はじめに
バーミンガムのリバーサイド教会の牧師の一人、ネイサニエルは、ルカによる福音書24章とエマオへの道についての連続メッセージを続けています。この日曜日、教会は聖餐にあずかります。彼は素朴な問いに答えたいと考えています。なぜこのパンとこの杯なのか、なぜこの儀式なのか、なぜこれほど何度も繰り返すのか、という問いです。
出発点は35節です。二人の弟子は、イエスが「パンをさかれたとき」にイエスだとわかった、と語ります。道中ずっと、彼らの目はさえぎられて、イエスだとわからなかったのです。たった一つのしぐさが、すべてを解き放ちました。
牧師は、2026年は自分にとって「パンの年」だと打ち明けます。パン作りを学ぶことに挑戦したのです。そこでこのメッセージは、創世記から主の食卓まで、パンを出発点に進み、とても個人的な問いにたどり着きます。イエスがどなたであるかという記憶を、あなたの中によみがえらせるものは何でしょうか。
メッセージの流れ
1. パン、聖書全体を貫く一本の糸
- イエスの時代、小麦はごく一般的な作物で、パンはユダヤとガリラヤの主食でした。パンは前菜ではなく、食事の中心です。パンがあるかないかは、生き延びられるかどうかの問題でした。パンは食べ物を表し、生き続ける力を表します。
- 会衆は思い浮かんだ箇所を挙げます。荒野のマナ、五千人の給食、「わたしは命のパンである」、「わたしたちの日ごとの食物を、今日もお与えください」、最後の晩餐、エリヤを養った、尽きることのない粉と油が残るやもめ、過越しの種なしパンです。
- ベツレヘムは「パンの家」という意味です。イエスはそこで生まれ、ルツとボアズはそこで出会い、ダビデもそこで生まれました。
- 荒野で、サタンはイエスに石をパンに変えるよう勧め、イエスは申命記で答えます。「人はパンだけで生きるものではない」。牧師は、ヨセフが獄中で出会ったパン焼き人と、そのパンかごの夢にも触れます。
- イエスはパンの家で生まれ、パンを増やし、ご自分を命のパンと呼び、十字架で裂かれた体を思い出すために、弟子たちにパンを裂くよう求められました。パンは明らかに大切です。ぶどう酒もそうで、わたしたちのために流されたイエスの血に結びついています。
2. 記憶をよみがえらせるしぐさ
- 弟子たちを裁く前に、牧師は一つの話をします。劇団とツアーに出ていたとき、ある同僚の俳優を知っているはずなのに、どこで会ったのか思い出せませんでした。数週間後のある晩、ホテルでその同僚がトランプを配ると、すべてがよみがえりました。五年前、二人は同じイベントで働いていたのです。彼はカード手品をするマジシャンとして、牧師は仮面をつけた竹馬乗りとして。
- 眠っていた記憶を呼び覚ましたのは、目の前でもう一度行われたそのしぐさでした。弟子たちにとっても、目の前でイエスがパンを裂くのを見たことが、同じようなひらめきを生んだのかもしれません。「イエスだ。わたしたちは、イエスが死ぬのを見た。そのイエスが、生きて目の前におられる」。
- 聖書で「パンを裂く」は二つのことを意味します。食事を分かち合うことと、主の晩餐を行うことです。エマオで、弟子たちが見知らぬ人と聖餐を行った可能性はとても低いでしょう。長い道のりを歩き、夜も遅く、おなかもすいている。だから夕食をとります。けれども、彼らの目を開いたのは、イエスならではのしぐさでした。
- 彼らは最後の晩餐に居合わせたのでしょうか。それはわかりませんが、話は聞いていましたし、イエスは五千人のときなど、ほかの機会にもパンを裂いておられました。
3. 気晴らしと悲しみがイエスを覆い隠すとき
- 道中は、暗すぎたのかもしれません。悲しみに気をとられ、絶望に心を奪われていたのかもしれません。彼らの目は、イエスだとわからないようにさえぎられていました。
- 牧師は、わたしたちにも同じことが起こることがあると考えています。わたしたちの生活は、気を散らすもの、悲しみ、ストレス、そして時には世界で起きている出来事への絶望でいっぱいです。
