はじめに
「主の祈り」と聞くと、多くの人はイエスが弟子たちに教えた「主の祈り」を思い浮かべます。「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきたりますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」ヨハネの福音書17章は、これとは違います。イエスが教えた祈りではなく、イエスご自身が神にささげた祈りです。
久米島希望が丘キリスト教会(沖縄の離島にある教会)の牧師、木下千尋は、この場面を最後の晩餐のあと、二階座敷とゲツセマネの園(イエスが着くのは18章です)の間のどこかだと見ています。それから二十四時間もたたないうちに、イエスは十字架につけられます。「イエスさまが最後の最後に神さまに願われたことには、きっと大きな意味があるはずです。」
牧師は、この章が難しく、具体的にはつかみにくいと率直に認めています。そのうえで、三つに分けて読みます。イエスご自身のための祈り(1〜5節)、弟子たちのための祈り(6〜19節)、そして、私たちも含めて、イエスを信じるすべての人のための祈り(20〜26節)です。この章を学ぶと、イエスがあなたに何を望んでおられるのか、この地上でどのように生きてほしいと願っておられるのかが分かります。
メッセージの流れ
1. 「父よ、時がきました」:確信に満ちた祈り
- それまでイエスは、「わたしの時はまだ来ていない」と繰り返してきました。ここでは「父よ、時がきました」と言われます。逮捕、十字架、復活、昇天の時です。
- イエスは、これから起こることを、すでに成し遂げられたことのように語っています。「そうなればいいな」という調子で祈っているのではありません。必ずそうなると確信しています。
- 神のみこころにかなうことを求めるとき、私たちも同じ確信をもって祈ることができます。牧師は、ヨハネの手紙第一5章14節と、「わたしの名によって求めるなら、父はそれを与えてくださる」というイエスの約束を引用しました。
- 「子の栄光をあらわして下さい」という願いにある栄光とは、救いのわざが最後までやり遂げられることです。十字架は罪の赦しをもたらします。復活は、聖霊によって、まったく新しい被造物として神のために生きる力を与えます。天に戻られることは、イエスが義と認められたことを示しています。
- イエスは十字架を敗北とは見ていません。それは圧倒的な勝利であり、信じる者はみな赦され、イエスと同じ義を受け、イエスとともに神の国を受け継ぎます。
- 「イエスさまが祈られたのですから、私たちが祈らなければ、何も起こりません。」神は私たちに先立って歩み、私たちに必要なものを知り、備えてくださいます。しかし、信仰をもって求めなければ、神が備えてくださったものを受け取ることはできません。「だからこそ、『求めなさい』と書かれているのです。」
2. 永遠のいのち:体験を通して神を知ること
- 「永遠の生命とは、唯一のまことの神でいますあなたと、またあなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」(3節)。イエスは、父が御自分に与えてくださった人々、つまりイエスを信じる人々に、このいのちを与えます。
- 「すべての人間」に及ぶ権威は、あらゆる人に関わります。一人ひとりの魂の永遠の行き先は、その人がイエスをどう受け入れるかにかかっています。神はすべての人が救われて真理を悟るようになり、悔い改めに至ることを望んでおられ、イエスはすべての人のために死なれました。
- 神の選びと人の応答は、いつも一緒にあります。「私の小さな頭では理解できません。」誰にもできませんし、その必要もありません。あなたが信じたのなら、神は世界の基が据えられる前にキリストにあってあなたを選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされたのです。
- 理解することと信じることは、いつも一致するわけではありません。「全部分かってしまったら、信仰の入る余地はありません。分かっていることは事実であって、信じる必要はないのです。」
- ヨハネの福音書17章には「知る」という言葉が何度も出てきます。ギリシア語の動詞はギノスコーで、オイダのように頭だけで知るのではなく、体験を通して知ることを意味します。永遠のいのちとは、神との関係です。
