はじめに
その週のニュースをご覧になった方もいるかもしれません。日食です。月が太陽の前を通るときに起こる、かなり珍しい天体現象です。見逃した方は、フランスで次に見られる2081年9月3日まで待たなければなりません。パリのÉglise Connexion(エグリーズ・コネクション)のHery Garcia(エリー・ガルシア)牧師は、多くの人を魅了したこの出来事からメッセージを始めます。それも不思議ではありません。大昔から、空は人類を魅了してきました。私たちは空を観察し、研究し、ときには自分の存在についての答えを空に求めます。
多くの人にとって、この観察は、さらに根本的な問いを生みます。これはすべて、どこから来たのか。「宇宙は私を当惑させる。この時計があるのに、時計職人がいないとは考えられない」とヴォルテールは言いました。空を見上げるとき、なぜ創造者という問いがこれほど自然に浮かぶのでしょうか。宇宙は私たちに何かを語っているのでしょうか。答えを得るのに、ヴォルテールを待つ必要はありませんでした。3000年以上前、イスラエルの王ダビデは、空の美しさに心を打たれ、詩篇19篇を作りました。
ダビデにとって、空を見上げることは、星や惑星、日食のような並外れた現象を眺めるだけのことではありません。それは、創造者のしるしを帯び、その栄光を告げ知らせる御業を見つめることです。そして詩篇はさらに先へ進みます。神は、被造物によってだけでなく、御言葉によっても自らを現されるのです。この二重の啓示を前にして、ダビデは傍観者のままではいません。彼の内で何かが起こり、神へと導かれていきます。メッセージの要点は一文に収まります。神は、私たちを礼拝の生き方へ導くために、被造物と御言葉によって自らを現される。詩篇は自然に三つの流れに分かれます。目を上げなさい、神は自らを現されます。耳を開きなさい、神は語られます。主のもとに来なさい、神は救われます。
メッセージの流れ
1. 目を上げなさい:天は神の栄光を語る(1〜2節)
「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はそのみ手のわざをしめす。この日は言葉をあの日に伝え、この夜は知識をあの夜に示す。」星空を見上げながら、ダビデは神の栄光と御業を認めています。聖書は神の栄光についてたびたび語りますが、それはどういう意味で、空とどのような関係があるのでしょうか。
- ダビデが空に見る神の栄光について語るとき、それは神が何をされるかだけでなく、神がどなたであるかを告げています。神の栄光とは、神ご自身とそのご性質が目に見える形で現れたものです。ダビデは神を直接見ているわけではありませんが、その御業を見つめることで、神がどのような方かを見分けることができます。
- 牧師は、数年前に「あまり知られていない美術館」を訪ねたときの話をします。ルーヴル美術館です。絵画の美しさに心を奪われ、最初に思ったのは「わあ、なんて才能のある画家だろう」ということでした。絵の美しさは、自然と描いた人へと思いを向けさせたのです。ダビデも、この壮大な天の絵を前にして、「なんと栄光に満ちた創造者だろう」と叫んでいるかのようです。作品は芸術家を語り、被造物は神を語ります。
- 第一の面:被造物は神の力を表します。神が造られた何十億もの星、何十億もの銀河を思ってください。それらすべてを、ただ御言葉によって造られたその力を思ってください。めまいがするほどです。
- 第二の面:被造物は神の知恵と秩序を表します。2節は、神が昼と夜を造られたことを思い起こさせます。創世記1章にあるとおり、神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられました。初めに世界は混沌でしかありませんでしたが、神は光とやみを分けて秩序を造られました。創造するとは、本質的に、混沌のあったところに秩序をもたらすことです。牧師は、創世記1章をもう一度読み、神が物事を分けてそれぞれの場所に置くことで秩序を造られる箇所に注目するよう勧めています。
