はじめに
「あの人にはその価値がない」「彼女にはその価値がない」「私は絶対にあなたを赦さない」。アルフォンソ・キアッツァ(Alfonso Chiazza)は、傷つけられたときに口にしてしまうこうした言葉から語り始めます。このメッセージは、Église Nouvel Impact Liège の「キリスト、私のいのち」シリーズの一つで、問いはとてもシンプルです。キリストが私のいのちであるなら、私は赦せるはずだ、というものです。
コロサイ人への手紙3章13節です。「互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、赦しあいなさい。主もあなたがたを赦して下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」説教者は、理論と実践のあいだには隔たりがあり、人によっては深い溝になっていることを率直に認めます。そして橋をかけたいと語ります。福音とは、被造物と神とのあいだ、罪と救いとのあいだにかけられた橋だからです。
メッセージが進むにつれて、赦しは言い訳や、お人好しや、和解や、信頼とは別のものであることが示されます。そのうえで、赦しが祈りと信仰をどう変えるのかが語られます。
メッセージの流れ
1. 相手にその価値がなくても、みことばを実践する
- ヤコブの手紙1章22節。「そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者になってはいけない。」ヤコブは遠回しな言い方をしない人です。ここには命令があり、霊的な勧めがあり、みことばを具体的なものにしなさいという呼びかけがあります。
- 神のみことばは、紙に印刷された文字にとどまりません。それは神の心と口から出たものであり、神は、語られたことを実践できるように私たちを造られました。
- 処方箋にたとえてみましょう。病院に行くと、医師が薬を処方します。毎朝まじめに処方箋を読み返しても、薬をもらいに行かなければ、体の状態は変わりません。
- みことばを読むだけで実践しないなら、あなたはこれからも「あの人にはその価値がない」と言い続けるでしょう。実践しようと決めるなら、考え方も、笑顔も、まなざしも変わります。神の恵みがあなたを助けに来てくださるからです。
- なぜこんなに難しいのでしょうか。赦すことが難しいのは、多くの場合、相手にその価値がないからです。けれども神の前では、誰も手を挙げて「私は赦される価値があります」とは言えません。
- 誰かが私たちにとてもよくしてくれるとき、その人を赦すための恵みを求める必要はありません。ところが世の中には、「人をひどく扱う術」を、心を尽くし力を尽くして身につけている人もいます。そうなると、コロサイ人への手紙3章13節の言葉はかすんでしまいます。
- 悪魔はそこにつけ込みます。むき出しになった私たちの感情もそうで、ついに爆発してしまいます。人間の爆発は被害を生みます。家庭が壊れ、人間関係が粉々になり、教会を去る人も出てきます。
- 「私がされたことは、あなたには分からない」。説教者は答えます。あなたの話をイエスにしましたか。「赦し合いなさい」と言われたのはイエスご自身です。イエスのもとに行って、そのことを解決してください。必要なら、イエスの前で怒ってもかまいません。
- ペテロはイエスに、七度まで赦すべきかと尋ねます(マタイによる福音書18章21〜22節)。イエスは、赦しとは帳簿をつけるようなことではなく、心の問題だと悟らせます。あなたの心がイエスの心につながっているなら、何度でも赦すことに喜びを見いだせます。赦しの源であるお方との関係の中では、燃料が尽きることはありません。
2. 赦すとは、軽く見ることでも、言い訳をすることでも、再び危険に身をさらすことでもない
- 「傷ついたものは傷ついたのです」。赦すとは、自分がされたことを軽く扱うことだと、神が教えられたことは一度もありません。赦すからといって、自分の痛みを否定する必要はありません。
- 説教者は孫のことを話します。その子は何か失敗するたびに「だいじょうぶ、たいしたことない」と言うのだそうです。悲しまなくて済むように、自分で盾を作っているかのようです。歯を食いしばって「何でもない」と自分に言い聞かせることは、決してあってはなりません。
- 赦すとは、相手の行いに言い訳をすることではありません。向き合うことはあっても、言い訳をすることはしません。クリスチャン生活は「マゾヒストの集まり」ではありません。ひどい扱いを受けなければ聖くなれない、ということはないのです。
- 赦すことは、知恵や見分ける力を手放すことではありません。暴力を受けた人も赦すことができますし、同時にその関係から離れ、子どもを守り、助けを求め、司法に訴え、境界線を引くこともできます。「神が求めておられる以上に、クリスチャンらしくなろうとしなくていいのです。」
