死んでいたあなたを、神はキリストと共に座らせてくださった

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あなたは死んでいた、しかし神はあなたをキリストと共に座らせてくださった

あなたの人生を一生忘れられないほど彩る、そんな寛大さを持つ人がいます。私たちがフランスで過ごした最初の年、ニースに住むイタリア人の家族が私たちを家族のように迎えてくれました。一家の母であるフランカは、私たちの最初の娘の誕生に備えて服を集め、特別なイタリアンコーヒーまで見つけてくれました。毎週日曜日、教会の後には何時間も続く食事会。そして彼女の家を後にするには、さらに一時間はかかりました。コーヒーを一杯、話をして、またコーヒーを一杯……。あの優しさは、決して忘れることができません。

けれども、フランカがそれほどの優しさを持てたのは、彼女より先にそれを与えてくれた方がいたからです。彼女よりもはるかに寛大な神です。今日、エペソ人への手紙 2:1-7が、まさにそのことをあなたに語りかけています。この箇所は、あなたの最も惨めな状況を包み隠さず示し、その物語の真ん中で「しかし神は」という二つの言葉を爆発させます。この二つの言葉が、すべてを変えるのです。

この記事の構成

  1. あなたはどうであったか。罪と背きの中に死んでいた
  2. 神はどのような方か。豊かな憐れみと大きな愛を持つ方
  3. 神が何をしてくださったか。あなたを生かし、よみがえらせ、キリストと共に座らせてくださった
  4. 覚えておきたいポイント
  5. あなたへの適用

1. あなたはどうであったか:罪と背きの中に死んでいた

パウロは冒頭から力強く語ります。最初の節から、彼はあなたに厳しい現実を突きつけます。「あなたがたは自分の背きと罪との中に死んでいた者であって」(エペソ人への手紙 2:1)。かなり厳しい書き出しに感じられるかもしれません。でもパウロはあなたを打ちのめすためにこう言っているのではありません。あなたが本当だったこととキリストが今どのような方であるかを、はっきりと対比させるために言っているのです。

実はその直前、エペソ人への手紙1章の終わりで、パウロはキリストについて描いています。教会のかしらであり、贖いにおいて完全であり、よみがえり、神の右に座し、言い表せないほどの栄光をお持ちの方。そしてそのキリストから、あらゆる国民、あらゆる部族からなる一つの全人類を織りなしていきます。このキリストの美しさと完全さの前では、あなたの以前の状態は夜が昼に対するようなものです。「あなたがたは死んでいた。」

霊的な死とは、神からの分離のこと

あなたはどのように死んでいたのでしょうか。ここでパウロは比喩を用いています。聖書において「いのち」という言葉は、しばしば神との結びついた状態を表します。一方「死」は、疎外され、分離された状態を指します。霊的に生きているとは、神とつながっていることです。霊的に死んでいるとは、神から断ち切られていることです。

なぜでしょうか。いのちの源は神ご自身だからです。人の鼻にいのちの息を吹き込まれたのは神です(創世記 2:7)。復活の後、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」(ヨハネ 20:22)と言われたのもイエスです。いのちの源から切り離されているなら、いのちの中にいることはできません。とてもシンプルな道理です。

わかりやすいたとえで考えてみましょう。停電した夜、家族で過ごす時間を想像してみてください。ろうそくを灯し、暖炉に火をつけ、あらかじめ用意しておいた料理を囲む。インターネットから切り離されて、お互いの顔を見つめ合う、そんな素晴らしいひとときになるでしょう。でも、ろうそくを消して、また明かりが欲しくなったらどうしますか。ブレーカーを上げ、電気に再びつながなければなりません。その接続がなければ光はありません。神とのつながりがなければ、いのちもないのです。

空中の権を持つ君に従う歩み

パウロはさらに踏み込みます。この霊的な死は、ある「歩み方」を生み出していました。あなたはかつて「この世のならわしに従い、空中の権を持つ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って」(エペソ人への手紙 2:2)歩んでいたのです。