- 第三の面:被造物は神の美しさを表します。私たちはときどき、美しさが客観的なものだとは信じにくく、見る人次第だと考えます。しかしダビデは「私は空が美しいと思う」とは言いません。空が、客観的に、神の栄光を語っていると断言しているのです。この考えは、創造の記録にすでにあります。そこには何度も「神は見て、良しとされた」と書かれています。被造物が美しいのは、人間がそう宣言したからではなく、神がそれを望み、良いと宣言されたからです。美しさの源は、神ご自身にあります。
2. 何ものにも止められない、普遍的な啓示(3〜6節)
この啓示は、だれに向けられているのでしょうか。被造物を通して神を見るのに、特別な眼鏡が要るのでしょうか。「話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、そのことばは世界の果にまで及ぶ。神は日のために、幕屋を天に設けられた。」
- 被造物による神の啓示は普遍的です。それは、すべての人に、明確で分かりやすい形で向けられています。人はだれでも、被造物を観察することで、神がどなたであるかを知ることができます。ローマ人への手紙1章20節でこう述べています。「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。」(口語訳)
- 神が存在し、栄光に満ちていることを知るために、特定の言語を話す必要も、特定の民に属する必要も、ましてや特定の場所にいる必要もありません。
- 一つの言語、全地。何か思い当たりませんか。バベルで、人々は一つの言語を話し、一つの場所にとどまって、自分たちの名をあげようとしました。詩篇19篇は、その正反対です。神は、ご自身の名をあげるのに人間のどんな言語も必要とされず、人々が神に会いに来なければならない特定の場所も必要とされません。「神の被造物は、どの言語も話さないがゆえに、あらゆる言語で語る」のであり、その証しは全地に届きます。
- 太陽のイメージがこれをよく表しています(5〜6節)。「日は花婿がその祝いの部屋から出てくるように、勇士が喜び勇んで道を走るように、天の果から出てきて、天の果にまでめぐり行く。その熱を受けないでかくれうるものはない。」太陽の光と熱から逃れられる人がいないように、被造物の証しから逃れられる人もいません。
- このイメージには、戸惑いを覚えるかもしれません。ダビデは太陽を神のように語っているのでしょうか。そうではありません。多くの異教の民は、太陽を神として拝み、偶像礼拝に陥りました。ダビデは正反対の立場をとります。神は創造者であり、太陽は被造物です。神は太陽のために「幕屋を設けられた」のです(4節)。それは、太陽が夜に眠りにつく幕屋ではなく、太陽が神から与えられた場所にあり、創造者から受けた使命を忠実に果たしていることを思い起こさせるイメージです。神は太陽を、昼をつかさどらせるために造られました(創世記1章16節)。太陽は、神の栄光と、全地に知られたいという神の願いの証人なのです。
3. この第一の啓示の光のもとで生きる
被造物は神がどなたであるかを表すことを見てきました。では、それは今日の私たちに何を変えるのでしょうか。Hery Garcia牧師は三つの適用を示します。
- 信仰の目で被造物を見ること。夕日や星空、海の力を眺めるとき、光景だけで終わらせず、被造物が造り主へと導いてくれるようにしましょう。自然は、神が栄光に満ち、全能で、限りなく善い方であることを私たちに示すために存在しています。そして、創造者などいるはずがないと思うなら、ヴォルテールのようにしてみてください。疑い、自分に問いかけるのです。この宇宙は偶然そこにあるのか、それともその背後に、被造物を通してあなたに知られたいと願う全能の創造者がいるのか。
- 被造物ではなく、神だけを礼拝すること。太陽は神ではありません。自然は神ではありません。星が私たちの運命を支配しているのでもありません。創造者の座を被造物に与えることには、聖書で名前があります。偶像礼拝です。古代の異教徒を見下すのは簡単です。「どうして太陽を神と比べられたのだろう」と。しかし偶像礼拝は、思っているよりずっと身近にあります。星占いを調べるとき、星がその日の気分を決めると信じるとき、あるいは「母なる自然」と、まるで被造物が自分の意志を持っているかのように語るときです。被造物は、自分への礼拝を引きつけるために存在しているのではありません。造り主を指し示す道標のようなものです。被造物を賛美するのはよいことです。しかし、礼拝するのは、それを造られた方だけにしましょう。
