はじめに
ある日、ナザレの会堂で、イエスは朗読のために立ち上がられます。預言者イザヤの巻物が手渡され、それを開くと、次の箇所に目が留まります。「主の御霊がわたしの上にある。主がわたしに油を注がれたのは、貧しい人々に良い知らせを伝えるためである。主はわたしを遣わされた。心の傷ついた人々を癒やすため…」(ルカ4章18節)。イエスは巻物を巻いて係の者に返し、腰を下ろされます。そして、すべてを変える一言を語られます。「あなたがたが今聞いたこの聖書のことばは、きょう、実現しました」(ルカ4章21節)。七世紀にわたる待望が、たった一つの言葉に凝縮されます。それは「きょう」です。この牧会メッセージは、パンデミックのさなか、2020年6月5日にマレシャル牧師によって語られたものです。あなたに、この「きょう」をあなた自身の心のために受け取るようにと招いています。なぜなら、イザヤ61章の約束は日付を限定されたものではなく、今なおあなたのためのものだからです。
メッセージの構成
1. イエスは育った場所に帰って来られる
- イエスはナザレを離れてカペナウムに移り住まれますが(マタイ4章13節)、育った町ナザレに帰って来られます。
- その日語ったのは、見知らぬ人物ではありません。「ヨセフの子」であり、「大工、マリアの息子、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟」でした(マルコ6章3節)。
- イエスは、他のあらゆる場所で差し出しておられるもの、すなわち救い、癒やし、解放、そしてご自身が約束されたメシアであるという啓示を、故郷の人々にも差し出すために来られたのです。
2. 一巻の書、一つの箇所、一つの「きょう」
- 「いつものように安息日に会堂に入られた」(ルカ4章16節)。イエスは即興で行動されているのではなく、長い忠実な習慣の中におられます。
- 係の者がイザヤ書の書を手渡します。イエスは巻物を開き(当時はまだ章の区切りはありませんでした)、まさにメシア預言であるイザヤ61章1〜2節の箇所を見つけられます。
- そして巻物を閉じ、腰を下ろされ、この驚くべき言葉を語られます。「あなたがたが今聞いたこの聖書のことばは、きょう、実現しました」(ルカ4章21節)。七世紀の預言が、その日、地に触れ、そして今もなお、地に触れ続けているのです。
3. イエスが来られた五つの目的
- 貧しい人々に良い知らせを告げ知らせるため。
- 心の傷ついた人々を癒やすため。
- 捕らわれ人には解放を告げるため。
- 目の見えない人には視力の回復を告げるため。
- 虐げられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるため(ルカ4章18〜19節)。
4. 奇跡を妨げる障害:不信仰
- ナザレの人々は「驚き」ます(マルコ6章2節)が、その驚きは信仰へとつながりません。
- イエスが、この良い知らせが異邦人にも及ぶことを明らかにされると、「彼らはみな怒りに満たされ」、イエスを町から追い出し、崖から突き落とそうとします(ルカ4章28〜29節)。
- マルコはその結果をこう要約しています。「そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、ただ少数の病人に手を置いていやされただけであった。そして、彼らの不信仰に驚かれた」(マルコ6章5〜6節)。
5. 証し:1964年、六つの骨折と一つの祈り
- マレシャル牧師は、1964年の自動車事故について語ります。六つの骨折、一晩の手術、非常に厳しい予後、麻痺の危険、歩行障害が残るという診断でした。
- 病床から、彼は誰か主のしもべが自分のために祈ってくれるようにと祈ります。数日後、一人の牧師が「ただ挨拶に」立ち寄り、彼のために祈ります。
- 二か月後、医療チームは最終的に手術をしないという判断を下します。この出会いは彼の人生を決定づけました。イエスは今なお、祈りを聞き、癒やしてくださる方なのです。
6. この「きょう」は、あなたのためでもある
- ナザレでの出来事から二十世紀以上が経った今も、この言葉はあなたの耳に鳴り響いています。
- 「私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、キリストが不敬虔な者たちのために死んでくださいました」(ローマ5章6節)。
- 「神の子が現れたのは、悪魔のわざを打ち壊すためです」(ヨハネの手紙第一3章8節)。その打ち壊しは、あなたの傷ついた心にも、今日、差し出されているのです。
覚えておきたいポイント
- イザヤ61章1節は棚上げにされた古い預言ではありません。イエスはご自身の人格において、それが「実現した」と宣言されました。その成就は、今もあなたの「きょう」を覆い続けています。
