十人をわたしのもとに集めなさい……わたしは下って行き、そこであなたと語ろう。わたしはあなたの上にある霊のうちから取って、彼らの上に置く。彼らはあなたとともにこの民の重荷を担い、あなたひとりでそれを担うことがないようにするためである。」(民数記11:16、17)

この七十人は、すでに何らかの責任を担っていた者たちの中から選ばれています。これは、エテロがモーセに、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長を立てるようにと助言したとき(出エジプト記18:19〜22)に、すでに置かれていた原則です。神は、すでにあるものの上に築かれます。

モーセの上にあった霊が、彼らと分かち合われます。それはモーセの霊が「減る」という意味ではありません。御霊には限りがないのです。神は、ひとりの人の上に置かれたものを、長老たちの集団へと広げられます。その結果は明らかです。御言葉だけでは民を導くのに十分ではなく、御霊だけでも十分ではありません。民を担う者たちは、神が与えられた掟を知っていると同時に、それを生きる御霊の力を受けなければなりません。御言葉が導き、御霊が動かすとき、方向性と力が一つに結ばれます。それが、神が民のうちに見たいと望まれる秩序です。

御霊が七十人の上にとどまるとき、彼らは預言します。おそらく、ペンテコステの日のように(使徒の働き2:11)、神をほめたたえ、そのみわざを宣べ伝えたのでしょう。聖書はこう記します。「その後、彼らは続けなかった。」この限界には意味があります。神の御霊は、無秩序の霊ではありません。「神は無秩序の神ではなく、平和の神である」(コリント第一14:32、33)。本物の霊的な経験は、神が定められた秩序を決して壊すことがありません。

5. エルダデとメダデ:神が人間の枠を越えて働かれるとき(民数記11:26〜30)

エルダデとメダデという二人の男は、会見の天幕へ行きませんでした。彼らは宿営にとどまっていました。御霊は彼らの上にもとどまり、彼らは預言します。ひとりの若者が走ってモーセにそれを告げます。ヨシュアは、忠実な若いしもべらしく、すぐに反応します。「わが主モーセよ、彼らをやめさせてください。」彼は秩序を守ろうとしているつもりです。モーセが召集したのは七十人であって、七十二人ではなかったからです。

モーセは答えます。「あなたは、わたしのためにねたんでいるのか。願わくは、主の民がみな預言者となり、主が彼らの上にご自分の霊を置いてくださるように。」(民数記11:29)

ヨシュアは誠実ですが、二つのことを忘れています。まず、御霊をお与えになったのは神であって、モーセではないということです。神がなさっていることを止めるのは、人間の役目ではありません。次に、本当のしもべは自分の霊的な縄張りを守ろうとはしないということです。むしろ、他の人が成長することを願うのです。ある牧師が、有能になった兄弟がその働きに「陰を落とす」のではないかと恐れるなら、その人はまだ神の秩序を理解していません。神が立てられる羊飼いは、すべての人の成長を望みます。他のだれかが語り、教え、導くように召されているなら、それは喜ばしいことです。御国は前進します。

6. うずらと欲望の墓(民数記11:31〜34)

それでも神は、民の求めに応えられます。海からの風がうずらを運んで来て、宿営の周り、地面から約二アンマの高さに、両側それぞれ一日の道のりにわたって降り積もります。目もくらむような豊かさです。民は立ち上がり、丸一日、丸一夜、そして次の一日と、うずらを集め続けます。「いちばん少なく集めた者でも十ホメルを集めた」とあります。ひとつの家族だけで、樽をいくつも満たすほどの量です。

なぜこれほどの熱狂だったのでしょうか。神は、まる一か月分の肉を約束しておられました(民数記11:19、20)。ため込む必要は何もなかったのです。しかし欲望は、いったん動き出すと、終わりを知りません。もっと、もっとと求め続けます。満足はその先にあると思い込みますが、それは決して先にはやって来ません。

本文はぴたりとこう記します。「肉はまだ彼らの歯の間にあり、まだかみ終わらないうちに、主の怒りが民に向かって燃え上がり、主は非常に激しい疫病で民を打たれた。その場所は、キブロテ・ハタアワと呼ばれた。それは、欲望に取りつかれた民をそこに葬ったからである。」(民数記11:33、34)

キブロテ・ハタアワとは、「欲望の墓」という意味です。それは、神に向けられない秩序のない欲望に満ちた人生の行き着く先です。霊的な死、あるいは現実の死です。詩篇78篇はこの出来事を振り返り、そこにある鍵を示します。「彼らの欲望はまだ満たされておらず、食物はまだ口の中にあったのに、神の怒りが彼らに向かって上り、彼らのうちの最も肥えた者たちを打ち殺された」(詩篇78:30、31)。感謝をもって受け取られるべきであった祝福が、さばきとなってしまいました。それは、民の心が、与えてくださる方から離れていたからです。