ここで話は一段階、変わります。パウロは、ある種の力を持ち、世界を神から分離された状態に留めておく霊的な存在について語っています。角の生えた赤い姿を想像する必要はありません。もちろん、これは悪魔のことを言っています。そして、この霊が支配する、いわば「帝国」のようなものが存在するのです。

ここで考えてみてください。人はこの権威を拒んでいるでしょうか。キリストを知る前は、多くの人が多かれ少なかれこれに同調し、従っています。そしてこの結果は、まさにパウロがローマ人への手紙 1章で描いていることそのものです。人が神を知りながらも神としてあがめず、感謝もせず、求めもしなかったので、神は彼らを「引き渡された」。曇った心に引き渡し(28節)、情欲に引き渡し(24節)、恥ずべき情欲に引き渡された(26節)のです。知性も、意志も、愛も、すべてが断ち切られたまま、霊的な死の中に置き去りにされてしまいました。

自分の力では抜け出せない状態

パウロはこの現実の描写を、恐ろしい一言でまとめます。「私たちもみな、以前はほかの人々と同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子でした」(エペソ人への手紙 2:3)。これが、堕落した人間の状態です。

ときどき、こんな反論を耳にします。「自分の本性に従っているだけの人を神が裁くのは、公平と言えるのか」と。鋭い問いです。でも、別の問いも投げかけてみましょう。神は本当に世界をこのように造られたのでしょうか。いいえ、違います。この本性は、堕落した結果、そうなったのです。そして世俗の世界でさえ、本性に従って盗み、嘘をつき、人を傷つけようとする犯罪者を、政府が取り締まることを当然、いや必要なことと考えるはずです。人間の政府にそれが当然で必要だと感じるなら、なおのこと、神にとってそれが正しいことではないでしょうか。

キリストを知る前の自分の人生を、正直に振り返ってみてください。あなたの思いは、いつも善に向かっていましたか。いつも善を行いたいと願っていましたか。悪よりも神を愛していましたか。この三つの問いすべてに「はい」と答えられる人はいません。これは非難のためではありません。診断です。そして、この後に続く驚くべき恵みを見るためには、この診断がどうしても必要なのです。

2. 神はどのような方か:豊かな憐れみと大きな愛を持つ方

三節にわたる暗い描写のあと、パウロは夜の闇の真ん中に、一筋の光を爆発させます。たった二つの言葉。「しかし神は」(エペソ人への手紙 2:4)。そうです、確かに事態はそのとおりでした。あなたの知性も、意志も、愛も断ち切られていました。しかし神は。

行動する憐れみ

パウロは続けます。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」。神の憐れみは豊かです。憐れみとは、単に困っている人を見て気の毒に思うことではありません。行動を伴わない共感だけなら、誰にでもできます。しかし、聖書が語る憐れみは行動します。介入します。状況を変えます。

そして神は、実際に行動できる方です。詩人のように、失われたものをただ嘆くだけではありません。ジャック・ブレルは「私を置いていかないで」という美しい歌を書きました。心を締めつけるような詩ですが、現実を変える力はまったくありません。神はただ嘆く以上のことをしてくださいます。神は私たちの状態の中に入ってきて、行動されるのです。

理由のない、大きな愛

なぜ神はこうしてくださるのでしょうか。あなたの側には理由がありません。あなたは神が愛してくださる理由を何一つ差し出していません。それでも神があなたをこの大きな愛で愛されるのは、ただ神がそういう方だからです。神はその本質そのものにおいて善なる方なのです。

「アウサム・ゴッド」という賛美で知られるクリスチャン歌手、リッチ・マリンズの話があります。農家の息子だった彼は、その歌によって多くのお金を得ました。しかし彼は多くのお金を持って生きることを望みませんでした。そこで彼は、教会の長老たちに自分の収入をすべて管理してもらい、生活に必要な分だけを渡してもらい、残りを誰にも知らせず慈善事業や宣教に回してもらうように頼みました。式典のたびに、靴を履かずに現れることもあったため、彼は「有名なホームレス」と呼ばれていました。生涯の終わりには、本人も知らないまま何百万ドルもの金額を献げていたのです。実にすばらしい寛大さの例です。