- 被造物だけで満足しないこと。宇宙は、神がどなたであるかを表す、大きく開かれた書物です。しかし、私たちに必要なすべてを語ってはくれません。被造物を賛美し、それと調和して生きることで、神に近づけると考える人もいます。それは良いことですが、神との交わりに生きるには明らかに十分ではありません。被造物は、私たちが罪人であることを教えてくれません。なぜ救い主が必要なのかも説明してくれません。さらに先へ進む啓示が必要です。
4. 耳を開きなさい:主は語られる(7〜10節)
ある建築家が、あなたのために見事な家を建てたと想像してください。細部まで丁寧に考え抜かれ、調和のとれた寸法、上質な素材、どの部屋にも完璧に差し込む光。この家を訪ねれば、建築家について多くのことが分かるでしょう。有能で、創造的で、卓越した人だと。ところが、家が完成すると、その人はあなたに一言も語りかけないまま姿を消してしまうとしたらどうでしょう。その人について多くを知っていても、数え切れない疑問が答えのないまま残ります。その人の名前は何か。なぜこの家を建てたのか。あなたをどう見ているのか。あなたを愛しているのか。あなたに何を求めているのか。それに答えるには、もう家を眺めるだけでは足りません。建築家自身が語ることを決めなければなりません。まさに、神はそうされました。神は御言葉によって自らを現され、ダビデは詩篇の後半で、その啓示をたたえています。
- 「主のおきては完全であって、魂を生き返らせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主のいましめは清くて、眼を明らかにする。主を恐れる道は清くて、いつまでも絶えることなく、主のさばきはまことであって、ことごとく正しい。これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。」
- 深く理解しようとする前に、まず一つの言葉が目に飛び込んでくるはずです。六回繰り返されている「主」という言葉です。なぜダビデは、前半の「神」から、この後半では「主」に変わるのでしょうか。これは間違いではありません。前半でダビデは、被造物に現れた神の力を見つめながら「神」について語っています。7節からは、一貫して神の人格的な御名、ヘブライ語で「ヤハウェ」を用いています(日本語の聖書では「主」と訳されています)。
- 初めて人に会うとき、「こんにちは、私は学生です」とか「こんにちは、私は〇〇に住んでいます」とは言いません。まず名前を名乗ります。名前は、人格的な関係に入るための入口です。「主」という御名は、ダビデが語る神が、その御業を通して眺められる創造者であるだけでなく、ご自身の民に人格的に自らを知らせてくださった神であることを思い起こさせます。
- この御名は偶然選ばれたものではありません。聖書全体で、これは神がご自身の民と結ばれる契約に結びついた御名です。最も印象的な例は出エジプト記3章で、神がモーセに、イスラエルと結ぼうとする契約について語られる場面です。「これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの記念である。」(出エジプト記3章15節、口語訳)
- 私たちは、ときに神の御名を軽く扱ってしまいます。誓うことによってではなく、御言葉の読み方においてです。ある言葉はあまりに身近になり、その力を忘れてしまいます。「神がこうされる、主がああされる」と、ほとんど距離を置いて読んでしまいます。ダビデは、神が非人格的な力でも、遠くにいる創造者でもなく、ご自身の名を告げてくださる神、民を招いてご自身を知らせ、人格的な関係に入るよう呼びかける契約の神であることを思い起こさせます。
- 聖書を読むとき、私たちは神についての知識をただ積み上げているのではありません。私たちに語り、ご自身を知らせることを選ばれた神に耳を傾けているのです。だれかについて物事を知ることと、その人の語ることに耳を傾けて、その人を知ることとは、まったく違います。私たちはもう、神が何をされるかを眺めるだけでなく、神が何を語られるかに耳を傾けるよう招かれています。実際、詩篇の調子もがらりと変わります。観想的な冒頭の数節から、ほとんど箴言を読んでいるような知恵の文章へと移ります。