- イエスがどなたであるか、そして何をしてくださったかという記憶が、わたしたちの中によみがえるように、何ができるでしょうか。一緒に聖餐にあずかり、一緒にパンを裂くことです。このしぐさを通して、わたしたちはもう一度、イエスと、イエスのもたらす自由と、イエスだけが与えられる希望を知ることができます。
4. 聖餐、共に味わう行い
- 聖餐(コミュニオン)という言葉は、「分かち合われた一致」あるいは「あずかること」を意味します。コリント人への第一の手紙10章16節のギリシャ語に由来します。
- キリストを見る目を新たにできる程度には頻繁であるべきですが、考えもせずに歯をみがくような習慣になってはいけません。リバーサイド教会では月に一度の日曜日に行いますが、イエスは頻度を定めておられません。
- これは共同の行いです。信仰には個人的な面もありますが、その多くの面は集まりの中で味わわれます。礼拝、告白、祝いです。エマオの弟子たちはすぐにエルサレムへ戻り、十一人の弟子たちに会います。彼らはこう言います。「主は、ほんとうによみがえった」。良い知らせは、わたしたちのところで止まりません。
- 牧師は、食事の時間に、ホームグループやイエスに従う友人たちと一緒に聖餐にあずかることをすすめます。また教会の立場も思い起こさせます。教会が受け継ぐプロテスタントの見方では、パンと杯は、イエスの体と血を思い出す助けとなるしるしです。
5. 食卓に招かれているのは誰か
- 子どものころ、牧師は洗礼を受けた人だけが聖餐にあずかれる教会に通っていました。その慣習には理由がありますが、イエスが定めた決まりではありません。
- 招いておられるのはイエスです。唯一の条件は、イエスを自分の救い主として知っていることです。この招きは、イエスとの関係の中でだけ成り立ちます。イエスを信じていない、あるいは従うことを選んでいないなら、パンを受けに来る意味はありません。それなら、罪を告白し、悔い改めて、今日イエスに従うことを選びませんか。
- わたしたちはみな罪人だったので、完全で聖なる神との関係を持つことができませんでした。何度も何度もいけにえをささげなければなりませんでした。その生涯と死と復活によって、イエスは一度限りの究極のいけにえとなられました。イエスはあなたをきよくして、あなたが神を知ることができるようにしてくださいます。
- 神を近くに感じても遠くに感じても、イエスに従うと決めたなら、この招きはあなたのためのものです。心を知っておられるのは神だけです。
6. 神に心を探っていただく時間
- 聖餐は、自分の生き方を見つめるのによい機会です。牧師は詩篇139篇の祈りをすすめます。「神よ、どうか、わたしを探って、わたしの心を知り、わたしを試みて、わたしの思いを知ってください」。
- あなたの人生に、神が来て整えてくださる必要のあることはありますか。ゆるさなければならない人はいますか。支配を手放して神に信頼することを拒んで、きつく握りしめているものはありませんか。
- 牧師は、一人ひとりがイエスだと気づき、心の一新によって造りかえられるよう招いています。
7. わたしたちは忘れっぽい、イエスはわたしたちを養われる
- なぜ聖餐にあずかるのでしょうか。イエスがそう求められたからです。そして、この儀式が出エジプトの過越しから、イエスがパンと杯を与えられた食事までの聖書の歴史全体をつないでいるからです。人間はすべてを台無しにし、イエスがわたしたちを救ってくださいました。
- 「わたしたちはとても忘れっぽいのです」。牧師は認めます。自分はしょっちゅう忘れる、と。わたしたちには、記憶を揺り動かしてもらう必要があります。パンと杯がそれを呼び覚まし、わたしたちが自分の生活の中でイエスだと気づけるようにしてくれます。
- イエスが本当に命のパンなら、わたしたちはこの世界で生き延びるためにイエスを必要としています。霊的にわたしたちを養ってくださるのは、イエスです。その体が、わたしたちのために裂かれたお方です。