7. 秩序にとどまる:荒野における本当の姿勢

この章の三つの姿を並べてみましょう。民は、感謝することを拒むことによって神の秩序から外れます。天からのパンをつぶやき、エジプトを美化し、肉を求めて泣きます。モーセは、人ばかりを見て、神を十分に見ないために、重圧の下で倒れます。彼は、神がすでに彼を通してなさってきたこと、数々の災い、開かれた海、岩から出た水を忘れています。ヨシュアは、行き過ぎた熱心さによって、神が広げようとしておられるものを制限しようとします。三つの場合すべてに、同じ根があります。目が神から離れているのです。

神の秩序にとどまるとは、目を神に留め続けることです。具体的には、四つのことを意味します。

  1. 与えられたものに感謝すること。食べ物、健康、人間関係、仕事、神は備えてくださいました。今持っているものに感謝しないなら、あなたはすでに欲望への道を歩み始めています。
  2. キリストを知る前の人生を美化しないこと。あなたが離れた場所は、美しいものではありませんでした。真実にそれを覚えておいてください。
  3. 自分の窮状を、人ではなく神に持って行くこと。限界に達したときは祈ってください。批判をまき散らさないでください。あなたを道から引き離してしまう快楽の中に慰めを求めないでください。
  4. 御霊のもとで、ともに仕えること。道はひとりで担うには重すぎます。御言葉と御霊が、互いに助け合う民を導かなければなりません。それぞれが、相手に必要なものを受け取る民です。

目指す場所は、まだあなたの前にあります。それは欲望の墓、キブロテ・ハタアワではありません。それは、神がご自分の民のために備えられた安息です(ヘブル4:9〜11)。今日、神が定められた秩序の中を歩んでください。

覚えておきたいポイント

  • 民数記11章は、神の秩序から外れる三つの仕方を語ります。民はつぶやき欲望を抱き、モーセは疲れ果てて感情的になり、ヨシュアは神がまさに越えようとしておられる枠を守ろうとします。
  • 神は、あなたが本当の必要を叫ぶときに怒られるのではありません。あなたの心が感謝をやめ、神の賜物を軽んじるときに怒られるのです。
  • 欲望は終わりのないわなです。それは常にもっと多くを求め、墓へと導きます。
  • キリストは、モーセよりも偉大な、あなたのとりなし手です。それはあなたを祈りから解放するのではなく、祈りへと招くものです。
  • 御言葉だけでも、御霊だけでも十分ではありません。両者がともにあってこそ、神が民のうちに見たいと望まれる秩序が保たれます。
  • 本当の羊飼いは、他の人が成長し、責任を担うことを願います。自分のために守るべきものは何もないのです。

あなたへの適用

  • 神が今日あなたに与えてくださっているもの(食べ物、住まい、健康、人間関係)のうち、あなたが本当に感謝しなくなっているものは何ですか。今夜、三つを挙げて感謝してください。
  • 民がエジプトを懐かしんだように、キリストを知る前の人生のある側面を、あなたの心はまだ悔いをもって見ていませんか。代わりに何を見つめるべきでしょうか。
  • あなたは霊的な疲れの中で、今どこにいますか。限界に達したとき、あなたは神と人、どちらに向きますか。
  • あなたの訴えが湧き上がるとき、それは民のそれ(「もっと欲しい」)に似ていますか、それともモーセのそれ(「従えるように助けてください」)に似ていますか。
  • 兄弟や姉妹が、あなたがまだ受けていない働き、賜物、評価を受けたとき、あなたはそれを喜ぶ備えがありますか。

引用聖句

よくある質問

なぜ神は、ただのつぶやきに対して怒りを発せられるのですか。

本文からうかがえるのは、そのつぶやきが本当の欠乏についてではなく、神が導かれる仕方そのものについてであったということです。イスラエルが水に事欠いて神に懇願するとき、神は岩から水を与えて応えられます。ここでは、民は神ご自身の真実を疑っています。詩篇78:19〜22がそれを裏づけます。「神は荒野に食卓を整えることができるだろうか……彼らは神を信じず、神の救いを信頼していなかった。」火を燃え上がらせるのは、疲れではなく、信頼の拒絶なのです。

正当な訴えと、つぶやきとを、どう見分ければよいのですか。

二つのことに目を向けてください。だれにそれを持って行っているか。モーセのそれのように、神に向けられた訴えは助けを求めています。人に向けられた訴えは、神に対抗する仲間を募ろうとしています。それは何についてのものか。「あなたに仕えられるように助けてください」と言う訴えは、あなたを神に近づけます。「わたしが欲しいものを与えてください、さもなければ去ります」と言う訴えは、あなたを神から遠ざけます。

キリストがすでにとりなしてくださっていることは、わたしにとって何を変えるのですか。

それはあなたを安心させます。だれかが、あなたの信仰が絶えないように父の前で嘆願してくださっているのです。それはあなたを免除するものではありません。イエス様は、弟子たちが求め、探し、たたき、目を覚まし、祈るようにと、強く勧められました(ルカ11:9〜13)。祈りは、キリストがあなたの代わりにしてくださる仕事ではありません。それは、キリストがあなたに開いてくださった交わりなのです。

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