ローマ人への手紙14章:兄弟をつまずかせず、建て上げる

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はじめに

「あなたにとって、教会とは何ですか。」日本の浜寺聖書教会の牧師、近藤崇志牧師は、シリーズ「『建築家』として生きる信仰者」の冒頭で投げかけたこの問いを、最後にもう一度語りかけます。最初に牧師は、教会をホテルにたとえました。行きたいときや必要なときに訪れ、客としてサービスを待つ場所です。

聖書が教えているのは、それとは違います。教会は、イエスご自身が建てておられる建物であり、不完全な罪人たちが集められている、いまも工事中の現場です。この現場では、考え方も意見も好みも価値観も違うのが自然です。大切なのは、その違いを聖書に従ってどう見るかです。

この第8回、最終回のメッセージは、ローマ人への手紙14章13〜19節を扱います。パウロはここで、互いをさばき合っていたローマの信者たちに、違いに向き合うときに心に留めるべき7つの真理を示しています。最初の5つは前の週までに学びました。残るのは、滅ぼすのではなく愛をもって行うこと、そして神の国の民として生きることの2つです。

メッセージの流れ

1. 教会はホテルではなく、建築現場

  • イエスは教会の棟梁です。「わたしの教会を建てよう」(マタイの福音書16章18節)。私たちは設計者でも所有者でもありません。
  • 十字架によって、神とも互いとも敵であった人々が一つの家族となり、神の住まいとなるために組み合わされた生きた石となりました。
  • 私たちは受け身の傍観者ではありません。主は、ともに建てるための道具を与えてくださいました。御言葉、交わり、聖餐、そして祈りです。
  • ですから問うべきなのは「何を受け取れるか」ではなく、「主と兄弟姉妹に何をささげられるか」です。

2. 「だから」:私たちはみな、まことの裁き主の前に立つ

  • ローマ人への手紙14章13節は「だから」で始まります。この言葉は前の部分から結論を引き出しています。10〜12節で、パウロは私たちがみな神のさばきの座の前に立つことを思い起こさせています。
  • 「こうして、わたしたちは、それぞれ、神に対して自分の言い開きをすることになろう」(12節)。私たちは、与えられた人生、委ねられた時間や財産、そして何より兄弟姉妹に対する自分の態度について問われます。
  • それなのに、私たちは逆の方向に進みがちです。自分の基準や確信、ときには高ぶった心を振りかざして、すぐに裁き主の席に座ってしまいます。
  • さばく権利は主だけにあります。自由を楽しむ強い人も、良心のことで苦しむ弱い人も、互いに対して権威を持ってはいません。私たちはみな、同じ主人に仕える僕です。

3. 自分自身をさばく:妨げを置かない

  • パウロは否定的な助言だけで終わりません。13節の終わりで「決心しなさい」と訳されている言葉は、同じ節の初めにある「さばく」と同じギリシア語です。つまり、他人をさばくのをやめて、自分自身をさばきなさい、ということです。
  • 正直になりましょう。私たちは他人には厳しく、自分には甘いものです。「あの人が間違っている」と言い、自分のことになると「まあ、いいか」「よくあること」と言います。腹の立つ相手のことは一日中考えても、自分の態度を省みることはないかもしれません。
  • パウロが求めていることを、二つの絵で考えてみましょう。「つまずきとなるもの」は、歩道で気づかずに足を引っかける出っ張りや小石のようなものです。「妨げ」は、もともと動物の罠を作動させる棒を指していました。餌が置かれ、動物が棒に触れると、罠が閉じるのです。
  • ですから、他人の気に入らないことを避けるだけの話ではありません。私たちの言葉や行いが、兄弟姉妹を良心に反することへ、罪へと押しやることがないよう、気をつけるということです。
  • 牧師は、歩き始めた子どもを思い浮かべるよう勧めます。母親は子どもの手を取り、父親は数歩先で待っています。もし親が子どもの前に障害物を置きながら「おいで」と呼び、子どもが顔から転ぶのを眺めていたら、どう思うでしょうか。「なんと残酷で、愛のないことか」と思うはずです。信仰がまだ幼い人々について、パウロが伝えようとしているのはまさにそのことです。

