詩篇145篇:偉大で恵みに満ちた王を礼拝する

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はじめに

あなたはテレビのニュースを見ているかもしれませんし、気が滅入ってもう見なくなったかもしれません。説教者はここから語り始めます。情報に囲まれた私たちは、冷笑、無関心、落胆へと押しやられ、どうすればよいのか分からなくなっているのです。

このメッセージは、トゥールーズの改革派福音教会(Église Réformée Évangélique de Toulouse)で続けられている祈りのシリーズの一つです。感謝の祈り、罪の告白の祈りに続いて、今回は礼拝の祈りを取り上げます。これについて語るのに「詩篇ほどふさわしいものはない」と説教者は言い、ダビデの賛美の詩である詩篇145篇を開きます。

メッセージは三つの流れで進みます。神をほめたたえることは私たちの使命です。私たちが神をほめたたえるのは、神が恵みに満ちた王だからです。そして、この賛美を自分の中だけにしまっておいてはなりません。

メッセージの流れ

1. 冷笑に誘惑される世界

  • 啓蒙思想は、理性によって真理が見いだされ、調和した世界へ向かうと約束しました。しかし今日、科学も宗教も国家も物事を解決してくれるとは、もはや信じられていません。
  • 機関や制度の語ることには、もう信用がありません。フランス人の政治家に対する信頼度の調査を見れば明らかです。
  • すべてを解決できる真理がなく、各自が自分の真理を語るなら、人は冷笑と無関心に陥ります。クリスチャンもこの考え方に「感染」することがあります。
  • しかし私たちは、一つにまとめ、解決を与える現実があると信じています。それは主です。神をほめたたえ礼拝することは、神がどなたかを思い起こすことです。
  • 神がすべてを造られた偉大な王であるなら、世界は神のものであり、善と悪があり、そして希望があります。私たちは落胆するように定められてはいません。

2. 賛美のアルファベット

  • 詩篇145篇は詩篇の終わりを告げる詩です。145篇から書の終わりまでの最後の詩のまとまりを開きます。
  • ヘブライ語では、各節の最初の文字がアルファベットの順に並んでいます。説教者はこれを「賛美のアルファベット」と見ています。
  • ダビデはこう始めます。「わが神、わが王よ、わたしはあなたをあがめ、世々限りなくみ名をほめたたえます。」(1節)

3. ほめたたえるとは、神について良いことを語ること

  • クリスチャンとして、また人間としての私たちの使命は、礼拝することです。ここで使われている言葉は「祝福する」であり、神を祝福するとは「神について良いことを語る」ことです。
  • 自分自身に語り、人々に語り、祈りの中で神に語ります。あなたは善い方、正しい方、あわれみ深い方、これらすべてのことをなさった方です、と。それは、私の思いと行いを主に結びつけることです。
  • 身近な例として、今朝この場にいる兄弟姉妹のために主を祝福することがあります。彼らを通して、私たちに対する神の恵みが見えるからです。
  • 賛美は、自分の中に閉じこもることの反対です。私たちには、世界を自分に必要なもの、自分の感じること、自分の望むことにまで狭めてしまう生まれつきの傾向があります。
  • 自分中心になると、人に会うときに「この人は私に何をしてくれるだろう」と考え、「私はこの人に何ができるだろう」とは考えません。人間関係は不健全になります。
  • 人は、自分を超えた何かのために生きたいと願うものです。それは映画を見てもわかります。私たちを超えるその現実とは、神ご自身です。神は、私たちの祈り、言葉、夢、行いが神を中心とするものとなり、「この人は神に情熱を燃やしている」と言われるようになることを望んでおられます。