5. いのちある御言葉は、金よりも尊い
ダビデは神の御言葉について何と言っているでしょうか。彼は六つの表現を用います。おきて、あかし、さとし、いましめ、主を恐れる道、さばきです。いずれも、神がご自身とそのみこころについて与えてくださる啓示を、何らかの形で指しており、それぞれが特定の面を強調しています。そしてそれぞれに、同じ構造が繰り返されます。ダビデは、御言葉の道徳的な性質と、それを受け取る人にその御言葉がもたらす効果とを、並べて置いています。
- 最初の表現を取り上げましょう。「主のおきては完全であって、魂を生き返らせ。」おきてとは、神がご自身の民を導くために与える指示と教えです。強調されている性質は完全さです。「完全な」と訳されているヘブライ語のタミームは、文字どおり、欠けたところがなく、損なわれていない、全きという意味です。主のおきては何一つ欠けていません。そこには誤りも矛盾もありません。それは神の道徳的な清さを映しているからです。
- それを守る人に、どんな効果があるでしょうか。ダビデは、それが慰めをもたらすと言います。ほかの訳では、魂を生き返らせるとなっています。連れ戻し、回復させ、いのちを取り戻させるものという考えです。神の御言葉は、神についての情報を伝えるだけではありません。耳を傾ける人に具体的に働きかけます。傷んだものを回復させ、迷う人を連れ戻し、打ちひしがれた人に再び力を与えます。
- 残りの五つの表現についても長く黙想することはできますが、それはダビデの意図ではありません。ここは詩篇、つまり詩的な文章であり、その力は積み重ねにもあります。ダビデは、神の御言葉があらゆる点で良いものであることを示すために、意図的に同じ構造を何度も繰り返しています。御言葉が良いのは、神がどなたで、そのみこころが何であるかを完全に表すからです。それは完全で、確かで、正しく、清く、義であり、語る方のご性質を映しています。そして御言葉が良いのは、心の奥深くに働くからです。神は、ご自身を知らせるためだけでなく、私たちを造り変え、私たちの心をみこころに従って形づくるために語られます。
- 御言葉を、指示の寄せ集めのように、神との間で正しくあるために知りおこなうべき事柄の一覧のように見てしまうのは、簡単です。しかしダビデが言っているのは、まったくそういうことではありません。彼が描くのは、死んだ言葉ではなく、生きて働く言葉です。動詞を見てください。生き返らせる、賢くする、喜ばせる、明らかにする。御言葉は、賢くなりなさいと言うだけではありません。無学な者を賢くするのです。喜びなさいと言うだけではありません。心を喜ばせるのです。光がどこにあるかを告げるだけではありません。眼を明らかにするのです。御言葉は、神への病的な恐れではなく、感嘆に満ちた畏敬へと、神のいましめへの自発的な従順へと私たちを招きます。
- だからダビデは、10節で、御言葉は金よりも慕わしく、蜜よりも甘いと言えるのです。王として、ダビデは計り知れない富を持っていました。富について語るとき、彼はそれが何であるかをよく知っています。そのすべての富も、全能の神を彼に示し、彼自身の心を造り変えることのできる御言葉に比べれば、彼の目には何でもありませんでした。彼は御言葉を単に役に立つものとしてではなく、慕わしいもの、蜜よりもなお甘いものとして見ています。心から御言葉を愛し、それによって戒めを受けるのです(11節)。
- 第一の適用:神の御言葉は、神のご性質とみこころを私たちに示すのに、完全に十分です。だからこそ、クリスチャンとして私たちは、御言葉を最高の道徳的権威とするよう召されています。道徳的な価値観が非常に速く変わる時代には、これはなおさら大切です。昨日まで悪とされていたことが今日は善とされ、その逆も起こります。さらに悪いことに、私たちはそのときどきの感情に従って、自分の道徳を決めてしまう誘惑にさらされます。そこで、とても具体的な問いが生まれます。私の人生で、何が善で何が悪かを決めるのはだれか。社会か、周りの人か、自分の感情か、自分自身か。もし神の御言葉が真実で義であるなら、最後に決めるのは御言葉であるはずです。正しい問いは、私の人生のこの状況について、神は何とおっしゃっているか、です。これは他の権威を軽んじるということではありません。聖書は、人間の権威や国の法律に従うよう、はっきりと私たちに求めています。しかし、私たちの究極の道徳的基準は神の御言葉でなければならず、他のすべては、その光のもとで測られるのです。