- 説教者は、涙ながらに訴えたある姉妹に伝えた言葉を語ります。その人は、ほかの女性たちが自分の家の前を通って夫のもとへ行くのを見ていました。「数えるのはやめなさい。離れなさい」と伝えたそうです。牧師は、条件が整っているときには人々を集めますが、整っていないときには離れるのです。
- 箴言22章3節。「賢い者は災を見て身を隠し、思慮のない者は進んで行って、害をこうむる。」泳げない自分が誰かに水の中へ突き落とされたら、浮き輪の品質について議論したりはしません。できるだけ早く危険から抜け出してください。「賢いクリスチャンになりなさい」。
3. 赦しと和解と信頼
- 赦しは、私がする決断です。「主よ、実践できるよう助けてください」と祈ることはできますが、神は私に代わって決断してはくださいません。神は私たちを自由にしておられます。
- 和解には、少なくとも二人が必要です。私ひとりでは和解できません。相手もはっきりとした一歩を踏み出さなければなりません。
- 信頼は、時間をかけて、「たっぷり時間をかけて」築き直されていきます。赦しを求めたことや和解を願うことで、悪い行いの結果がすぐに全部消えるわけではありません。
- 1,000ユーロの例があります。ある人がお金を借り、金曜日に返すと約束しながら二週間も待たせ、やっと返したと思ったら、三日後にまた同じ額を借りに来ました。説教者は断ります。「私の聖めは、まだ主イエスの工房で作業中なのです」。お金はありましたが、信頼はまだありませんでした。もう二度と信頼できない、と言っているわけではありません。
- 箴言14章15節。「わきまえのない者はすべての言葉を信じ、さとい人はその歩みを慎む。」赦しなさい。可能なら和解もしなさい。ただし信頼については、時間をかけてください。
- 「クリスチャンであるとは、お人好しになることではありません」。説教者は、痛い目にあって学んだと打ち明けます。牧師はいつでも「はい」と言うべきだと教えられてきたため、価値のない人たちのために、妻と子どもたちとの時間を犠牲にしてしまったのです。神のみことばに目が開かれる日までのことでした。
4. 赦しは決断であり、歩みでもある
- 夫に捨てられ、幼い子ども二人を抱えて一人になった女性が、牧師のもとで泣きながら訴えます。「あの人のことは、少なくとも百万回は赦しました。それでも、まだ苦しいのです」。ある日付、ある場所、ある電話が思い出をよみがえらせるたびに、彼女は自分は一度も赦していなかったのだと思い込み、また最初からやり直していました。
- 牧師は彼女に説明します。「あなたはもう赦しています。だから、いくつかのことが戻ってくるのは自然なことです」。自分を責めないでください。もう一度赦し直そうとしないでください。神の恵みと、慰めてくれる時間に目を向けましょう。
- 赦したからといって、痛みがすぐに、そして永久に消えるわけではありません。深い傷は消毒しても、翌日には指の皮膚がまだ元に戻っていません。ある名前やある状況が今でもしみるとしても、赦していないからではありません。傷が癒えるには時間が必要なのです。
5. 復讐という罠
- 説教者は、赦したいと願う人より、復讐したいと願う人のほうに多く出会ってきたと言います。「あの人にはその価値がない」と口にするために、「24時間と30秒」は認めるそうです。けれども、その先は注意が必要です。そのうちに、相手が赦されないだけでは足りず、もっとひどい目にあってほしいと思うようになるからです。
- 復讐は、頭の中でやり直す裁判のようなものです。あとになって、言うべきだった言葉が見つかります。時刻は午前2時17分。裁判には勝ちますが、勝つのは自分ひとりです。そのあいだ、相手はぐっすり眠っています。
- 「あなたは頭の中に入居者を住まわせ、その家賃をひとりで払っているのです。」
- エペソ人への手紙4章31〜32節は、神の答えです。あらゆる苦々しさ、憤り、怒り、わめき、そしりを捨て去り、互いに親切にし、あわれみ深く、神がキリストにあって赦してくださったように、互いに赦し合いなさい、というのです。私たちが赦すとき、私たち自身が自由になります。
6. 赦しは祈りと信仰を変える
- マタイによる福音書6章14〜15節。もし人々の罪を赦すなら、天の父もあなたがたを赦してくださいます。けれども赦さないなら、父もあなたがたの罪を赦してくださいません。
- 私たちは、開かれるべき扉のため、自分の性格のため、聖さのために祈ります。けれども、自分が憎んでいる人のことは見ようとしません。神は秩序と優先順位の神です。優先すべきなのは、その人です。
- 祈るとき、誰かを「押し入れ」に閉じ込めていないか、自分に問いかけてみてください。その人を迎えに行って、心の中で赦してください。赦しは、私たちの内に、また私たちを通して、神のわざが働くのを解き放ちます。重苦しさから自由へ、答えのない祈りから聞かれる祈りへと、導かれていくのです。