- この気づきの形は、人によって違うでしょう。ある人は知識を通して、ある人は体験を通して、イエスの声を聞くことを通して気づきます。イエスを示していただくために、みな聖霊を必要としています。
- 牧師は、神経発達の特性がある人や、障がいのある人にも語りかけます。神はあなたを造られたのですから、あなたがどのように造られているかをすでに考えに入れておられ、あなたが神との関係に入る道を見つけてくださいます。教会は、あなたがいなければ欠けたものになります。「パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つの体である」。
心に留めたいこと
- パンは、マナから主の晩餐まで聖書全体を貫いており、イエスはご自分を命のパンとして示されます。
- エマオの弟子たちは、イエスがパンを裂いたときにイエスだとわかりました。なじみのあるしぐさが、悲しみが覆っていたものを呼び覚ましたのです。
- 聖餐は分かち合う行いです。キリストを見る目を新たにできるほど頻繁で、しかも習慣にならないことが大切です。
- ご自分の食卓に招いておられるのはイエスです。唯一の条件は、イエスを知り、従うことを選ぶことです。
- わたしたちは忘れっぽい。パンと杯は記憶を揺り動かし、わたしたちが生活の中でイエスだと気づけるようにしてくれます。
個人的な適用
- 今、あなたがイエスだと気づくのを妨げているものは何ですか。気晴らし、悲しみ、ストレス、絶望でしょうか。
- 習慣としてではなく、本当に心を込めて聖餐にあずかったのは、最後にいつですか。
- 今週、「神よ、わたしを探って、わたしの心を知ってください」と祈り、神が整えたいと願っておられることを示していただけますか。
- ゆるさなければならない人はいますか。あるいは、支配を手放すことを拒んでいる領域はありますか。
- 誰と一緒に食事をして、イエスを思い出しながらパンを裂けるでしょうか。
引用された聖句
- ルカによる福音書24章13〜35節
- 出エジプト記16章
- 出エジプト記12章
- 創世記40章
- 列王記上17章8〜16節
- 申命記8章3節
- 伝道の書11章1節
- 詩篇139篇23〜24節
- マタイによる福音書4章3〜4節
- マタイによる福音書6章11節
- マタイによる福音書14章13〜21節
- ヨハネによる福音書6章35節
- ローマ人への手紙12章2節
- コリント人への第一の手紙10章16〜17節
- コリント人への第一の手紙11章23〜26節
よくある質問
エマオの弟子たちは、なぜすぐにイエスだとわからなかったのですか。
ルカによる福音書24章16節は、彼らの目がさえぎられてイエスだとわからなかったと記しています。牧師は推測も述べています。暗すぎたのかもしれないし、悲しみに気をとられ、絶望に心を奪われていたのかもしれません。イエスがパンを裂いたとき、彼らがよく知っていたそのしぐさによって、記憶がよみがえったのです。
聖餐(コミュニオン)という言葉は何を意味しますか。
この言葉は、分かち合われた一致、あずかることを意味します。コリント人への第一の手紙10章16節で使われているギリシャ語に由来します。聖餐は共に味わう行いです。パンは一つであり、多くいるわたしたちは一つの体なのです。
誰が聖餐にあずかれますか。
伝統は教会によって異なります。リバーサイド教会では、招いておられるのはイエスであり、唯一の条件はイエスを自分の救い主として知っていることです。神を近くに感じても遠くに感じても、イエスに従うと決めたなら、この招きはあなたのためのものです。まだそうでないなら、今日悔い改めて、イエスに従うことを選ぶことができます。
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