はじめに
二人の男が祈るために神殿に上ります。一人はみなに尊敬され、もう一人はみなに軽蔑されています。そしてイエスは予想を覆します。家に帰ったとき神に義と認められたのは、思っていた方の人ではないのです。パリサイ人と取税人のたとえ話(ルカ18.9-14)を通して、イエスは私たちに衝撃を与え、とてもシンプルで、とても厳しい問いを投げかけます。あなたは神との関係を正しくするために、本当は何に頼っているのか、と。このパストラルメッセージは、イエスがあなたの前に置く二つの道を正面から見つめ、なぜそのうちの一つだけが本当に家へと導くのかを理解するよう招きます。
メッセージの構成
1. たとえ話の本当の問い―神に認められるのは誰か
- イエスは「自分を義人だと確信し、他人を見下している人々」に語りかけます。「義」という言葉は最後にも出てきます。取税人は「神によって義と宣言されて」家に帰ったのです。
- これは子どもが校庭で言うような「不公平だ」という意味の「正しい」ではありません。これは法的な言葉です。神は私に「有効」の印を押してくださるのか。神は私を神と正しい関係にあると宣言してくださるのか、ということです。
- 税務当局との関係が整っていなければならない国籍手続きの書類のようなものです。神の国に属したいなら、神との関係が整っていなければなりません。このたとえ話全体はそこを中心に展開しています。
2. イエスが引き起こそうとする衝撃
- パリサイ人は霊的エリートです。律法を暗記し、教え、祈り、断食します。自宅に迎えることを誇りに思うような人物です。
- 取税人は、占領者ローマのために税を集め、その過程で私腹を肥やすユダヤ人です。戦時中の対独協力者に相当する存在で、裏切り者として軽蔑され、娼婦や酔っぱらいと同列に扱われていました。
- イエスは尊敬される者と軽蔑される者を取り上げ、義とされたのは軽蔑される者の方だと言います。彼がより良い行いをしたからではなく、もう一方の人が理解していなかった何かを理解していたからです。
3. 同じ負債を支払う二つの方法
- 間違いは、パリサイ人は自分の善行に頼っているが、取税人にはそれがない、と考えることです。二人とも神の前に支払うべき請求書があることを知っています。違いは、それをどう支払うかです。
- 取税人の祈りの中の「あわれんでください」という言葉の背後にあるギリシャ語は「なだめられてください、宥められてください、贖ってください」という意味です。要するに「神よ、私は勘定を支払うことができません。私に代わって必要なことをしてください」ということです。
- パリサイ人は「私は自分の善行で支払える」と言います。取税人は「私にはできません、助けてください」と言います。これが唯一の違いであり、それがすべてを決めます。
4. 本当の問題―私たちの過ちだけでなく、反逆
- 神への私たちの負債を理解するには、創世記まで遡らなければなりません。アダムとエバの問題は、盗んだり嘘をついたりしたことではありません。神に頼ることなく、何が善で何が悪かを自分たちで決めようとしたことです。
- 私たちの悪い行いは、本当の問題である私たちの反逆、神に対する独立の意志の、単なる症状にすぎません。
- そしてここが厄介なところです。神に服従していない善い行いは、神にとって善い行いではありません。それはむしろ反逆を表すことさえあります。「神よ、あなたは必要ありません、自分で支払います」というように。
5. イエスが私たちに代わって負債を支払われた
- イエスはご自分の死の直前にこのたとえ話を語られました。父なる神が、ご自分の代わりに私たちの負債を支払わせるために御子を遣わされたことを、イエスは知っていました。
- 真に人であり、真に神である方、神の義を満たすと同時に人々にあわれみを差し出す完全な仲介者が必要でした。
- 十字架での死は、私たちが自分ではなし得なかった完全な支払いです。そして彼のおかげで、私たちは神の前に義と宣言され、神との関係が整えられます。
6. 恵みは私たちを互いに和解させる
- パリサイ人は取税人を軽蔑します。それは自分の行いに基づく人生の当然の結果です。自分を優れていると感じるか、劣っていると感じるか、どちらかですが、いつも自分と人を比べてしまうのです。
- エペソ人への手紙2章8-9節ははっきりと言っています。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのです。それは、あなたがたから出たことではなく、神からの贈り物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることのないためです。」
- 私たちの価値がもはや自分の行いからではなく、神が私たちのためになしてくださったことから来るのなら、もう裁く必要も、妬む必要もありません。人を助け、励まし、イエスに仕えることの美しさを人に味わってもらうことができます。
7. あなたはすでにパスポートを持っている―だから、今は愛しなさい
- パリサイ人は、神が一度も求めたことのないこと(週に二度断食すること、すべての収入の十分の一をささげること)まで自慢します。人と比べるために自分でルールを作り出しているのです。