- 牧師は、こんな例を挙げました。娘に「愛しているよ」と言いながら、冷たく接し、いつも無視していたら、その言葉は伝わりません。愛は、味わってはじめて知るものです。神の愛は十字架で示されました。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(ヨハネの手紙第一4章10節)。
- 神の愛をいちばん味わえるのは、罪を犯したとき、言いたくなかったことを言い、したくなかったことをしてしまったときです。そんなことまでキリストにあって赦してくださると分かるとき、神があなたを愛しておられると知ります。願いがかなうことに神の愛の証拠を探すのは、疲れます。私たちの求め方や時期が、神のそれと同じとは限らないからです。けれども十字架のもとでは、どんな状況でも神の愛を味わうことができます。
3. 無理をせず祈ること、「身近な戦い」から始めること
- 「わたしは、わたしにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました」(4節)。イエスは福音を宣べ伝え、病人をいやし、悪霊を追い出しました。しかし、何よりも大切なわざは、十字架と復活と昇天であり、イエスはそれをすでに済んだことのように語っています。
- 牧師は注意を促します。信仰がついてこないのに、無理に「イエスの名によって、そうなる」と宣言する必要はありません。こう言ってかまいません。「今、私の信仰はうまく働いていません。でも、あなたの助けにより頼みます。助けてください。」
- あなたが求めているのが、人の救いや、神の望まれるとおりに歩む力など、みことばに沿ったことなら、いつ、どのように答えが来るか分からなくても、祈り続けてください。
- 弱さの中で、神により頼んでください。「また失敗した」と自分を責め続けるのは、神の愛を拒むことになります。「できないからこそ、神の愛と赦しと助けが必要なのです。」
- イエスは、私たちと同じ弱さのある肉体をまとい、父との関係から生まれる確信をもって祈りました。私たちもそのように祈ることを学べます。
- 「身近な戦い」から始める必要があります。毎日祈ることさえやっとなのに、自分を通して百人が救われるようにと求めても仕方がありません。まず基本から始めます。職場や学校で少しでも神を思い出すこと、不安の中でも平安でいることです。
- こうした小さな答えは、階段のように積み重なっていきます。弱さを分かち合い、ほかの人に一緒に祈ってもらいます。それが交わりです。一週間後や一か月後に、神がどう答えてくださったかを話しに戻ると、一緒に祈ってくれた人たちも励まされます。
- 「あなたがたが実を結んで、わたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」(ヨハネの福音書15章8節)。この実は、私たちの意志や粘り強さから生まれるものではありません。牧師はユーモアを交えて、一週間の祈りの記録をつけている人を想像します。「一年後にまた来てください」と言うと、そのノートは途絶えているでしょう。聖霊は心の奥に願いを与え、不可能だったことが可能になります。だから、栄光は神のものなのです。
4. 世界が造られる前の栄光、そして動機の問題
- 5節で、イエスは世界が造られる前に父のもとで持っていた栄光を求めています。ところが神は、イザヤ書48章11節でこう言われます。「わたしはわが栄光を他の者に与えない。」イエスがこの栄光を分かち合っているのは、父と一つでありながら、別の位格であるからです。
- パウロはピリピ人への手紙でこう語ります。イエスはこの栄光を持っていましたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、私たちと同じ肉体をまとい、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
- イエスは、父が栄光を受けるために、御自分が栄光を受けることを願っています。「私を用いてください、私を通して働いてください」と祈ることは、悪い祈りではありませんが、動機を確かめる必要があります。