けれども、神がしてくださったことを考えてみてください。神は、ご自分が何を与えているのか、正確にご存じでした。イエスも、釘が一本一本その手に打ち込まれるとき、それを完全に承知しておられました。そして最後の息とともに「完了した」(ヨハネ 19:30)と言われました。ヘブル人への手紙 12:2によれば、それをご存じの上で、「ご自分の前に置かれている喜びのゆえに」。つまり、あなたのことを思って。実行されたのです。

3. 神が何をしてくださったか:あなたを生かし、よみがえらせ、キリストと共に座らせてくださった

五節。「罪過の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは、恵みによるのです。神は、キリスト・イエスにあって私たちをキリストとともによみがえらせ、共に天上に座らせてくださいました」(エペソ人への手紙 2:5-6)。

キリストとともに生かされた

普通、死は決定的なものです。しかし神は。この寛大な優しさは、死の法則さえも打ち破ります。すべてを変えてしまうのです。

これは、キリストが肉体をもって墓からよみがえられたのと同じ意味で、あなたがすでに肉体的に復活しているということではありません。それは、キリストが再び来られる日に成就します。けれども、キリストがよみがえられたゆえに、そのいのちはあなたの内に「保証」として置かれ、あなたがとこしえに共にいる日を待ち望んでいます(エペソ人への手紙 1:13-14)。いのちの源は、再びつながれました。断ち切られていた知性も、意志も、愛も、少しずつ新しくされていきます。

キリスト・イエスにあって天上に座す

そしてパウロはさらに一歩進みます。あなたはすでにキリストとともに天上に座らされている、と言うのです。キリストは父の右に座して統べ治めておられます。キリストを信じるあなたは、キリストのうちにあります。キリストが再び来られる日を待ちながら、あなたは霊的にキリストの中にいるのです。

これに匹敵する力は、他のどこにも見出せません。霊的に死んでいた者を取り上げ、永遠の王とともに座らせると主張する哲学も、宗教も、思想体系も存在しません。福音だけが、これを差し出します。しかも無償で、恵みによって。あなたがどのような人であるかではなく、神がどのような方であるかのゆえに。

永遠に示され続ける恵みの実例

そして、おそらく最も心を打つ箇所がここです。七節。「こうして、神は、キリスト・イエスにあって私たちに賜わったいつくしみによって、来たるべき世々において、その恵みが働き、限りなく豊かであることを示そうとされたのです」(エペソ人への手紙 2:7)。

この一連の出来事には、神のご計画がありました。神はあなたを、永遠にわたる一つの実例としてくださったのです。時には、あなたも神のために何かをしたいと感じることがあるでしょう。子どもが絵を差し出して「パパ、見て、これ僕が作ったんだよ」と言うときのようなものです。あなたはそれを喜び、冷蔵庫に貼って、大切に取っておきます。

けれども、神があなたを愛してくださる仕方は、それをはるかに超えています。神は、来たるべき世々にわたって、あなたの人生そのものを、ご自身の寛大な恵みのあかしとして示そうとしておられます。あなたはいつもそれを実感できるわけではないかもしれません。疑いを覚える瞬間もあるでしょう。あなたはまだ完全に変えられてはいませんが、その途上にいます。神の御業を今日すでにあなたの中に感じているという事実そのものが、明日もその御業が続いていくことの確かなしるしなのです。何度も、何度も、何度も。

「もうこれ以上は良くならない」という言い方を耳にしたことがあるでしょう。それは地上では、ある頂点においては本当かもしれません。しかし神においては違います。もっと良くなり得ます。そして実際にもっと良くなっていきます。永遠に至るまで、良く、良く、良くなり続けるのです。

