「取るに足りないしもべ」:あなたの務めは純粋な恵みのまま
あなたは祈り、仕え、時間を捧げてきました。そして時々、小さな声がこうささやきます。「主は今、私に何かを返してくださるはずだ」と。まさにそのとき、イエス様はあなたの歩みを止めて、誇りを刺し、心を自由にする言葉を語られます。「私たちは取るに足りないしもべです。しなければならないことをしたに過ぎません。」
2025年6月15日、ミカエル・ベナ牧師はルカ17章7〜10節を会衆の前で開きました。福音書の中でも他に類を見ない、短くユニークな箇所です。仕えることに慣れるあまり、自分を欠かせない存在だと思い込んでしまう人々への誇りに対する解毒剤です。この箇所はあなたの働きを軽んじるものではありません。栄光がふさわしい場所、すなわち神おひとりのもとへと戻すのです。
イエス様があなたを「取るに足りないしもべ」と呼ぶとき、本当は何を伝えようとしておられるのか。そして、この厳しい言葉が実は大きな安堵であることを見ていきましょう。
メッセージの構成
1. 福音書の中で唯一の箇所
ルカ17章7〜10節は、聖書の他のどこにも見られない、とても短い箇所です。イエス様ご自身がこう語られます。「あなたがたのうちだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいて、彼が畑から帰って来たとき、『さあ、来てすぐ食卓に着きなさい』と言うでしょうか。むしろ、こう言うのではないでしょうか。『私の夕食の用意をしなさい。帯を締めて、私が食べたり飲んだりする間、私に給仕しなさい。その後で、あなたも食べたり飲んだりすればよい』と。しもべが命じられたことを行ったからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。同じように、あなたがたも、命じられたことをみな行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしたに過ぎません』と言いなさい。」
このときイエス様は、最後にエルサレムへ向かう道の途中におられました。ご自分が死ぬことをご存じでした。まず使徒たちに、それから牧会や教え、伝道といった働きに全面的に携わる者たちに教えを語られます。しかし聖書における「奉仕」という言葉は、単純に「仕えること」を意味します。そして私たちは皆、それぞれの働きを持っています。隣人への奉仕と神への奉仕において、それぞれが持つべき場所があるのです。
語りの形は単純です。イエス様が投げかける三つの修辞的な問いと、それに続く結論です。これは聞く人自身に真理を気づかせるための、ラビ的な語り方です。この方法は今日でも有効です。あなたに反論する人に、あなたの考えをただ繰り返すのではなく、問いかけて、その人自身に考えさせるとよいのです。
2. なぜイエス様は弟子たちを奴隷にたとえられたのでしょうか
21世紀の私たちには、このたとえは衝撃的に響くかもしれません。しかしローマ帝国では、奴隷制度は当たり前のこととされていました。イエス様は決して奴隷制度を是認してはおられません。聖書は新約聖書の三つの箇所で、これをはっきりと否定しています。テモテへの手紙第一1章10節では、パウロが人身売買をする者たちを、父や母を殺す者と同列に置いています。ピレモンへの手紙では、パウロがキリストにあって兄弟となった奴隷を解放するよう、クリスチャンの主人に求めています。そして黙示録18章13節では、人の魂と体を売買したかどでバビロンが裁かれています。
歴史を見ると、教会が誕生した最初の三世紀、改宗者の大多数は帝国内で最も軽んじられていた四つの階層、すなわち女性、子ども、貧しい人々、そして奴隷たちの中から生まれました。奴隷制度が悪であると最初に気づいたのは、クリスチャンたちでした。賛美歌『アメイジング・グレイス』は、かつて奴隷商人だった人物が神との出会いによって変えられ、残りの生涯をこの悪との戦いに捧げたことから生まれました。
この箇所で「しもべ」と訳されているギリシャ語は、実は「奴隷」という言葉で、三度登場します。イエス様は、畑を耕し、羊を守り、食卓に給仕し、すべてを終えてから初めて食事をとる一人の奴隷を描いておられます。厳しいイメージですが、それは心のあり方について、はっきりとしたことを語るためのものです。
3. この人間の主人と違い、神が「そうではない」もの
すべてのたとえ話には限界があります。この物語の人間の主人は、神と同一ではありません。神は容赦のない、不当な、抑圧的な主人ではありません。神は聖書全体を通して、善良で、あわれみ深く、正しく、解放してくださる主人として現れます。その証拠に、イエス様ご自身がこう言われます。「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである。」