4. パウロは愛のために自分の自由を手放す

  • 「それ自体で汚れているものは、一つもないと、わたしは主イエスにあって知り、また確信している」(14節)。かつてパリサイ人であり、汚れた食べ物には決して触れなかったパウロは、キリストにある自由を知り、それを喜んでいました。第一テモテ4章4節にも、神が造られたものはすべて良いものだと書いています。
  • それでも、パウロは自分の確信を押しつけません。ある物を汚れていると考える人にとっては、それは汚れたものです。パウロは自分の確信を捨てはしませんが、同じ確信を持たない人を受け入れ、自分の自由が兄弟を倒すなら、喜んでそれを手放そうとします。「もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、決して肉を食べない」(コリント人への手紙第一8章13節)。
  • 私たちが兄弟姉妹を悲しませる方法はいくつもあります。自分の自由を傲慢に振りかざすこと。「私には権利がある。気に入らないなら、そちらの問題だ」。同じ自由を生きていない人を見下すこと。「何も分かっていない」と言って、ついには交わりを避けてしまうこと。あるいは、良心を乱すことを誰かにさせようと押しつけることです。
  • この最後の点は重大です。「信仰に基づかないことは、すべて罪である」(ローマ人への手紙14章23節)。聖書が禁じておらず、自由に任されていることだからといって、どんな状況でもしてよいわけではありません。神に喜ばれるか疑いながら、信仰なしにそれをするなら、罪になります。そして、疑っている兄弟に無理にさせることは、その人に罪を犯させることです。
  • 問題の核心は、自分の自由を愛よりも優先することにあります。「あなたの食べ物のことで、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも死なれたのである」(15節)。あなたの権利と、この兄弟と、どちらが重いでしょうか。彼は、ただ考え方の違う人ではありません。神の家族であり、キリストが命を捨ててくださったほどに愛されている人です。

5. 御国の民として:義を愛する

  • 「兄弟を滅ぼしてはならない」と言った後なら、行動の指示が来ると思うでしょう。「彼をつまずかせるものは何も食べず、何としても彼を我慢しなさい」といった具合にです。しかしパウロはそうしません。パウロは、御国の民としての私たちの立場に目を向けさせます。「神の国は飲食ではなく、義と平和と、聖霊における喜びとである」(17節)。
  • 神は「わたしたちを暗闇の力から救い出して、愛する御子の支配の中に移してくださった」(コロサイ人への手紙1章13節)。自分自身が王だった古い生き方は終わりました。いま私たちは、イエスを王として生きています。
  • 17節の三つの言葉は、ローマ人への手紙5章1〜2節にも出てきます。まず義です。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから」。だれも行いによって義とされた人はいません。私たちには、神が求める聖さに届くことはできませんでした。義なるイエスが私たちの身代わりに死なれ、神は、イエスを信じる者を義と宣言してくださいます。
  • 義を愛するとは、まず、それを当たり前とせず、絶えず感謝して、その義によって生きることです。次に、日々の生活の中で義を追い求めることです。私たちの肢体を「義の武器として神にささげ」ます(ローマ人への手紙6章13節)。神の前で、いわば縦の義を受けた人は、人との関わりの中で、いわば横の義を求めるのです。

6. 聖霊による平和と喜びを愛する

  • 「わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」(ローマ人への手紙5章1節)。いつもそうだったわけではありません。私たちはかたくなな心を持つ敵でした。そのように歩んでいたとき、イエスは私たちを神と和解させるために命をささげてくださいました(ローマ人への手紙5章10節)。この平和を得るために、私たちは何もしていません。
  • 神との平和を得たことに感謝している人は、平和をつくる人になります。「あなたがたは、力の及ぶかぎり、すべての人と平和に過ごしなさい」(ローマ人への手紙12章18節)。縦の平和を味わった人は、横の平和を保とうとします。
  • 聖霊による喜びとは、救いと「神の栄光にあずかる希望」を喜ぶことです(ローマ人への手紙5章2節)。神はイエスにおいて私たちに出会い、罪を赦し、キリストと結び合わせ、ご自分の家族として迎え、やがて来る栄光にあずからせてくださいました。この世の苦しみは、ほんのしばらくのものにすぎません。
  • 「あなたは、救いを毎日どれほど喜んでいますか。」この喜びを味わう人は、それを自分の中だけにとどめません。神が兄弟姉妹にしてくださっていることを、ともに喜びます。
  • 御国の民として生きるとは、過ぎ去るものではなく、永遠に残るものに目を注ぐことです。自分の考えや権利や好みを、どこまで押し通してよいのか。それは中心ではありません。ふさわしくないのに義と平和と喜びを受けた人は、受けた愛を人に伝えようとします。

