あなたの注意を奪おうとする世界で、慎み深く生きる
あなたは、絶えず何かに気を引かれる世界に生きています。ニュースは休みなく流れ、アルゴリズムはあなたの考えに沿ったものばかりを差し出し、扇情的な見出しは中身のないクリックへと誘います。時間は失われ、注意は散らばり、怒りが自然と自分の中で育っていくこともあります。ビル・キャメロンは、テサロニケ人への手紙第一 5:1-11に基づくメッセージの中で、教会に別の道を示します。それがクリスチャンの慎み、すなわち「節制」です。
節制とは、単にお酒だけの問題ではありません。それは心と思いの姿勢です。頭を冷静に保ち、有害な影響から自由になり、反応する前に主の御前で考えること。節制は目を覚ましていることと結びついていて、キリストの再臨を待ち望む姿勢でもあります。怖がって引きこもることではなく、来られる方に目を留めながら、今この世界を健やかに生きる生き方なのです。
このメッセージは、聖書的な節制とは何か、なぜあなたがそれを生きるように召されているのか、そしてそれがあなたの生活と教会にどんな実を結ぶのかを示してくれます。
メッセージの流れ
1. あなたの注意を奪い合う世界
私たちは、絶えず注意を奪おうとする世界に生きています。私たちの視線を捉えようと、常に戦いが繰り広げられています。ニュースは途切れることなく流れ、消費へと駆り立て、恐れを煽ります。戦争の騒がしさもあれば、平和の噂もあり、この不確かな世界の中で、安定や日常がいつ戻ってくるのかを人々は探しています。
扇情的な見出しはあなたの好奇心を利用します。クリックしてみると広告の中に迷い込み、結局何もなかったことに気づく。ただ時間を失っただけです。私たちは、まるで手品師のように本当に起きていることから目をそらさせる、煙幕のような過剰な情報戦略にさらされています。あちこちで火とその消火活動が同時に起こされているのです。
私たち自身の思考の流れさえも罠になり得ます。アルゴリズムは私たちの考えに沿うものばかりをますます差し出してくるからです。批判的な思考は鈍っていきます。人は怒らせられ、その怒りは持続させられます。自分自身の関心事によってさえ、罠にかかることがあります。話が大きいほど、注目を集めるのです。
けれども、クリスチャンはこの世の成り行きにも、自分に向けられた誘惑の企てにも、決して驚いてはなりません。エペソ人への手紙 2:1-3は、私たちがかつて自分の背きと罪との中に死んでいて、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んでいたことを思い起こさせます。あなたを嘘と不安と恐れの中に沈めようとする者がいます。それが悪魔です。彼はこの世の仕組みそのものに息を吹き込んでいるのです。
あなたが生きるこの世界の中で健全な思いを保つためには、めがねをかけ直し、神の言葉を通してこの世界を見る必要があります。あなたを節制へと導く第一のことは、まさに、あなたを取り巻くこの世界に対する正しい聖書的理解なのです。
2. 聖書が「節制」と呼ぶもの
6節にはこうあります。「わたしたちは、目を覚まして、慎んでいましょう」。新約聖書には節制について語る言葉がいくつかあります。
まず「節制のある」と訳される形容詞ですが、これは文字通り「健全な思いを持つ」という意味です。この言葉は「自制」とも訳されます。テモテへの手紙第一 3:2には、指導者は非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制する人でなければならないとあります。この言葉は、自分の反応や感情、怒りやいら立ちに流されない資質を表しています。慎み深くありなさい、ということです。
節制のある人であるとは、思慮深くふさわしく生きることでもあります。思慮深さは衝動的な反応の対極にあります。あなたは自分の思考の中に主を含めるよう招かれています。聖書が思慮深くあれと語るとき、それはまず主の御前で思慮深くあるということです。コリント人への手紙第二 10:4-5で、パウロは、私たちは神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりをことごとく打ち砕き、すべての思いを捕らえてキリストに服従させる、と説明しています。この思慮深い生き方には、主のみこころを理解すること、物事を主の前に差し出すこと、それぞれの状況について主の見方を尋ねること、感情を制し平安を求める時間を持つことが含まれます。