神は仕えられることを求めることもできたはずです。私たちのいのちの息は神に依存しているのですから。今朝あなたが目を覚ましたのも、ただ神のおかげです。ですから神は、私たちを単なる奴隷として見ることもできたはずです。しかし神はそうなさいません。イエス様は言われます。「あなたがたは私を『先生』とも『主』とも呼びます。そのとおりだからです」と。しかしその直後に、この違いを示されます。私たちの神への隷属は、人間同士の奴隷制度とはまったく違うものです。なぜなら、私たちは強いられているのではなく、自由なのです。私たちは自ら主に仕えることを選び取りました。これは逆説です。「自由な隷属」なのです。イエス様に倣って、私たちは自らその「奴隷」となることを選んだのです。
しかし私たちがこの隷属を選んだのは、真の自由のためでした。パウロはローマ人への手紙8章15節でこう書いています。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。私たちはその御霊によって『アバ、父』と呼びます。」またガラテヤ人への手紙4章6〜7節にはこうあります。「このようにあなたは、もはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人でもあります。」そしてイエス様はヨハネ15章15節でさらにこう言われます。「私はもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人が何をしているか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたに知らせたからです。」
あなたは神の子であり、神の相続人であり、神の友です。これはほかのどんな隷属ともまったく異なるものなのです。
4. イエス様があなたを解放してくださった四つの隷属
キリストにあって、あなたは自由にされています。イエス様は、いくつもの隷属からあなたを解放するために来られました。
- 無知という隷属。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8章32節)。
- 罪という隷属。「罪を行う者はみな罪の奴隷です。ですから、御子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になります」(ヨハネ8章34〜36節)。
- 死への恐怖という隷属。ヘブル人への手紙2章14〜15節には、イエス様が来られたのは、死の恐怖のために生涯奴隷状態にとらわれていた人々を解放するためだったと書かれています。もしこの恐れがあなたを苦しめているなら、どうかこの御言葉にしっかりとつかまってください。
- 人という隷属。「人の奴隷になってはいけません」(コリント人への手紙第一7章23節)。あなたは人に仕えるしもべである前に、まず神の奴隷です。人はあなたを、たとえ一見良さそうな計画であっても、自分たちの計画に引き込もうとすることがあります。しかしそれが神の計画でなければ、うまくいきません。あなたが最終的に申し開きをするのは、まず何よりも神に対してなのです。
5. ご自身を奴隷とされた神
神とこの人間の主人とのもう一つの違いは、神ご自身が奴隷となられたということです。イエス様は奴隷として生き、奴隷として死なれました。当時、十字架刑は奴隷に科される刑罰でした。だからこそローマ市民であった使徒パウロは、十字架ではなく斬首されたのです。私たちの神は、十字架の上で奴隷たち一人ひとりのため、そして私たち一人ひとりのために死ぬことによって、奴隷たちとご自身を重ね合わせることを選ばれました。
人間の主人と違い、主はただ命じるだけではなく、ご自身でそれを実践されます。イエス様は地上において、語られる言葉と行われる業とが完全に一致していた唯一の人です。イエス様が語ったことと行ったことの間に、矛盾は一つも見つかりません。私たちの身近な人々(配偶者、親、子ども)は、私たちの矛盾をすぐに見抜きます。しかしイエス様は、一度も罪を犯されませんでした。
さらに驚くべきことがあります。ルカ12章37節で、イエス様は、ご自分が再び来られるとき、御国の食卓であなたに給仕するのはご自身であると告げておられます。最初に来られたときに人々に仕えられたように、二度目に来られるときも仕えてくださるのです。弟子たちの足を洗われたとき、イエス様は奴隷の姿と重なりました。それは奴隷にのみ許された行為だったからです。初代教会の時代、多くの奴隷たちがキリストに改宗した理由も、こうしてよく分かります。
6. 「取るに足りないしもべ」とは本当は何を意味するのか