7. 建築現場で、兄弟を建て上げる

  • 牧師はまず、まだ信じていない人に語りかけます。もっと優しい人になることや、折り合いをつけることが問題なのではありません。まず救いを知り、神のあわれみを求め、イエス・キリストを救い主、また主として自ら受け入れることです。
  • イエスを受け入れた人にとって、この歩みは神に喜ばれ、証しとなります。「このようにしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、また人々にも認められる」(18節)。私たちはもはや自分にだけ仕える者ではなく、王であるキリストの僕です。
  • 「そこで、平和に役立つこと、互の徳を高めることを追い求めようではないか」(19節)。「徳を高める」と訳された言葉は、もともと建設、つまり建物を建て上げること、家を建てることを意味していました。
  • 違いに直面したとき、互いを壊すのではなく、愛をもって互いを建て上げましょう。教会は完成したホテルではありません。棟梁であるイエスが、いまも働いておられる建築現場です。そこにいる私たちは、客でも、不満を言う観客でもなく、ヘルメットをかぶって現場に立つ建築家です。
  • いつの日か、私たちは棟梁にお会いします。その日まで、ともに忠実に歩んでいきましょう。

心に留めたいこと

  • さばきは主だけのものです。私たちはみな主の前に立ち、兄弟に対する自分の態度について申し開きをします。
  • 他人に向けている熱心さを、自分自身に向けましょう。兄弟の行く手に、その人を倒すものを置かないよう気をつけなさい。
  • キリストにある自由は本物ですが、キリストが死んでくださった兄弟より重くなることは決してありません。
  • 神の国は、聖霊における義と平和と喜びです。神から受けたものは、人とともに生きるものです。
  • 教会は建築現場です。だれもが、兄弟を壊すのではなく建て上げるよう召されています。

個人への適用

  1. 今、自分に対してよりも厳しく接している相手はだれですか。
  2. 兄弟姉妹の良心を気にかけずに行使している自由はありませんか。
  3. 自分と同じ自由を生きていないという理由で、教会のだれかを避けたことはありませんか。
  4. 今週、神が与えてくださった義と平和と喜びを、何回喜びましたか。
  5. 今週、兄弟姉妹を建て上げるために、どんな具体的な行動ができますか。

引用された聖句

よくある質問

ローマ人への手紙14章13節の「決心しなさい」とはどういう意味ですか。

近藤崇志牧師は、「決心しなさい」と訳された言葉が、この節の初めにある「さばく」と同じギリシア語だと指摘します。パウロはいわば、兄弟をさばくのをやめて、むしろ自分自身をさばきなさいと言っているのです。他人に向けている熱心さを自分に向け、兄弟を罪に倒れさせるものを、その人の行く手に置かないようにしなさい、ということです。

兄弟を傷つけないために、クリスチャンの自由を手放すべきですか。

パウロは、それ自体で汚れているものは何もないと知っていました(ローマ人への手紙14章14節)。それでも、自分の自由が兄弟を倒すなら、喜んでそれを手放そうとしました。「もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、決して肉を食べない」(コリント人への手紙第一8章13節)。牧師によれば、問題の核心は、自分の自由を愛よりも優先することにあります。

「神の国は飲食ではなく」とはどういう意味ですか。

パウロは、外に現れる行動を正すだけでなく、御国の民としての私たちのアイデンティティに目を向けさせます。この御国は、聖霊における義と平和と喜びです(ローマ人への手紙14章17節)。神からこの三つの恵みを受けた人は、それを兄弟姉妹とともに生きようとします。

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