- 第二の適用、おそらく最も大切なもの:私たちの大半は、ダビデよりはるかに貧しいでしょう。それでも、神の御言葉を銀行口座より大切にしていると言えるでしょうか。この比較がふさわしくないと感じるなら、それは私たちがこの御言葉の価値をつかんでいないからかもしれません。「このような聖書は2.5ユーロです。近所のパン屋でのコーヒー一杯の値段です。」それでも、そこに書かれていることは、10億ユーロでは決して買えないものを私たちに与えてくれます。10億ユーロがあれば、好きなものは何でも買えますが、ダビデが語る心の喜びは買えません。最高の助言者を雇えても、神が与える知恵は買えません。あらゆる安全に囲まれることはできても、回復された魂は買えません。そして何よりも、世界中の金をもってしても、宇宙を造られた神を人格的に知る可能性は買えないのです。
- 自分に問いかけてみましょう。私たちは聖書を単に大切なものと考えているでしょうか、それとも慕い求めているでしょうか。クリスチャンはそうするものだから読むのでしょうか、それとも、神が語られるのを聞き、御言葉によって人生が造り変えられることを望んで読むのでしょうか。
6. 主のもとに来なさい:主は救われる(11〜14節)
神の御言葉に本当に照らされるとき、何が起こるのでしょうか。これが最後のポイントです。「あなたのしもべはこれらによって戒めをうける、これらを守れば大いなる報いがある。だれが自分のあやまちを知ることができましょう。わたしを隠れた罪から解き放ってください。あなたのしもべを守って、故意の罪を犯させず、それにわたしを支配させないでください。そうすれば、わたしは全き者となって、大いなるとがを免れるでしょう。わが岩、わが贖い主なる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いとがあなたの前に喜ばれるように。」
- こうした啓示を前にして、ダビデは無関心ではいられません。御言葉が神の善と聖さを映しているからこそ、彼は御言葉に照らされるままになります。その心は、神への礼拝と、御言葉への渇望で満たされます。彼は神に引き寄せられ、主を知れば知るほど、近づき、その慈しみ深い権威のもとで生きたいと願います。それは彼の姿勢に表れています。彼は自分を神のしもべとして示しているのです。
- 牧師は、この引き寄せられる思いの例えを『ロード・オブ・ザ・リング』に見いだします。勇敢な騎士ボロミアは、映画の初めに、のちの王アラゴルンの権威に従うことを拒みます。しかし旅を続けるうちに、アラゴルンが本当はどういう人物か、その勇気、謙遜、誠実さ、指導力を少しずつ知っていきます。そして死に際、ボロミアはついにその権威を認め、忠誠を誓い、最期の息でこう言います。「私はあなたについて行ったでしょう、わが兄弟、わが隊長、わが王よ。」ダビデにも似たところがあります。神を見つめれば見つめるほど、神のものになり、神に従い、その権威のもとで生きたいと願うのです。彼の従順は重荷ではなく、創造者の完全さに感嘆した人の応答です。
- しかし、この完全さを見つめるうちに、ダビデはある問題に突き当たります。罪人が、全く聖なる神のみこころにかなって生きることなど、どうしてできるのか。ダビデは、神に従うことが良いことであり、祝福の源であることを知っています。しかし、この完全な御言葉の光のもとで自分を見ると、問題が始まります。ダビデは栄光ある王であり、神の心にかなう人でした。同時に彼は罪人であり、姦淫を犯し、人を殺し、主のおきてに完全に従うことのできない人でした。そして彼はそれを知っています。自分の不完全さと、神との交わりに生きるために神が求める完全さとの間の隔たりは、あまりにも大きいのです。