あなたの知性は新しくされ、今では霊的に、長い目で、キリストのことを思い巡らすことができるようになっています。あなたには神に従いたいという願いが生まれています。いつもそうとは限りませんが、神はあなたの意志に働きかけておられます。特に、あなたが道を外れてしまい、また戻りたいと願うときに、それがよく分かります。そして、あなたの愛は深められていきます。あなたの人生を通して、あなたはすでに一つのあかしです。神は、あなたを通してご自身の御業を、まだ神を知らない同僚に、家族に、社会に、すでに示しておられます。そして最後に、あなたが永遠にキリストとともにいるとき、あなたは神の寛大な恵みの永遠の実例となるのです。

覚えておきたいポイント

  • キリストを離れては、あなたは霊的に死んでいました。いのちの源から切り離され、空中の権を持つ君に支配され、知性も意志も愛もすべて損なわれていました。
  • 「しかし神は」。この二つの言葉が、あなたの闇の中に一筋の光を爆発させます。神は、あなたを愛してくださった大きな愛のゆえに、豊かな憐れみを持つ方です。
  • 神は行動されました。あなたをキリストとともに生かし、キリストとともによみがえらせ、キリストとともに天上に座らせてくださいました。これは曖昧な比喩ではありません。今、キリストにあるあなたの霊的な立場そのものなのです。
  • 救われたあなたの人生には、永遠の目的があります。来たるべき世々において、神の恵みの限りない豊かさを示すことです。
  • 神とともにあるなら、決して終わりはありません。もっと良くなり得ますし、永遠に至るまで、もっと良くなっていきます。

あなたへの適用

  • キリストを知る前の自分の人生を振り返るとき、パウロが語る霊的な死を本当に見ていますか。それとも軽く見過ごしていませんか。
  • 今日、神があなたの知性、意志、愛のどこに働きかけておられると感じますか。神が働いておられる具体的な領域を一つ、時間を取って認めてみてください。
  • あなたが道を外れてしまうとき、あなたを引き戻すものは何ですか。その「戻りたい」という願いそのものを、あなたのうちにある神の御業のしるしとして見ていますか。
  • あなたの人生は、神の恵みの豊かさを示すためにあります。今週、あなたがキリストとともに座らされているという意識を持って生きるなら、周りの誰が、その恵みの一端を目にするでしょうか。
  • 寛大さという性質は、キリストに似せられていく中で新しくされる特質の一つです。お金、時間、もてなしなど、どこで具体的にその寛大さを実践し、すべてを与えてくださった方に少しでも似ていくことができるでしょうか。

引用された聖句

よくある質問

エペソ人への手紙2:1の「自分の背きと罪との中に死んでいた」とはどういう意味ですか。

パウロはここで、分離の比喩を用いています。聖書において「いのち」は、しばしばいのちの源である神との結びつきを表します。一方「死」は、その神からの疎外、断絶を意味します。「あなたがたは死んでいた」とは、意識がなかった、あるいは滅ぼされていたという意味ではありません。パウロはまさに、日々歩き、活動していた生きている人々に向けてこう書いているのです。むしろこれは、あなたが霊的に神から切り離され、自分の力では真のいのちの源に再びつながることができない状態だった、ということを意味します。

「空中の権を持つ君」とは何者ですか。

パウロはここで、キリストを離れた世界に対して実際に影響力を行使している霊的な存在、すなわち悪魔について語っています。これは物語に出てくるような人物ではなく、「不従順の子らの中に」(2節)働き、人類を神から分離した状態に留めておこうとする霊です。だからこそ、世の多くの人々は、意識せずとも神とは逆方向へ向かう「ならわし」に、自然と従ってしまうのです。

まだ地上にいる私が、どうして今すでに「天上に座らされている」と言えるのですか。

この「座らされている」という状態は、今すでに現実である霊的な事実であり、まだ肉体的なものではありません。キリストがよみがえり、父の右の座に着いておられる(エペソ人への手紙 1:20)ゆえに、信仰によって「キリストにある」あなたは、神の御前でのそのキリストの立場を共有しています。キリストのいのちはあなたの内に保証として置かれ、あなたの将来の肉体の復活を確かなものとしています。ですから、あなたはキリストの再臨によってその天上の座が完全に現される日を待ちながら、すでにその天上の座から出発して生きているのです。

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