イエス様の結論は、あなたへの命令です。「同じように、あなたがたも、命じられたことをみな行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしたに過ぎません』と言いなさい。」
「取るに足りない」という言葉は、「欠かせないわけではないしもべ」、さらに強く言えば「役に立たないしもべ」とも訳すことができます。私たち自身の力では、何も役に立つことはできません。私たちには良いことを何一つ生み出す力はありません。良いことを生み出せるのは、ただ主によってのみです。私たちが行うすべての良い業は、主が私たちを通して行われるものです。
ただし注意してください。一人ひとり独自に造られた存在として、私たちはかけがえのない存在です。あなたと全く同じ人は、この地上に一人もいません。しかし私たちは、主の働きに欠かせない存在ではありません。主は私たちをご自分の計画に用いる義務など、なかったのです。それはただ主の恵みによってなされていることです。イエス様はここで、栄光を自分のものとしてはならない、神に属する栄光を盗んではならないと語っておられるのです。
使徒の働きには、ある王ヘロデが民衆からこう称賛される場面があります。「これは神の声だ、人間の声ではない!」神はそのとき彼を恐ろしい死をもって打たれました。神に栄光を帰さなかったからです(使徒の働き12章20〜23節)。誇りに対するすばらしい解毒剤がコリント人への手紙第一4章7節にあります。「あなたが持っているもので、いただかなかったものが、何かあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったかのように誇るのですか。」
ここでもまた、イエス様はご自分が実践しなかったことを求めてはおられません。イエス様はこう言われました。「わたしは心優しく、へりくだっているから」(マタイ11章29節)。ほかの誰かがこれを言えば、うわべだけの言葉に聞こえるでしょう。しかしイエス様が語られると、それは真実に響きます。イエス様はまさに誠実そのものだったからです。そして箴言27章2節はこう教えます。「自分の口ではなく、他人があなたをほめるようにせよ。」私たちには、自分で自分を誉め称える権利はないのです。
7. 神に対して取りうる三つの態度
最後に、神に対してあなたが取りうる三つの極端な態度についてお話しします。二つは間違った態度、一つは正しい態度です。
一つ目の間違った態度:何もしないこと。自分は欠かせない存在ではないのだから、神は自分抜きで備えてくださると言い訳をすること。イエス様はこの態度に対して非常に厳しく語っておられます。タラントのたとえの中で、自分のタラントを土に埋めたしもべを「悪いなまけ者」と呼んでおられます(マタイ25章26節)。
二つ目の間違った態度:たくさん働くが、神が自分に何かを返す義務があると考えること。これは放蕩息子のたとえに出てくる兄息子の陥った罠です。弟が帰ってきて父が祝宴を開いたとき、兄はこう爆発します。「ご覧ください。私は何年もあなたに仕えて、一度もあなたのご命令に背いたことはありません。それなのに、私が友達と楽しむために、子やぎ一匹も下さったことがありません」(ルカ15章29節)。こう言うことによって、この兄は「ギブアンドテイク」の関係の中で仕えていたことを露呈しています。彼は弟と同じくらい、罪深いのです。
三つ目の態度、正しい態度:神のためにすべてを行うが、へりくだった思いで、栄光をすべて神にお返しすること。あなたが救われたとき、あなたはもう救われるために業を行うのではなく、救われているからこそ業を行うのです。神への感謝から業を行うのです。パウロが言うように、私たちはただの土の器にすぎません(コリント人への手紙第二4章7節)。神が用いてくださる器にすぎないのです。神に従うことによって、私たちはただ自分の務めを果たしているに過ぎません。そして、それは功績の対象としてではなく、特権として受け止めるべきなのです。
イエス様はあなたの働きを軽んじてはおられません。ご自分の名によって渡された一杯の水でさえ、その報いは決して失われないと語られました(マタイ10章42節)。イエス様は報いを否定しておられません。しかし、霊的な高ぶりと、あなたが自分について抱きかねない過大な自己イメージには、はっきりと立ち向かっておられるのです。
覚えておきたいポイント
- 「取るに足りないしもべ」とは「欠かせない存在ではない」という意味です。あなたはかけがえのない一人の存在として代わりがきかない一方で、神の計画に欠かせない存在ではありません。神はただ純粋な恵みによってあなたを選ばれるのです。