- 彼にこう言うこともできるでしょう。「しっかりしなさい。あなたは神の御言葉を知っている。おきても知っている。従えばいいだけだ」と。しかし正直になりましょう。単純な決まりを知っていながら、それに背いたことが、私たちは何度あったでしょうか。「たいしたことではないから」と、少しの速度超過を受け入れることが何度あるでしょうか。「ほんの小さな嘘だから」と、嘘をついたことが何度あるでしょうか。問題は、私たちが神のおきてを知らないことだけではありません。それよりはるかに根が深いのです。私たちは、いつも神のおきてに従いたいと思うわけではありません。ときには、自分のほうが神よりうまくやれると思って、自分のおきてに従おうとします。それは私たちの性質であり、13節が「故意の罪」と呼んでいるものです。
- さらに悪いことに、私たちの問題はあまりに深く、自分の罪を見分けることさえできないことがあります。気づかないうちに罪を犯しています。ダビデが12節で言っているのはそのことです。彼は、自分では知らない過ちを犯していることを認めています。自分の人生について、現実的な診断を下すことさえできないのだと、彼は理解しています。
- まさにここで、御言葉が働きます。7節で、主のおきては魂を生き返らせると読みましたが、それは私たちがあまり気づかない方法でなされます。私たちの中の間違いを明るみに出し、罪を示すことによってです。神のおきては、私たちの心の状態について正直な診断を下し、それは良いことです。医者は正しい診断を下さなければなりません。病気の原因を先に突き止めなければ、正しい薬を処方できないからです。
7. わが岩、わが贖い主:贖う恵み
では、薬は何でしょうか。ダビデは何をするでしょうか。12節を見てください。「わたしを隠れた罪から解き放ってください。」ダビデは神の恵みに訴えています。自分の過ちを赦してくださるよう、神に願っています。神の恵みこそ、罪の問題に対する薬です。
- 神の戒めは、神の前に出るのに十分な従順のレベルに私たちが達するためにあるのではありません。私たちをひざまずかせ、神の恵みへと導くためにあります。私たちの神は驚くべき方です。全能で、聖く、完全です。これほどの最上級を前にしたら、ダビデがすべきことはただ一つ、逃げることのはずですし、私たちも同じです。私たちは神の完全さにふさわしくなく、神に完全に従うことができません。そしてこれが、この詩篇の大きな逆説です。ダビデは神から遠く逃げるのではなく、神のもとへ走るのです。
- この逆説は、14節の終わりで解かれます。「わが岩、わが贖い主なる主よ。」つまり、神の恵みは、贖いとして現れます。だれかに悪いことをしたとき、私たちはよく「どうすれば償えますか」と尋ねに行きます。しかし神に悪いことをしたとき、神は私たちが自分で償うのを待たれません。神ご自身が私たちを贖われます。これが、私たちにふさわしい罰を与えない神のあわれみであり、私たちにふさわしくない赦しを与えてくださる神の恵みです。
- 神はどのように私たちを贖われるのでしょうか。ダビデは、この救いの計画のすべての詳細を知っていたわけではありません。しかし、ダビデもその一人であった預言者たちについて、使徒ペテロが言っていることを見てください(ペテロの第一の手紙1章10〜11節)。「この救については、あなたがたに与えられる恵みのことを預言した預言者たちも、しきりに尋ね、さぐったのであって、彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの受くべき苦難とそれに続く栄光とをあらかじめあかしした際、どの時、どんな時期をさして言われたかを、調べたのである。」(口語訳)
- ダビデは、今日の私たちほど明確にイエス・キリストを知っていたわけではありませんが、キリストの霊はすでに彼のうちで働いていました。彼は神の救いの約束を知っており、来たるべきメシアをかいま見ることができました。私たちとの違いは、ダビデがまだ成就していない約束に向かって信仰をもって見つめていたのに対し、私たちはすでに成就した約束に向かって信仰をもって見つめていることです。しかし、その約束の中心には、同じ救い主、イエス・キリストがおられます。
- イエスは、ダビデにも私たち自身にもできない完全な従順を生きられました。十字架の上で、私たちの不従順にふさわしい罪の宣告を、身に負われました。こうして、全く聖なる神が、完全に義であり続けたまま、罪人を迎え入れることができるのです。私たちの罪は無視されるのではなく、支払われたのです。「ダビデが神のもとへ走るのは、自分の罪が思っていたより軽いからではなく、神の恵みが彼の罪よりも大きいからである。」