6節と8節には動詞も使われています。「慎みなさい」とは、有害な影響から自由であることを意味します。もちろんお酒や薬物のことも思い浮かびますが、あなたを操ろうとするものはすべて有害です。SNS、陰謀論、人を興奮させるような言説などです。あなたはこうした影響から自由であるように召されています。この動詞は目を覚ましていることと結びついています。何かの影響を受けているとき、その背後には必ず何かがあるのです。すべてがあなたに善意を向けているとは限らないと知っておく必要があります。
ローマ人への手紙 12:3には別の動詞が出てきます。自分を過大に評価せず、慎み深く思うべきである、というものです。自分を実際より強く思うのでも、神があなたのために望んでおられることに対して自分を過小評価するのでもなく、キリストにあり、その恵みによって、神の目にあなたがどのような者であるかという正しい理解を持つことです。
最後に「節制」という名詞がテモテへの手紙第一 2:15に出てきますが、ここでもやはり自制という概念があります。これらすべての言葉には「思い」という根っこがあります。すべては頭の中で起こっているのです。あなたはいのちを守るために頭を冷静に保つよう招かれています。節制のある人であるとは、何にでも動揺しないこと、感情を管理すること、有害な影響をしっかり見分けること、自分を制すること、健全な見方を持つこと、出来事について考えたうえで慎み深く応答することです。
3. なぜ慎み深くこの世を生きるのか
第一に、あなたは敵意ある世界に生きているからです。 4節から8節にはこうあります。「あなたがたは暗やみの中にはいません。あなたがたはみな光の子ども、昼の子どもです。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まして、慎んでいましょう」。この箇所は、節制を目を覚ましていることと結びつけています。クリスチャンが目を覚ましているのは、神の言葉とは異なる原則に従って動く、神に敵対的なこの世界に生きているからです。
ヨハネの手紙第一 2:15-17ははっきりとこう語ります。世をも世にあるものをも、愛してはいけません。だれでも世を愛する者があれば、御父の愛はその人のうちにありません。すべて世にあるもの、すなわち肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出たものではなく、世から出たものです。世と世の欲は過ぎ去って行きますが、神のみこころを行う者はいつまでも生き続けます。
ヨハネの手紙が描く「世」とは、神によって照らされていない人間の欲望の充足を前面に押し出す仕組みのことです。それは人間をますます遠くへ引きずり込みながら罪を掻き立て、維持する仕組みです。それは、あらゆる制約から自由になり、自分の欲望や情熱のままに罰せられることなく振る舞おうとする世界です。それはすべての権力者に固有のことではありませんが、多くの権力者が自分は罰せられることなく行動できると信じているのは事実でしょう。あなたは自分自身に対しても、周りの仕組みがあなたの願望を満たすために差し出してくるものに対しても、目を覚ましていなければなりません。
あなたには三つの敵がいます。肉と、世と、悪魔です。ヨハネの手紙第一 5:19はこう語っています。全世界は悪い者の支配下にあるのです、と。
これは悲観的すぎる見方でしょうか。この世界には何も期待できないのでしょうか。ヨハネがここで語っているのは一つの仕組みについてであって、存在するすべてのものについてではありません。物質としての世界は悪いものではありません。それは神によって創造され、良いものとして造られました。もちろん、堕落もありました。それでも人間は神のかたちに造られた者であり続けています。そのかたちが損なわれてはいても、です。クリスチャンは、神の創造から来る善いものすべてを認めなければなりません。不正や腐敗を告発する人々、苦しみを和らげる人々と手を携え、災害や戦争の犠牲者を助け、結婚や終末期医療、人工知能の正しい使い方といった倫理的な問いに向き合う場に身を置くこともできます。しかし、この世の通常の営みは、人間を神への反逆のうちにとどめようとします。この点について幻想を抱いてはいけません。
第二に、あなたの人生の方向が根本から変わったからです。 節制は、暗やみから光への移行と結びついています。エペソ人への手紙 5:8-10にはこうあります。「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は主にあって光となっています。光の子どもらしく歩みなさい。――光の実は、あらゆる善意と正義と真実のうちに結ばれるのです。――何が主に喜ばれるかを見分けなさい」。善く、正しく、真実なものを求めているなら、あなたが間違えることはありません。主に喜ばれることを求め、実を結ばない暗やみのわざに加わらないこと、それがあなたの願いでしょうか。クリスチャンは回心を経験しました。自分が罪人であると認め、キリストが自分に代わって十字架の上で罰を受けて死んでくださったことを理解し、自分では自分を救えなかったことを認めました。神に信頼を置き、この世を退け、神が自分の人生を照らしてくださるよう願いました。世界の見方が変わりました。人生の向かう方向が大きく転換したのです。
