聖書 — 口語訳 (1955)
ローマ人への手紙 3
概要
ローマ人への手紙3章は、新約聖書で最も重要な章の一つです。いくつかの反論に答えたあと、パウロは厳しい現実を述べます。ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあり、律法は義とされるためではなく、罪を知るために役立つのです。そして21節で転機が来ます。神の義が、イエス・キリストを信じる信仰によって、信じるすべての人に現されました。人々は、キリストにある贖いによって、神の恵みにより無償で義とされます。誇る余地はもう残されていません。
この章の4つの区分
1では、ユダヤ人のすぐれている点は何か。また割礼の益は何か。
2それは、いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。
3すると、どうなるのか。もし、彼らのうちに不真実の者があったとしたら、その不真実によって、神の真実は無になるであろうか。
4断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである。
5しかし、もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、なんと言うべきか。怒りを下す神は、不義であると言うのか(これは人間的な言い方ではある)。
6断じてそうではない。もしそうであったら、神はこの世を、どうさばかれるだろうか。
7しかし、もし神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら、どうして、わたしはなおも罪人としてさばかれるのだろうか。
8むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」(わたしたちがそう言っていると、ある人々はそしっている)。彼らが罰せられるのは当然である。
9すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。
10次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。
11悟りのある人はいない、神を求める人はいない。
12すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。
13彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、
14彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。
15彼らの足は、血を流すのに速く、
16彼らの道には、破壊と悲惨とがある。
17そして、彼らは平和の道を知らない。
18彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。
19さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。
20なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
21しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
22それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
23すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
24彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
25神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
26それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。
27すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。
28わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
29それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。
30まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。
31すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。
鍵となる聖句
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
よく引用される聖句です。すべての人が罪を犯し、神の栄光を受けられなくなっています。ユダヤ人にも異邦人にも、区別なく向けられています。
彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
義とされるという言葉は、法廷の用語です。神が、恵みによって無償で義と宣言してくださいます。贖いは、解放のために払われた代価を思わせます。
神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。
パウロは、神がイエスをその死において示されたのは、ご自分の義を示すためで、神ご自身が義であり、イエスを信じる者を義とされるためだと説明します。なだめの供え物という言葉の解釈にはキリスト教の伝統ごとに違いがありますが、すべてがそこに十字架でのキリストのみわざを見ています。
わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
パウロの教えの要約です。人は、律法の行いによらず、信仰によって義とされます。この節は、プロテスタントの宗教改革の中心にありました。
説教が語っていること
ローマ人への手紙3章についてよくある質問
ローマ人への手紙3章の、義とされるとはどういう意味ですか
義とされるとは、法廷の判決のように、神の前で正しいと宣言されることです。パウロは、この判決は私たちの努力や律法によって得られるのではなく、イエス・キリストを信じる者に、神の恵みによって無償で与えられると説明します。信じる者は、キリストがなさったことに基づいて、神の前に受け入れられます。
ローマ人への手紙3章23節は何を意味しますか
この節は、すべての人が罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていると語ります。ある特定の人々のことではなく、ユダヤ人も異邦人も含まれます。それは、神からの隔たりという、だれも自分では解決できない状態を表しており、だからこそ福音が必要なのです。
ローマ3章25節の、なだめの供え物とはどういう意味ですか
この言葉は、罪に対する神の怒りがなだめられる供え物を指し、別の訳では、罪が贖われる場所を指します。神学者の間でニュアンスの議論はありますが、すべてがこの節に、神がご自分の義を現し、赦しを与えられる出来事としてのイエスの死を見ています。
ローマ人への手紙3章は、律法が役に立たないと語っていますか
いいえ。31節で、パウロは、信仰が律法を無効にするのではなく、かえって確立すると答えます。律法は罪を知らせる役目を持ち(20節)、自分の行いでは義とされないことを示します。救うことはできませんが、恵みを受ける備えをしてくれます。
ローマ人への手紙 3を引用している記事
口語訳(1955年)— パブリックドメイン。