聖書 — 口語訳 (1955)

マタイによる福音書 12

概要

マタイによる福音書12章は、対立の章です。イエスは安息日に弟子たちをかばい、片手のなえた人をいやし、ご自身が安息日の主であると語られます。マタイは、イエスの中に、イザヤが預言した柔和なしもべを見ています。パリサイ人たちがイエスはベルゼブルによって悪霊を追い出していると非難すると、イエスは、神の霊によって追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところにきたのだと答えられます。さらに、口は心に満ちていることを語るものだと述べ、ヨナのしるしのほか、しるしは与えられないと告げられます。章は、イエスの真の家族、すなわち父のみこころを行う人々で結ばれます。

この章の5つの区分

  1. 1-14節安息日:イエスは宮よりも大いなる方、儀式よりもあわれみ
  2. 15-21節イザヤが預言した柔和なしもべ
  3. 22-37節ベルゼブル、神の霊、そして言葉の力
  4. 38-45節ヨナのしるしと、奇跡を求める時代
  5. 46-50節わたしの母とは、わたしの兄弟とは、だれのことか

1そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。

2パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。

3そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。

4すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。

5また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。

6あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。

7『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。

8人の子は安息日の主である」。

9イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。

10すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。

11イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。

12人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。

13そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。

14パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。

15イエスはこれを知って、そこを去って行かれた。ところが多くの人々がついてきたので、彼らを皆いやし、

16そして自分のことを人々にあらわさないようにと、彼らを戒められた。

17これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、

18「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。

19彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。

20彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。

21異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。

22そのとき、人々が悪霊につかれた盲人で口のきけない人を連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。

23すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。

24しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」。

25イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。

26もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。

27もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。

28しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。

29まただれでも、まず強い人を縛りあげなければ、どうして、その人の家に押し入って家財を奪い取ることができようか。縛ってから、はじめてその家を掠奪することができる。

30わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。

31だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。

32また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。

33木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。

34まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。

35善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。

36あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。

37あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。

38そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。

39すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。

40すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。

41ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。

42南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果から、はるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。

43汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。

44そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。

45そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。

46イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。

47それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。

48イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。

49そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。

50天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。

鍵となる聖句

7節
『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。

イエスは預言者ホセアを引用します。神が喜ばれるのは、いけにえよりもあわれみです。イエスは、あわれみのないまま適用された規則のために、罪のない人々を責めるパリサイ人たちを戒められます。

8節
人の子は安息日の主である」。

安息日の主であると宣言することで、イエスは律法そのものに対する権威を主張されます。律法を廃止するのではなく、その意味を明らかにされます。安息日は人の益のために造られたのです。

28節
しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。

イエスが神の霊によって悪霊を追い出すのなら、神の国はすでに来ています。この節はパリサイ人たちの非難に答え、イエスの働きが神の支配のしるしであることを示しています。

34-37節
まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。 善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。 あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。 あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。

口は心に満ちていることを語ります。イエスは、言葉を真剣に受け止めるよう招かれます。言葉については、申し開きをしなければならないからです。恐れさせるためではなく、言葉が心の奥にあるものを表し、また形づくることを認めるためです。

39-40節
すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。 すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。

奇跡を求める人々に、イエスはヨナのしるしのほか、何も与えられません。三日三晩、大魚の腹の中にいたことは、地の中にとどまる三日間を予告するもので、そのあと復活があります。

この章に登場する人物

このテーマで祈る

説教が語っていること

神の助言を聞いて、無益な言葉を打ち砕こうステファヌ・ビュルゴスは、マタイによる福音書12章36節から37節から出発します。私たちの言葉は、建て上げることも壊すこともできる種です。神から出た言葉とそうでない言葉を見分け、四つのむなしい言葉を、神の助言に置き換えるよう勧めます。要約を読む →祈りの力を消してしまう四つのむだな言葉ジャン・マルク・ボトゥロンは同じ節を取り上げ、私たちの祈りに逆らうと彼が考える、四つのありふれた言い回しを挙げます。それを見つけ出し、その危険を理解し、神の言葉にかなう言葉に置き換えることを勧めます。要約を読む →墓の中の三日間、キリストは決して眠っていなかった復活祭に、ユグはマタイによる福音書12章40節から語り、何もしない土曜日というイメージを覆します。墓の中のキリストは、働いておられ、勝利しておられます。信仰はまず、イエスの死と復活という事実の上に立つことを思い起こさせます。要約を読む →ヨナのしるし:神が嵐を送られる説教者はヨナ書を読み直します。人は神の御顔から逃げ、神は語りかけ続け、その栄光は、向き直る者を通して現れます。最後に、ヨナがそのしるしにすぎなかったキリストの姿が立ち上がります。要約を読む →

マタイによる福音書12章についてよくある質問

マタイによる福音書12章のヨナのしるしとはどういう意味ですか

律法学者やパリサイ人たちが奇跡を求めたとき、イエスは、与えられるしるしはヨナのしるしだけだと答えられます。ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいます。これは、イエスの死と復活の予告です。

「審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならない」とはどういう意味ですか

36節と37節で、イエスは、私たちの言葉が心を表し、さばきの日にそれについて申し開きをすることになると言われます。また、言葉によって正しいとされ、また罪ありとされるとも言われます。文脈は、イエスの働きを中傷するパリサイ人たちです。多くのキリスト者は、ここに、自分の語る言葉への注意を促す呼びかけを読み取ります。

なぜイエスは安息日の主だと言われるのですか

パリサイ人たちは、弟子たちが安息日に穂を摘んだことを責めます。イエスはダビデの例を思い起こさせ、ここに宮よりも大いなる者がいる、人の子は安息日の主だと語られます。神が求めておられるのはあわれみであり、安息日は人の益のために造られたもので、人を押しつぶすためのものではないと示されます。

マタイによる福音書 12を引用している記事

← すべての章

口語訳(1955年)— パブリックドメイン。