- 赦しは信仰も変えます。「わが義人は、信仰によって生きる」(ヘブル人への手紙10章38節)。信仰があるから前に進めますし、神の約束にしっかりつながっていられます。マルコによる福音書11章24〜26節で、イエスはまず、求めるものはすでに受けたと信じなさいと語り、すぐに続けて、立って祈るとき、誰かに対して何か恨みがあるなら赦しなさいと言われます。問題は信仰の不足ではなく、赦しの不足であることもあるのです。
- 「恨みはあなたを麻痺させ、赦しはあなたを自由にします。」
7. 相手が赦しを求めてこないとき
- 第一に、説教者は、相手が謝ってくるのを待ってから赦すと決めるのではありません。午後の早い時間に誰かに傷つけられたら、夜のニュースが始まる前には赦しています。その時間は、祈り、考え、みことばを見つめ、何よりも妻、つまり「最愛のパートナー」と話すために使います。
- 第二に、相手に謝らせることはできません。もしかすると相手は、間違っているのは説教者のほうだと確信しているかもしれません。
- 第三に、赦したからといって、相手のやり方を受け入れるという意味ではありません。クリスチャンはお人好しではありません。
- 第四に、私は赦しますが、悪を言い訳にはしません。神はあなたを赦されましたが、あなたの罪に言い訳をされたのではありません。イエスが代価を払い、その傷あとを今も負っておられます。
- 「私が赦すのは、相手にその価値があるからではありません。私が赦すのは、価値がないのに神の恵みを受けたからです。」そして説教者は、相手にされたことが自分の心の中で苦々しさに変わるのを拒みます。苦々しさは心を干からびさせ、打ち砕き、麻痺させるからです。
- 赦しの模範は、十字架の上のイエスです。「そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです』」(ルカによる福音書23章34節)。
心に留めたいこと
- 神の赦しを受けるのにふさわしい人は、誰もいません。キリストが、価値のないあなたを赦してくださったから、あなたも赦すのです。
- 赦すとは、悪を軽く見ることでも、言い訳をすることでも、危険にさらされたままでいることでもありません。赦しは、知恵や見分ける力を排除しません。
- 赦しはあなたの決断であり、和解には二人が必要で、信頼はたっぷり時間をかけて築き直されます。
- 痛みが戻ってきても、赦していないということではありません。傷が癒えるには時間が必要なのです。
- 赦すことを拒むなら、祈りと信仰が麻痺してしまいます。赦しは、神のわざがあなたの人生に働くのを解き放ちます。
自分に当てはめてみましょう
- 今、「あの人にはその価値がない」「彼女にはその価値がない」と言っている相手はいますか。
- 赦すと決める前に、その傷をイエスにありのままに話しましたか。
- 赦しと和解と信頼を混同して、再び自分を危険にさらしたり、赦すこと自体を自分に禁じたりしていませんか。
- 祈っているとき、あなたの心の「押し入れ」に閉じ込めている人はいませんか。
- 頭の中でまだどんな裁判をやり直していますか。そして、ひとりでどんな「家賃」を払っていますか。
引用された聖句
- コロサイ人への手紙3章13節
- ヤコブの手紙1章22節
- マタイによる福音書18章21〜22節
- 箴言22章3節
- 箴言14章15節
- エペソ人への手紙4章31〜32節
- マタイによる福音書6章14〜15節
- ヘブル人への手紙10章38節
- マルコによる福音書11章24〜26節
- ルカによる福音書23章34節
よくある質問
赦すとは、自分がされたことは大したことではなかったと認めることですか。
いいえ。アルフォンソ・キアッツァは、傷ついたものは傷ついたのだと語り、神は受けた悪を軽く見るようにとは一度も教えておられないと言います。赦すとは、相手の行いに言い訳をすることでも、自分の痛みを否定することでもありません。神はあなたの罪に言い訳をすることなく、あなたを赦されました。イエスがその代価を払ってくださったのです。
赦しと和解と信頼は、どう違うのですか。
赦しは、あなた自身がする決断です。和解には二人が必要で、相手も一歩を踏み出さなければなりません。信頼は、たっぷり時間をかけて築き直されるものです。赦したからといって、悪い行いの結果がすぐに全部消えるわけではありません。
相手が赦しを求めてくるまで、待たなければなりませんか。
いいえ。説教者は、相手が謝ってくるのを待ってから赦すと決めるのではなく、相手に過ちを認めさせることもできないと説明します。相手にその価値があるから赦すのではなく、自分が価値もないのに神の恵みを受けたから赦すのです。