- この恵みに対するダビデの応答は見事です。「わたしの口の言葉と、心の思いとがあなたの前に喜ばれるように。」彼は、自分が神に贖われ、罪を赦されたことを知っています。その応えとして、神に喜ばれる生き方、神の栄光への賛美となる生き方をささげたいと願います。私たちは、神が私たちに示してくださった恵みへの感謝として、人生のあらゆる面を神にささげる備えができているでしょうか。
- 結びに。目を上げなさい、天は神の栄光を語っています。耳を傾けなさい、御言葉は神のご性質を告げています。主のもとに来なさい。そして、贖われたあなたの人生が、神の恵みを告げますように。私たちの神の被造物をたたえ、飽くことのない飢えをもって御言葉をむさぼり、神の栄光にすべてをささげる人生を生きましょう。
覚えておきたいポイント
- 被造物は、特定の言語も場所も必要とせず、すべての人に、神の力、知恵、美しさを表します。それは造り主を指し示す道標であり、礼拝の対象ではありません。
- 被造物だけでは足りません。被造物は、私たちが罪人であることも、なぜ救い主が必要かも告げません。神が語られなければならず、神は御言葉によってそうされます。
- 7節から、ダビデは神を六回「主」と呼びます。契約の御名です。聖書を読むことは、情報を積み上げることではなく、ご自身を知らせたいと願う人格的な神に耳を傾けることです。
- 御言葉は生きています。生き返らせ、賢くし、喜ばせ、明らかにします。金や蜜よりも尊く、銀行口座よりもはるかに価値があります。
- 全く聖なる神の前では、ダビデは逃げるはずでした。それでも神のもとへ走るのは、主が彼の岩、彼の贖い主だからです。神は、私たちが自分で贖うことを求められません。イエス・キリストにおいて、神ご自身が私たちを贖われます。
個人的な適用
- 星空や夕日を眺めるとき、あなたは光景で終わらせていますか。それとも、被造物があなたを造り主へと導くままにしていますか。
- あなたの生活に、さりげない偶像礼拝はありませんか。星占い、気分を決めるという星、まるで意志を持つかのように扱われる「母なる自然」など。
- あなたの人生で、何が善で何が悪かについて、最後に決めるのはだれですか。社会ですか、周りの人ですか、感情ですか、それとも神の御言葉ですか。
- 聖書を銀行口座よりも大切にしていると、正直に言えますか。習慣として読んでいますか、それとも神が語られるのを聞きたいという願いから読んでいますか。
- 自分の不完全さを前にして、あなたは神から逃げようとしがちですか、それとも神のもとへ走りますか。神の恵みへの感謝として、今週、人生のどの部分を神にささげられるでしょうか。
引用した聖句
よくある質問
詩篇19篇によれば、被造物は神について何を表していますか。
Hery Garcia牧師によれば、被造物は神の栄光の三つの面を表します。神の力(御言葉だけで造られた何十億もの銀河)、神の知恵と秩序(混沌のあったところで光とやみを分けられた)、そして神の美しさ(神は見て、良しとされた)です。この啓示は普遍的です。どの言語も話さないがゆえに、あらゆる言語で語るのです。
なぜダビデは詩篇19篇で「神」から「主」に変わるのですか。
前半でダビデは、被造物に現れた神の力を見つめながら、神について語っています。7節から、彼は神の人格的な御名、ヘブライ語でヤハウェ(「主」)を六回用います。これは契約の御名であり、神が出エジプト記3章でモーセに告げられた御名です。神が非人格的な力ではなく、ご自身の民に自らを知らせ、人格的な関係へと招かれる神であることを思い起こさせます。
なぜダビデは神から逃げずに、神のもとへ走るのですか。
全く聖なる神の前では、ダビデのような罪人は逃げるはずです。これが詩篇の逆説であり、14節で解かれます。主は「わが岩、わが贖い主」です。神は、私たちが自分で自分を贖うことを求められず、神ご自身が私たちを贖われます。ダビデが神のもとへ走るのは、自分の罪が思っていたより軽いからではなく、神の恵みが彼の罪よりも大きいからです。
メモを取ったり質問したりするにはサインインしてください。