4. 測りがたい偉大さをもつ王に心を奪われる

  • 「主は大いなる方であって、大いにほめたたえられるべき方である。その大いなることは、測りがたい。」(3節)私たちは、神に驚嘆するためにこの世界に置かれました。
  • 私たちはしばしば、神を小さなものにしてしまいます。美しい景色の地平線のはるか遠くにいる小さな人や小さな木のように、指一本で隠せてしまうものにしてしまうのです。
  • 神は、私たちの人生の地平線にある一つの現実でいたいとは望まれません。私たちの人生の第一の現実であることを望んでおられます。
  • 自分に問うべきことがあります。何が私の心を奪っているのか。何が私に「わあ」と言わせるのか。それは神でしょうか。それともメッシやムバッペの最新のプレー、あるいは私の注意と夢をとらえて離さない映画でしょうか。
  • 美しい景色は、主のために私たちの心をとらえることができます。しかし、神がどなたかをより正確に啓示してくださるのは、聖書を読むときです。

5. すべての人に恵み深い王

  • 「主は恵みあり、あわれみに富み、怒ること遅く、いつくしみ豊かです。主はすべてのものに良くあられ」(8、9節)。これは、契約が結ばれたシナイ山での神の描写と同じであり、ヨナが語った神の描写とも同じです。ヨナは神の恵み深さを知っていたからこそ、ニネベに行きたくなかったのです。
  • この恵み深さが、神に御子イエス・キリストを遣わさせました。神はご自分の力を、造ったものを滅ぼすために使われません。ご自分を愛し、ご自分の栄光をたたえる民をご自身のために造ろうとされるのです。
  • イエスはこう言われました。神は悪い者にも良い者にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださいます。連続殺人犯や残酷な暴君といった最悪の罪人でさえ、神の恵みを味わっています。おいしいステーキ、美しい景色、花の香り、息をするという単純な事実がそうです。
  • 「あなたはみ手を開き、すべての生けるものの願いを満たされる。」(16節)神はあわれみを惜しまれません。気前よく与えてくださるのです。
  • 私たちはよく、会社の社長や大統領やスターは弱い者を助けられない、と考えます。しかし詩篇はその反対を語ります。「主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられる。」(14節)
  • 「あなたの弱さは限界ではなく、救い主イエス・キリストの恵みを体験する機会です。」この王は今朝あなたに語ります。「顔を上げなさい。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたの味方だ」と。

6. 神を愛する者への二つの約束

  • 第一の約束は、神は祈りに答えてくださるということです。「主はすべて主を呼ぶ者に近く、まことをもって主を呼ぶすべての者に近い。」(18節)
  • 答えは、私が何者であるか、何をするかによるのではなく、イエス・キリストの御業によります。だから私たちは「イエス・キリストの名によって」祈ります。その血によって、私たちは大胆に神の御前に出ることができるのです。
  • 誠実に(説教者の言葉では「真実をもって」)祈るとは、イスラエルの文脈では、主に向かって叫びながら、ひそかにバアルに信頼を置くようなことをしないということでした。また「いろいろ試したから、祈ってみよう」でも、「祈って、あとは自分で何とかしよう」でもありません。本当に主に頼ることです。
  • 第二の約束は、守りです。「主はすべて主を愛する者を守られる。」(20節)これはクリスチャンの簡単な定義です。神を愛する人のことです。
  • こんなに不安定な世界の中で、私たちの永遠の安全は主にあります。病気も苦しみも、戦うのが難しい誘惑もない、という意味ではありません。そのとき神が私たちの戦いを助けるためにそこにいてくださる、ということです。