- イエスは、あなたを打ち砕いているものを正確に見ておられます。心、内なる捕らわれ、盲目、抑圧。イエスは漠然とした理念のためにではなく、まさにこの五つのために来られたのです。
- 不信仰は、神が行おうとしておられたことを凍りつかせることがあります。ナザレが奇跡を逃したのは、そこにイエスがおられなかったからではなく、心が開かれていなかったからです。
- 信仰は、強くあることや目に見える形であることを求めません。それは、神が約束されたことを成し遂げることができると信じ、神に心を向けることを求めます。
- イエスがカペナウムでなさったことを、主は今も、教会と御霊を通して行い続けておられます。「神は、ナザレのイエスに聖霊と力を注がれました。イエスは、いたるところを巡り歩いて良いことをなさり、悪魔に支配されていたすべての人をいやされました」(使徒10章38節)。
個人的な適用
- ルカ4章16〜21節をゆっくりと読み返し、自分の名前を差し込んでみましょう。「主はわたしを遣わされた。心の傷ついた(あなたの名前)を癒やすために。」この言葉が、あなたの心に届くようにしましょう。
- 今日、あなたの心が傷ついている具体的な場所を、飾らずに神の前に名前を挙げてみましょう。喪失、試練、人間関係、疲れ、疑いなど。
- あなたの心の中にある、ナザレの不信仰に似たものを見つけてください。「この方のことは、もう長く知りすぎていて、今さら何かを期待することはできない。」それを、そのまま告白してみましょう。
- マレシャル牧師が病床からそうしたように、神に具体的な何かを願ってみましょう。しるし、ある人物、一つの言葉。願いを差し出し、それから信頼しましょう。
- もしまだイエスを受け入れる一歩を踏み出していないなら、この「きょう」を真剣に受け止めてください。心を開き、あなたのために死に、今も生きておられる方を信じて、人生を主にゆだねてください。
引用された聖句
- ルカ4章16〜21節、ナザレでイザヤ61章を朗読するイエス
- イザヤ61章1〜2節、メシア預言
- マタイ4章13〜16節、カペナウムに移り住むイエス
- マルコ6章1〜6節、ナザレでのイエスの拒絶
- ルカ6章19節、力がイエスから出ていた
- ローマ5章6節、私たちが弱かったころに死なれたキリスト
- ヨハネの手紙第一3章5〜8節、罪を取り除き悪魔のわざを打ち壊すために現れたイエス
- 使徒10章38節、聖霊に油注がれ、いたるところで良いことをなさったイエス
よくある質問
「心の傷ついた人々を癒やす」とはどういう意味ですか。それは本当に私のことを言っているのでしょうか。
はい。傷ついた心とは、一部の人だけに当てはまる宗教的なカテゴリーではなく、多くの人生の現実です。癒えることのない喪失、裏切り、壊れてしまった人間関係、心をすり減らす不安、隠された恥。イエスは、この一節をご自分の使命に偶然入れられたのではありません。イエスは、内側で壊れているものに具体的に手を伸ばすために来られたのです。良い知らせとは、すべての状況が自動的になくなるということではなく、イエスご自身が壊れたものに個人的に身をかがめて、それを縫い合わせ始めてくださるということです。しばしば、それはゆっくりと、しかし確実に進んでいきます。
もしイエスがナザレのその日にすべてを成し遂げられたのなら、なぜ今日でも多くの人が苦しんでいるのですか。
それは、差し出された成就が自動的に受け取られるわけではないからです。すでにナザレにおいて、イエスは不信仰のゆえに奇跡を行うことができませんでした(マルコ6章5〜6節)。力はそこにあったのに、開かれた心がなかったのです。今日もなお、約束は真実ですが、それは一人ひとりが信仰によってつかみ取るものです。妨げているのは、決して神のみこころやキリストの力の欠如ではありません。しばしば、それは私たちが距離を置く習慣、「私には関係ない」と言ってしまう習慣、あるいは救い主を求めずに奇跡だけを求めてしまう習慣なのです。
私は今まで本気で祈ったことがありません。どうやって始めればいいですか。
マレシャル牧師がメッセージの最後に語ったように、心の中から湧き出てくる何かを、主に向かって語ってみましょう。決まった形式は必要ありません。とてもシンプルに始めることができます。「主イエスよ、あなたは傷ついた心を癒やすために来られたと信じます。私の心は、このことで傷ついています。それをあなたに差し出します。あなただけができることを行ってください。」この祈りが真実なものであれば、神はそれを聞いてくださいます。一人で祈ってもよいですし、声に出して祈ってもよいですし、ベッドの中で静かに祈ってもよいのです。神は、あなたに出会うために特別な演出を必要とはされません。
メモを取ったり質問したりするにはサインインしてください。