- 牧師は率直に打ち明けます。人が救われるように、教会が成長するようにと、自分の満足のために願ってしまうことがあるそうです。「何年も牧師をしているのだから、それなりに形になっていなければ、と思ってしまうのです。」私たちは、神のご計画が実現し、神が栄光を受けるように祈りたいのです。
5. イエスは神の御名を示し、弟子たちはその御名のうちに喜びをもって守られる
- 「あなたが世から選んで与えて下さった人々に、わたしはみ名をあらわしました」(6節)。ギリシア語の動詞(ファネロオー)は、おおいを取りのけるように、見えるようにするという意味です。
- 神の御名はヤハウェ、「わたしはある」です。「わたしはある。わたしは、あなたに必要なすべてである。」イエスはこの御名を教えただけでなく、この御名にしっかりつながって生きるとはどういうことかを示されました。
- イエスには、足りないものが何もありませんでした。五千人の男たちを前に、五つのパンと二匹の魚で、食べ物は増えました。神殿税を払う必要があったときは、ペテロを魚釣りに行かせ、口の中に硬貨をくわえた魚を釣らせました。「わたしとあなたの分」と言われたのです。「ほかの十一人がどうしたのかは、分かりませんが」と牧師は微笑みます。
- イエスは父にこう言います。「彼らはあなたのみ言葉を守りました。」それなのに、イエスは弟子たちの信仰の薄さをたびたび咎め、彼らは誰がいちばん偉いかと言い争っていました。イエスを信じる信仰によって義と認められるとは、まさにこのことです。神は私たちを、みことばをすべて守った者として見てくださいます。
- だからといって、もうすることがないという意味ではありません。聖霊が罪を照らし出し、神がすでに自分を義と宣言してくださっていることを思い出すとき、この恵みが分かります。
- 弟子たちの理解は不完全でしたが、イエスが父から来られたことを、体験を通して知っていました。イエスを百パーセント理解することは決してできませんが、理解できないことも含めて信じることはできます。関係の中で、知ることは深まっていきます。
- 「わたしは彼らのためにお願いします。(中略)彼らはあなたのものだからです」(9節)。あなたは神のものですから、確信をもって祈れます。「助けてください。この人を助けてください。」
- 弟子たちの信仰は、イエスの栄光をあらわしました。ペテロとヨハネが神殿の門で足の不自由な人をいやしたとき、群衆は驚きました。ペテロは、それは自分たちの信心によるのではなく、すべてイエスの名によると答えました。
- イエスは、弟子たちが父の御名のうちに守られるようにと願っています。滅びの子であるユダだけが滅びました。神の選びとユダの選択は両立します。ユダにも、悔い改める機会がありました。ペテロはイエスを三度否定しましたが、イエスを信頼し、赦されることを選びました。
- 神との生きた関係の中で守られているなら、弟子たちは完全に一つになれます。それがなければ、また「誰がいちばん偉いのか」という問いに戻ってしまいます。
- イエスはまた、弟子たちが御自分の喜びを、自分のうちに満ちあふれるほど持つようにと願っています(13節)。ヨハネ以外の弟子たちは、みな殉教しました。この喜びは、世の喜び(健康、お金、仕事や勉強での成功)ではありません。むち打たれた使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるに足る者とされたことを喜びました。
- 「言葉につくせない、栄えに満ちた喜びに溢れている。それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救を得ているからである」(ペテロの手紙第一1章8-9節)。この喜びは、特別な強さや知恵から来るのではなく、体験として知った救いから来ます。もし足りないなら、求めてください。
- 牧師は正直です。殉教のときにこの喜びがあるかどうかは分からない(もっとも、殉教者になりたいと願っているわけではありません)が、そのときが来れば与えられるだろうと思っているそうです。けれども、今、喜びがあることは確かで、それがもっと大きくなることを願っています。「何が起こっても、死の瞬間でさえも、平安と喜びの中にいたいのです。」
6. 世にあって、悪から守られ、みことばによって聖別される