- あなたの奉仕は救いから生まれるのであって、救いに値するものではありません。パウロが語るとおり、「あなたが持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」。すべての良い業は、主があなたを通して行われるものです。
- 私たちは自由な奴隷です。誰も私たちを強制していません。私たちは、私たちのために十字架にまで至るご自身を奴隷とされた神に仕えることを、自ら選んだのです。
- 二つの罠:何もしないこと、あるいは見返りのために行うこと。放蕩息子の兄は、本当の謙遜のないまま仕えていました。正しい姿勢は、神のためにすべてを行い、栄光をすべて神にお返しすることです。
- あなたの報いは本物ですが、あなたの功績は本物ではありません。イエス様は、ご自分の名によって渡された一杯の水一つひとつを尊びながらも、神に帰すべき栄光をあなたが盗むことは決して認められません。
個人への適用
- 今週たくさん仕えたとき、私は神や周りの人から特別な評価を期待している自分に気づいたことがあるだろうか。
- 三つの態度、すなわち何もしない怠け者、当然の報いを期待する高慢な者、神にすべての栄光を帰すへりくだった者のうち、私はどこに立っているだろうか。
- 私は「しもべ」である前に、まず神の子であり、相続人であり、友であることに気づいているだろうか。
- 私が「神のために」担っているつもりの計画の中に、実は自分がただ引き込まれてしまった人間の計画があるのではないだろうか。
- 私は自分のやり方と自分の力でイエス様に仕えようとするのではなく、イエス様に自分の人生に仕えていただいているだろうか。
引用された聖書箇所
- ルカ17:7-10 · あなたがたは取るに足りないしもべです
- マルコ10:45 · 人の子は仕えるために来た
- ローマ8:15 · 子とする御霊
- ガラテヤ4:6-7 · もはや奴隷ではなく、子です
- ヨハネ15:15 · わたしはあなたがたを友と呼びました
- ヨハネ8:32-36 · 真理はあなたがたを自由にします
- ヘブル2:14-15 · 死の恐怖から解放されて
- コリント第一7:23 · 人の奴隷になってはいけません
- ルカ12:37 · 彼らを食卓に着かせ、給仕してくださる
- コリント第一4:7 · あなたが持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか
- マタイ11:29 · 心優しく、へりくだって
- ルカ15:29 · 兄息子の怒り
- マタイ10:42 · 一杯の冷たい水
よくある質問
イエス様が私を「取るに足りないしもべ」と呼ぶとき、私の奉仕を軽んじているのですか
いいえ、そうではありません。「取るに足りない」と訳されるギリシャ語は、文字どおりには「欠かせないわけではない」という意味です。イエス様は、あなたの奉仕に何の価値もないと言っておられるのではありません。むしろ、ご自分の名によって渡された一杯の水にさえ報いを約束しておられます。イエス様が語っておられるのは、神はあなた抜きでもご自分の計画を成し遂げることができるということ、そしてあなたを神の働きに結びつけてくださるのは、ただ純粋な恵みによるということです。これは奉仕を見下すものではなく、高ぶりへの薬なのです。
欠かせない存在でないなら、なぜまだ仕える必要があるのですか
仕えることは神との取引ではなく、恵みへの応答だからです。ミカエル・ベナ牧師が語るように、あなたが救われたとき、あなたはもう救われるために業を行うのではなく、すでに救われているからこそ業を行うのです。またイエス様は、タラントのたとえの中で、何もしないしもべは厳しく裁かれると警告しておられます。あなたは世界全体に責任を負っているわけではありませんが、神があなたにゆだねられた範囲(家族、友人、知人、教会)には責任を負っているのです。
日々の生活の中で、この謙遜を具体的にどう実践すればよいですか
成し遂げたすべての良い業について、積極的に神に栄光を帰すことによってです。「あなたが持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。」自分で自分を誉め称えることなく、他の人からの励ましを素直に受け止めることによってです(箴言27:2)。あなたの主であるイエス様が、あなたのために十字架にまで至るご自身を奴隷とされたことを思い起こすことによってです。そして、こう祈り続けることによってです。「主よ、私はただの土の器にすぎませんが、あなたが私を用いてくださるとは、何という特権でしょうか。」
Église Réformée Évangélique de Marseille Sudの説教を見逃さない
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