- 私たちもクリスチャン同士、教派同士、霊性のあり方同士で同じことをすることがあります。誰がよりよく祈るか、誰が手を上げるか、誰が手を下げるか。まるで自分の好みによって神により多く、あるいはより少なく認められるかのように。
- 神はイエスにおいてすでにすべてを成し遂げられました。あなたが聖書を読み、祈り、信仰を分かち合うのは、義務だからではなく、それが必要であり、それを愛しているからです。恵みは関係を変えます。ビジネスから、愛へと。
覚えておきたいポイント
- 本当の問いは「自分は良い人間だろうか」ではなく、「神は私を御前に義であると宣言してくださるだろうか」です。
- たとえ話の二人の男は、自分たちに負債があることを知っています。しかし、それを自分では支払えないと理解しているのはただ一人だけです。
- 私たちの善行は、どれほど貴重であっても、罪の負債を清算することはできません。それはまるで、罰金をポテトチップスとピーナッツで払い戻そうとするようなものです。
- 本当の問題は私たちの過ちではなく、反逆です。神なしに、自分にとって何が良いかを自分ひとりで決めようとする意志のことです。
- イエスは、支払う義務のなかった負債を、支払うことのできなかった人々に代わって、十字架で支払うために死なれました。
- 恵みは、優れていると感じる必要からも、劣っていると感じる恐れからも、あなたを自由にします。それはあなたを神と、そして他者と和解させます。
個人への適用
- 今週、静かな時間を取り、正直に自分に問いかけてください。神に認められるために、私は本当は何に頼っているだろうか。自分の行いか、それともイエスがなしてくださったことか。
- ルカ18.9-14をゆっくり読み返し、自分のいつもの祈りが、パリサイ人の祈り(「神よ、私が…のようでないことを感謝します」)に似ているか、それとも取税人の祈り(「神よ、罪人の私をあわれんでください」)に似ているか、見てみてください。
- あなたがよくしてしまう比較を一つ特定してください。同僚、教会の兄弟姉妹、他教派のクリスチャンとの比較かもしれません。神の前で、その比較をやめる決断をしてください。
- 牧師の問いを自分に投げかけてください。聖書を読み祈るのは、そうしなければならないと感じているからか、それともそれを愛しているからか。もし義務感からであれば、他のどんな霊的な努力よりも先に、十字架に立ち返ってください。
- 今週、自分より熱心でないと感じる人を裁く代わりに、具体的にその人に恵みの美しさを味わってもらう方法を探してください。一言の言葉、一通のメッセージ、ちょっとした奉仕、分かち合う一つの聖句など。
引用された聖句
- ルカ18.9-14(LSG)―パリサイ人と取税人のたとえ話
- エペソ人への手紙2.8-9(LSG)―あなたがたは恵みによって救われた
- ガラテヤ人への手紙6.3-4(LSG)―各自が自分の行いを吟味しなさい
- ヨハネ14.6(LSG)―わたしは道であり、真理であり、いのちである
- 創世記3章(LSG)―堕落と反逆という根本的な問題
あわせて読みたい
よくある質問
このたとえ話は、善行が無意味だという意味ですか?
いいえ。イエスは、パリサイ人が行っていること(断食する、ささげる、正直である、妻に誠実である)が悪いとは言っていません。これらの善行が罪の負債を支払うことはできない、と言っているのです。恵みは行いをなくすのではなく、その位置づけを変えます。それらはもはや神の承認を得るための手段ではなく、イエスにあってすでに完全に認められている人の、愛の応答となるのです。あなたは功績を得るために祈り、仕えるのではなく、すでに愛されているから祈り、仕えるのです。
自分の信仰生活が、パリサイ人と取税人のどちらに近いか、どうすれば分かりますか?
自分がどのように人と比べているかを見てください。もしよく「少なくとも自分はあの人のようではない」とか、逆に「自分はあの人にはとても及ばない」と思っているなら、それはまだ神の前に自分を位置づけるために自分の行いに頼っている印です。自分の祈りも見てください。それは自分が神のために何をしたかの報告書ですか、それとも神が自分のために何をしてくださったかへの感謝ですか。取税人は誰とも自分を比べていません。神を見つめ、自分自身の負債を見つめ、恵みを求めています。この姿勢こそが、義とされて家に帰る姿勢なのです。
神がイエスにおいてすべてを成し遂げられたのなら、なぜなお祈り、聖書を読み、教会に行くのですか?
それが必要であり、それを愛しているからです。もはや支払うべき請求書ではなく、生きるべき関係なのです。何かを得ることだけを求めてくる相手との関係を望む人はいません。神もあなたとそのような関係を望んではいません。神は純粋な恵みによってあなたに御国のパスポートを与えてくださいました。そして今、神はあなたが愛によって行動しているか、それとも計算によって行動しているかを見ておられます。祈ること、聖書を読むこと、信仰を分かち合うこと、それは自分が受けたものを理解した心の酸素であって、支払おうとする心の代金ではありません。
メモを取ったり質問したりするにはサインインしてください。