- 「世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです」(14節)。弟子たちの行いも心も完全ではありませんが、イエスを信じる信仰が、彼らを世から区別します。迫害とまでは言わなくても、周りの人はやがて気づきます。「あなたは違うね」と。
- 「わたしがお願いするのは、彼らをこの世から取り去って下さることではなく、悪しき者から守って下さることであります」(15節)。イエスを信じても、地上での生活が終わるわけではありません。ここにとどまることには意味があります。けれども、悪魔とその影響、そして御霊に従うのを妨げるさまざまな圧力があります。「それは当たり前のことです。」イエスは、私たちがそれらから守られるように祈ってくださいます。
- 「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります」(17節)。聖別してくださるのは神です。クリスチャンだからあれもしない、これもしないと、あちこちで公言して、わざわざ角を立てる必要はありません。聖霊が少しずつ、あなたの考え方や感じ方を変えてくださり、区別は自然に起こります。
- それはみことばを通して起こります。「聖書を読んでいますか。」読むべきルールとしてではなく、「今日は、こう生きよう」と心に迫られるように読むのです。毎日の黙想の本で今日の箇所を読み、「はい、終わり、さようなら」と仕事に出かけてしまっては、御霊が語ろうとすることを聞く時間がありません。立ち止まって、耳を傾けることも必要です。
- 「たくさん寝たい。毎日疲れている。」牧師は、その両方を天秤にかけ、神の前に聖くありたいという願いが自分の中で大きくなるようにと神に求めます。自分の意志だけでは、とてもできません。けれども御霊は、ちょうどよいときに励ましてくださいます。「今日は座ろう。」「五分早く起きなさい。」「していることをやめて、神の前に出なさい。」
- みことばを読み、神の声を聞き、御霊によって理解し、毎日実行する。そうして私たちは本当に知り(ギノスコー)、聖別されます。それがなければ、世に遣わされたクリスチャンには、色も、香りも、光もありません。
7. すべての信者の一致:愛に基づく一致と、埋めるべき隔たり
- 「わたしは、ただ、この人たちのためだけではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします」(20節)。イエスは「誰かが信じてくれればいいのですが」と祈っているのではありません。信じる人が必ず起こされると確信しています。
- イエスは、すべての人が一つになるようにと願っています(21節)。教派の違い、プロテスタントとカトリックなど、「うちのやり方が正しい」とぶつかり合うのは悲しいことです。踊ったり輪になったりしてイエスをほめたたえたい人は、そうしてかまいません。「私たちの教会ではしませんが、賛美の仕方はいろいろあってよいのです。」
- みことばのある読み方については、一致できないこともあります。けれども、イエス・キリストを信じるなら、私たちはキリストにあって一つになれます。教会の一致は、家族や友人、社会的なしがらみではなく、イエスにかかっています。
- 一致するのは無理だと思える人、「気難しい人」も現れます。それが神のみこころなのですから、必ず実現します。「どんなに豊かな説教があっても、どんなに素晴らしい賛美チームがあっても、どんなに立派な会堂があっても、キリストにあって一つでなければ、意味がありません。」
- 一致の土台は愛です。神がイエスを愛されるようにあなたも愛されていて、その人も愛されていると、体験を通して知ることです。そうでなければ、「どうしてあの人はできないのだろう。どうしてあんなことを言うのだろう」と思ってしまいます。自分がどれほど愛され、赦されてきたかを知らなければ、人を愛することはできません。
- コロサイ人への手紙1章6節は、福音が実を結び、神の恵みを「真理のとおり」に知った日から、広がり続けていると語っています。恵みを理解すると勢いが生まれ、一致によって、私たちが遣わされた地域に神の国が広がります。「リバイバルは、教会からしか始まりません。」
- 25節と26節で、イエスは、父の愛が私たちのうちにあるように、そしてイエスご自身が私たちのうちにおられるようにと願っています。こうして私たちは、神の御名、すなわち私たちに必要なすべてである方を、体験を通して知るのです。
