はじめに
マタイ20章で、イエスはぶどう園で異なる時間に呼ばれた労働者たちが皆同じデナリオンを受け取るたとえ話を語られます。イエスは、裕福な青年が立ち去るのを見たばかりで、すべてを捨てたことで永遠のいのちを得るに値すると考えている弟子たちに答えておられます。イエスはこの取引的な論理を覆されます。天の御国は労働の重さによって得られるものではなく、あらかじめ寛大であると決めた主人の手から受け取るものなのです。
メッセージの構成
1. ぶどう園の労働者たちのパラドックス
- ぶどう園の主人は、労働の世界と三つの点で似ています。すなわち、負担が重いこと、時間が限られていること、そして最後に報酬があることです。
- しかし、すべてが逆転します。十一時間の労働者たちが最初に支払いを受け、しかも丸一日分の最高額の報酬であるデナリオンを受け取るのです。
- 聖書の本文は、彼らに特別な能力があったとも、他の人々の仕事に追いついたとも述べていません。主人の寛大さは、彼らの質にも、費やした時間にも左右されないのです。
- 最初の労働者たちの抗議に対し、主人は譲りません。彼は自分の決定を再確認します。「自分のものを自分の思うようにしてはいけないのか」と。
2. 神の粘り強い恵み
- 主人は一日のうちに五回出かけます。朝早く、九時、十二時、三時、そして十一時間目にです。私たちの神は粘り強く、多くの人がご自分の畑に入ることを望んでおられます。
- 十一時間の労働者たちは主人の門の前で待っていたわけではありません。彼らは他の場所を叩き、他の主人たちを試し、そして手ぶらで戻ってきたのです。まさにそこで、神は恵みを施されます。
- 神はあなたにこう言われます。「あなたは他の場所では受け入れられない。しかし、わたしはあなたを受け入れる。わたしの畑はあなたのためのものだ」と。神は、あなたがどこか他の場所にいるよりも、ご自分の御国にいることを望んでおられます。
- 神は何度もあなたに出会いに来られます。弟子たちにすべてを捨てて従うよう呼びかけられたときと同じように、最初の一歩を踏み出されるのは神ご自身なのです。
3. 神の主権
- 神は過去と未来の出来事を支配しておられます。神は世界の基が据えられる前からそこにおられたので、物事がどのように起こるかを正確に知っておられます。
- 神はご自分の創造物全体に対して最高の権威を持っておられます。神はそれを良いものと宣言し、それを導くための戒めをお与えになりました。
- 神は臨在しておられます。創造主なる父として、犠牲的な臨在においてイエス・キリストとして、そして聖霊によって私たちのそばに。
- それでもなお、すべてを所有し、すべてを知っておられるこの神は、あなたが神に逆らうことを許し、あなたが「いいえ」と言うことを許し、あなたが戻ってきたときには迎え入れてくださいます。神はあなたのために、十字架上でご自分の御子を与えるところまで行かれました。
要点
- 永遠のいのちは、あなたが神のために何をするかにかかっているのではなく、神がその寛大さの中で、あなたに与えると決めたことにかかっています。
- 最初の時間の労働者であっても、十一時間の労働者であっても、あなたは同じデナリオンを受け取ります。神の恵みは、費やした時間にも、あなたの働きにも比例して測られるものではありません。
- 神は粘り強いお方です。神は何度もあなたを呼ぶために出て来られます。もし今日あなたが神の畑にいるなら、それは神が恵みを施してくださったからです。
- 主人はつぶやきの前で譲りません。神のことばは、あなたがそれを理解するかどうかによって変わることはありません。
- 問うべき正しい問いは「私は見返りに何を得るのか」ではなく、「主よ、あなたは私に何を望んでおられますか」です。
個人的な適用
- あなたには、まだ神との間で対立している領域、まだ神の戒めに逆らっている場所が残っていないでしょうか。
- あなたは、自分の方がもっと働いた、もっと価値があると思ってつぶやく、最初の労働者たちのようになってはいないでしょうか。
- 神があなたに出会いに来てくださったのに、あなたが応えないことを選んだ時があったことに気づいているでしょうか。
- もしあなたがまだ主人の畑に入っていないなら、いずれ扉が閉じてしまうのに、なぜまだ時間があると思っているのでしょうか。
- あなたは、功績の論理から愛の問いへと移る準備ができているでしょうか。すなわち、心を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛するということへ。
引用された聖句
- マタイ20:1-16 ― ぶどう園の労働者のたとえ
- マタイ22:37-40 ― 二つの大きな戒め
- ルカ13:25 ― 閉ざされた扉
- ローマ12:19 ― 自分で復讐してはならない
- 第二コリント12:9 ― わたしの恵みはあなたに十分である
- 黙示録3:20 ― わたしは戸口に立ってたたいている
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よくある質問
人生の終わりに回心した人にも、ずっと神に仕えてきた人にも同じものを与えるのは不公平ではないですか。
人間の労働契約の目から見れば、そうです。しかし恵みの目から見れば、そうではありません。デナリオンは費やした時間によって計算される給料ではなく、主人があらかじめ、純粋な寛大さによって与えると決めていた贈り物なのです。労働者同士の比較は的外れです。なぜなら、あなたの兄弟が多くもらいすぎているのではなく、あなたが既に受け取ったものがすでに全てであることを理解していないだけだからです。
永遠のいのちが無償の贈り物であるなら、なぜ神の戒めに従う必要があるのですか。
なぜなら、正しい問いはもはや「私は何を得るのか」ではなく、「主よ、あなたは私に何を望んでおられますか」だからです。そして、マタイ22章にあるその答えは、心を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛することです。私たちがデナリオンに値するために従うのではなく、すべてがすでに私たちに与えられていることを理解したからこそ、従うのです。
「後の者が先になる」とはどういう意味ですか。
神が人間の定めた秩序を覆されるということです。あなたを御国の先頭に立たせるのは、あなたの社会的地位でも、教会に通った年数でも、あなたの霊的な功績でもありません。それは主人の恵みです。この言葉は、自分の功績を測ろうとする最初の労働者たちへの警告であり、遅すぎると思い込んでいる十一時間の労働者たちへの良い知らせなのです。
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