第三に、あなたはキリストの再臨を待ち望んでいるからです。 テサロニケ人への手紙第一 1:9-10は、テサロニケの人々が偶像から神に立ち返り、生けるまことの神に仕え、御子が天から来られるのを待ち望むようになったことを語っています。神が死者の中からよみがえらせられたイエスは、来たるべき御怒りから私たちを救い出してくださる方です。あなたはこの待望のうちに生きるよう召されています。この世の原則に従うだけの生き方をする必要はありません。
節制は目覚めた状態と結びついています。私たちは眠らないようにと招かれているのです。あなたは昼の子どもです。なぜなら主の日を待ち望んでいるからです。この箇所の冒頭の節は、主の日は夜、盗人がやって来るように来る、と告げています。あなたの優先事項は、今が終わりの時なのかどうかを詮索することではありません。キリストがいつ戻られるのか、それを見分けられる人は誰もいません。その探求に時間を使いすぎてはいけません。あなたに求められているのは、目を覚まし、今日をそれにふさわしく生きることです。
ですから、あなたはこの世界に対して健全な姿勢を持たなければなりません。この世が自然に良くなると期待しないこと、平和な時代であっても油断しないこと、世界が騒然としているときに動揺しないこと、そしてキリストはもう戻られたと言う人々によっても動揺しないこと。この点はテサロニケ人への手紙第二 2章で扱われています。
4. 節制がもたらす実
テサロニケ人への手紙第一 5:12-22の続きには、節制ある生き方が教会の中に何を生み出すかが描かれています。
信仰、愛、希望。 8節は、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みのかぶとをかぶるようにと招いています。これが、不確かな世界における根本的な姿勢です。信仰をもって行動するとは、人が何をしようとも神は導いておられる、神の言葉は縛られていない、まだキリストのもとに来る人がいる、まだ変えられるいのちがある、という確信をもって行動することです。愛をもって行動するのは、愛が神ご自身から来ているからです。どんな人に対しても愛をもって行動する。すべての人は神に造られ、神はすべての人に尊厳と価値をお与えになるからです。希望をもって行動するのは、あなたが空しいものやこの世の成り行きにではなく、イエス・キリストに希望を置いているからです。
互いに励まし合い、互いに徳を高め合うこと。 11節にはこうあります。「ですから、たがいに励まし合い、互いの徳を高め合いなさい」。励ましは、あなたの生き方の一部になっているでしょうか。あなたは人を励ます側の人ですか。兄弟姉妹が信仰において成長していくのを見たいという願いを持っていますか。
指導者への感謝。 12節と13節は、あなたがたのために労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒してくれる人々を尊び、心から愛するようにと求めています。福音のために労してくれるすべての人を認め、感謝を伝えるべきです。
私たちの間の平和。 平和がほとんど見当たらない混乱した世界を目にするとき、まずあなたがた自身の間で平和に過ごすことから始めなさい。同心円のイメージがあります。もし世界を変えたいなら、まず自分の足元に円を描くことから始めなさい、というものです。その円の中にいるのはあなただけです。まず自分自身を福音に従わせなさい。そこから、より大きな円が広がっていきます。友人、家族、教会、地域社会、世界です。変化は最初の円の内側から始まるのです。
群れへの配慮。 14節は、秩序を乱している者たちを戒め、気落ちしている者たちを慰め、弱い者たちを助け、すべての人に対して忍耐強くあるようにと勧めています。
善悪への鋭い感覚。 誰に対しても悪をもって悪に報いず、いつも善を追い求めなさい。喜び――救われている喜び、赦されている喜びが、どれほど大切なことか。祈りと感謝。御霊の働きを求めること――御霊を消してはいけません、預言をないがしろにしてはいけません、すべてのことを見分けなさい、良いものを堅く保ちなさい、あらゆる形の悪から遠ざかりなさい。