- まとめると、イエスは、父が栄光を受けるために、御自分の栄光を求められました。弟子たちが神の御名のうちに守られ、悪から守られ、世にあって聖別されるように願われました。そして、私たちが一つになり、神の愛を知り続け、走るべき道のりを走り終えることを願われました。
- もし、あなたの願いとイエスの願いの間に隔たりがあるなら、それが埋められるように祈ってください。「私の心があなたの心と一つになるよう、助けてください。」
- また、日曜日にうなずいたことを、家に帰るとなぜ忘れてしまうのかを神に示していただき、聖霊にその原因を取り除いてくださるよう求めましょう。
- 「イエスは、必ず実現するという確信をもって、私たちのために祈ってくださいました。ですから、イエスの祈りに寄り添われながら祈りましょう。求めましょう。そうすれば、与えられます。」
心に留めたいこと
- ヨハネの福音書17章は、教えられた祈りではなく、イエスが十字架の前に、聞かれるという確信をもって、ご自身で父にささげた祈りです。
- 永遠のいのちとは、体験を通して神を知ること(ギノスコー)です。とりわけ十字架のもとで、神の愛を味わう関係です。
- 神はあなたに必要なものを備えてくださいますが、信仰をもって求めるよう招いておられます。日常の小さな戦いから始めましょう。
- 聖別してくださるのは神であり、みことばと御霊によります。あなたは世にとどまりますが、世から守られています。
- 信者の一致は、気が合うかどうかではなく、イエスと、神から受けた愛にかかっています。そこにこそ、神の栄光があらわれます。
個人的な適用
- あなたの生活のどの分野で、求めることをあきらめ、状況が変わればいいなと願うだけになっていますか。
- 最後に、特定の過ちの赦しを受けて、神の愛を味わったのはいつですか。
- 今週、どんな「身近な戦い」に取り組めますか。朝五分早く起きる、読んだあとに静まる時間を持つ、職場や学校で祈る、などです。
- 弱さを分かち合って一緒に祈り、あとで神の答えを報告できる人は誰ですか。
- あなたの教会に、一致するのが難しいと感じる人はいませんか。神があなたを愛するようにその人も愛しておられると知ると、何が変わりますか。
引用した聖書の箇所
- ヨハネの福音書17章
- マタイの福音書6章9-13節
- ルカの福音書11章1節
- ヨハネの手紙第一5章14節
- ヨハネの福音書16章23節
- テモテへの手紙第一2章4節
- ペテロの手紙第二3章9節
- エペソ人への手紙1章4節
- ヨハネの手紙第一4章10節
- ヨハネの福音書15章8節
- イザヤ書48章11節
- ピリピ人への手紙2章6-8節
- 出エジプト記3章14節
- マタイの福音書14章13-21節
- マタイの福音書17章24-27節
- 使徒の働き3章1-16節
- 使徒の働き5章40-41節
- ペテロの手紙第一1章8-9節
- コロサイ人への手紙1章6節
よくある質問
主の祈りとヨハネの福音書17章の祈りは、どう違いますか。
主の祈りは、弟子たちが祈りを教えてほしいと頼んだときに、イエスが教えた祈りです。ヨハネの福音書17章は、最後の晩餐のあと、ゲツセマネの前、十字架の二十四時間足らず前に、イエスご自身が父にささげた祈りです。イエスはそこで、ご自身のために(1〜5節)、弟子たちのために(6〜19節)、そしてイエスを信じるすべての人のために(20〜26節)祈っています。
ヨハネの福音書17章3節で神を「知る」とは、どういう意味ですか。
木下千尋牧師は、ここで使われているギリシア語はギノスコーで、頭だけで知るのではなく、体験を通して知ることだと説明しています。永遠のいのちとは、神との関係であり、その中で神の愛を味わいます。とくに十字架のもとで、過ちの赦しを受けるときに味わうのです。
なぜイエスは、弟子たちを世から取り去ってほしいと願わなかったのですか。
イエスを信じても、地上での生活は終わらないからです。父がイエスを世に遣わされたように、イエスも弟子たちを世に遣わしますから、世にとどまることには意味があります。そこでイエスは、彼らが悪から守られ、真理、すなわち神のみことばによって、聖霊の働きのもとで聖別されるようにと願っています。
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