7. 次の世代に神の驚くべき御業を語る

  • 「ひとつの世代は他の世代に向かって、あなたのみわざをほめたたえ、あなたの大能のわざを言いあらわすでしょう。」(4節)神について読んだことを、自分だけにとどめておいてはなりません。
  • 何を語るのでしょうか。救いの歴史です。堕落のあとに与えられた約束、蛇を打ち砕き、かかとを傷つけられる女の子孫。選ばれた民。解放者の必要を示す律法。もう一つの血、すなわちイエス・キリストの血を告げるいけにえ。救い主を告げる預言者たち。完全で、正しく、善い王の必要を示す王たち。
  • 「神は、世代ごとに天から聖書を降らせてくださるわけではありません。」神は、年長の世代が受け取ったものを新しい世代に伝えるのを待っておられます。
  • 日曜日の子どもたちへの教えだけでは足りません。家庭で神について話さず、ともに祈らず、神についての意図的な対話がなければ、子どもたちはどうして主に従うことを選べるでしょうか。
  • 目標は、子どもたちがどんな質問にも「イエス様」と答えられるようになることではなく、礼拝者になることです。そのためには、私たち自身も礼拝者であることが求められます。
  • 聖書は、必要なときに開く料理のレシピ本ではありません。私が語ることと感じることに違いがあれば、子どもたちはそれに気づきますし、友人も気づきます。
  • この情熱は、夫婦の間の情熱と同じように、一瞬で生まれるものではありません。努力して育てるものです。みことばを読み、祈り、そのために時間を取ることです。
  • 伝えることは、親だけの務めではありません。パウロはあいさつの中でこう書いています。「主にあって選ばれたルポスと、彼の母とにも、よろしく。彼の母はわたしの母でもある。」偉大な使徒には、困難な働きの中で彼を励ます霊的な母がいました。教会の中で、私たちは互いに父となり、母となり、兄弟姉妹となるよう召されています。
  • 詩篇はこのように終わります。「わたしの口は主の誉を語り、すべての肉なる者は、とこしえにその聖なるみ名をほめまつるであろう。」(21節)

心に留めたいこと

  • 冷笑と落胆に向き合うとき、神をほめたたえるとは、神がどなたかを思い起こすことです。すべてを造り、希望を与えてくださる王です。
  • 神を祝福するとは、自分自身に、人々に、そして祈りの中で神に、神について良いことを語ることです。賛美は私たちを自分中心から引き離します。
  • 神はあなたの人生の地平線の小さな点のままでいることを望まれません。人生の第一の現実となることを望んでおられます。
  • この偉大な王は、恵みにも満ちておられます。倒れる者を立たせ、誠実な祈りに答え、ご自分を愛する者を守ってくださいます。
  • 神の驚くべき御業は、家庭でも教会でも、情熱をもって世代から世代へと伝えられ、礼拝者を育てていきます。

自分への適用

  1. 今、あなたに「わあ」と言わせているものは何ですか。神ですか。それとも、あなたの注意と夢をとらえている別のものですか。
  2. 今週の祈りの中で、神がどなたかを神ご自身に語る時間を取ってください。善い方、正しい方、あわれみ深い方と。具体的に、神に何と語りますか。
  3. 人に出会うとき、その人が自分に何をもたらしてくれるかを考えていますか。それとも、自分がその人に何をもたらせるかを考えていますか。
  4. あなたは弱さを感じていますか。一人で担うには重すぎる荷に押しつぶされそうですか。神に助けを求めるのを妨げているものは何ですか。
  5. 今週、神の驚くべき御業を誰に語れるでしょうか。子どもたち、友人、信仰の若い兄弟姉妹でしょうか。

引用された聖書箇所

よくある質問

なぜ詩篇145篇は「賛美のアルファベット」なのですか。

ヘブライ語では、詩篇145篇の各節がアルファベットの順に続く文字で始まっています。ダビデのこの賛美の詩は、145篇から書の終わりまでの最後の詩のまとまりを開く詩でもあります。説教者はこれを賛美のアルファベットと見て、礼拝の祈りについて語るために選びました。

詩篇145篇で神を祝福するとはどういう意味ですか。

神を祝福するとは、みことばに従って、神について良いことを語ることです。自分自身に語り、人々に語り、祈りの中で神に語ります。あなたは善い方、正しい方、あわれみ深い方です。それは、私の思いと行いを主に結びつけることであり、私たちを自分中心から引き離してくれます。

神の驚くべき御業を次の世代にどう伝えればよいですか。

神は、世代ごとに天から聖書を降らせてくださるわけではありません。年長の世代が、新しい世代に神の御業を語るのを待っておられます。それは教会での子どもたちへの教えを通して行われますが、何よりも家庭の中で、神について話し、ともに祈り、意図的に対話することによって行われます。目標は、正しい答えを引き出すことではなく、礼拝者を育てることです。

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