ここまで読んできたことは、まさに教会の姿そのものです。混乱した世界にあって、第一に求められているのは「教会であれ」ということです。真に、正しく、教会らしく教会であること。忠実な教会の証しこそが、別の生き方、別のあり方が可能なのだと人々に思わせるものなのです。
覚えておきたいポイント
- この世界はあなたの注意を奪い合っています。 過剰な情報、アルゴリズム、煽られ続ける怒り。あなたは、この世の支配者から着想を得たしばしば操作的な戦略にさらされています。これは驚くべきことではなく、聖書が描く背景そのものです。
- 聖書的な節制は、心と思いの健全な習慣です。 それは自制、神の御前での思考、有害な影響からの自由、そしてキリストにある賢い自己理解を含みます。
- あなたが節制ある者であるのは、陣営を変えたからです。 暗やみから光へと移されたあなたは、もはやこの世の原則に従って生きることはできません。あなたの羅針盤は変わったのです。
- あなたが節制ある者であるのは、キリストを待ち望んでいるからです。 終わりの時への詮索に惑わされることも、見せかけの平和の中で眠り込むこともなく、今日、目を覚ましていてください。
- 節制は教会の中に見て取れます。 信仰、愛、希望、互いの励まし、指導者への敬意、兄弟間の平和、弱い者への配慮、喜び、絶えざる祈り。これが目に見える実です。
実践のための問いかけ
- 今、私の注意はどこに囚われているだろうか。どんな影響、どんな情報の流れ、どんなSNSが、私の中に恐れや怒り、欲望を掻き立てているだろうか。
- 私は反応する前に、出来事や決断を本当に主の御前に差し出しているだろうか。それとも衝動的な反応で生きているだろうか。
- 私の世界観は、神の言葉から来ているだろうか、それとも最後に読んだ投稿から来ているだろうか。
- 私の生き方は、キリストの再臨を待ち望んでいることを証ししているだろうか。それとも、他に何も望んでいない人とまったく同じように生きているだろうか。
- 「自分の足元の円」の中で、世界を変えることを期待する前に、今週、福音に従わせるべきことは何だろうか。
引用された聖句
- テサロニケ人への手紙第一 5:1-11 ― 基本テキスト
- テサロニケ人への手紙第一 5:12-22 ― 節制の実
- エペソ人への手紙 2:1-3 ― 不従順の子らの中に働く霊
- エペソ人への手紙 5:8-10 ― 光の子どもらしく歩む
- テモテへの手紙第一 3:2 ― 自分を制する指導者
- テモテへの手紙第一 2:15 ― 節制
- コリント人への手紙第二 10:4-5 ― すべての思いを捕らえる
- ローマ人への手紙 12:3 ― 慎み深い自己理解
- ヨハネの手紙第一 2:15-17 ― 世を愛してはいけません
- ヨハネの手紙第一 5:19 ― 悪い者の支配下にある世界
- テサロニケ人への手紙第一 1:9-10 ― 来られる御子を待ち望む
- テサロニケ人への手紙第二 2章 ― 動揺しないこと
- ルカの福音書 12:31-46 ― まず神の国を求め、目を覚ましていなさい
よくある質問
クリスチャンの節制とは、お酒を飲まないということですか。
それだけではありません。節制を表すギリシャ語は、文字通り「健全な思いを持つ」という意味です。もちろん、お酒や薬物のように思いを曇らせるものすべてに対する警戒も含まれますが、それ以前に、まず内面の姿勢を指しています。自制、思慮深さ、そしてSNSや不安を煽る言説、持続させられる怒りを含む、あらゆる有害な影響からの自由です。
節制あるクリスチャンであるためには、世から退かなければなりませんか。
いいえ。物質的・文化的な世界そのものは悪いものではありません。それは神によって創造され、人間は損なわれてはいても神のかたちに造られたままです。あなたは、不正を告発し、犠牲者を助け、倫理的な課題について考える人々と手を携えることができます。ヨハネの手紙第一 2章で聖書が「世」と呼んでいるのは、罪を掻き立て、神から遠ざける仕組みのことです。節制とは、その中にありながら、その論理を我がものとしないで生きることです。
キリストの再臨を待ち望むことと、今この世界に関わることは両立しますか。
主を待ち望むことは、何もしないための言い訳ではありません。ルカの福音書12章は、主人が戻ってきたとき「働いている」しもべのことを描いています。節制は、今日から御国の建設に働くようにあなたを招いています。教会であること、兄弟を励ますこと、平和に生きること、弱い者を助けること、絶えず祈ること。そうやって、あなたはキリストを待ち望むのです。
Église Protestante Évangélique de Paris Beaugrenelleの説教を見逃さない
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