ヨハネ2章:神への道を開く本当の神殿、イエス・キリスト

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はじめに

イエスが神殿に入られた日の光景は、礼拝の場に着いたというより、にぎやかな市場に足を踏み入れたようなものだった、とジェシー・ローズ師は語ります。ヨハネ2章13-22節から語るこのメッセージは、心をざわつかせる場面に目を留めます。イエスが縄でむちを作り、商人たちを追い出し、両替人の台をひっくり返されたのです。

「皆さんはどうか分かりませんが、イエスさまが怒られたと読むと、私にはあまり自然なことに思えません。」この反応は行き過ぎのようにも見えます。それは正しいのでしょうか。イエスさまはなぜ、これほど怒られたのでしょうか。

牧師は三つの点で答えます。イエスさまの怒り、神さまの臨在、そして本当の神殿です。ヨハネ2章19節です。「この神殿をこわしてみよ。三日のうちに、それを起すであろう。」

メッセージの流れ

1. 祈りの家ではなく、市場になっていた

  • 過越の祭りは、神さまがイスラエルを奴隷の力のもとからエジプトの地から導き出された日を祝います。家族たちは遠くから、エルサレムの神殿で礼拝するためにやって来ました。
  • ある歴史家によれば、当時のエルサレムの人口は約30万人でした。祭りの間、町は100万人を超えていたといいます。
  • どの家族もささげ物を携えて来ました。短い期間に25万を超えるいけにえがささげられたのです。
  • もともと、いけにえに関わるこの商売は町の外で行われていました。イエスさまの時代には、神殿の境内に移されていました。イエスさまはそこで、何千人もの人々と、何千頭もの羊や牛、鳥を目にされます。
  • この光景を前に、イエスさまは激しい怒りを表されます。「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」(ヨハネ2章16節)。

2. 怒りは愛を表す一つの形です

  • 「不思議に聞こえるかもしれませんが、怒りは愛を表す一つの形です。」
  • 東京には、一般に開放された展望室を持つ官公庁の建物があり、世界中の観光客に人気です。天気のよい日には、富士山まで見渡せます。
  • 何年も前、二番目の子どもがまだ赤ちゃんだったころ、家族でガラス窓の前で写真を撮っていました。ある人が近づいてきて、断りもなく妻の腕から赤ちゃんを抱き上げ、このアメリカ人の赤ちゃんと一緒に写真を撮ろうと立ち去ったのです。「あのことは決して忘れません。」
  • 「もしあなたの子どもだったら、どう反応しますか。」怒りは、私たちが愛するもの、大切にしているものが脅かされたときに湧き上がる反応です。私たちは子どもを愛しているので、子どもを危険にさらすものに怒ります。それは正しい反応です。
  • 貧困や不正、罪のない子どもたちが命を奪われる戦争についても同じです。「私たちは怒るべきではないでしょうか。」神さまご自身がそうなのです。「神は義なる審判者、また日ごとに怒りをいだく神」(詩篇7篇11節)。神さまは正義を愛され、その怒りは、世の不正に対する正しい答えです。

3. あなたの心は何を守ろうとしていますか

  • 「実際には、私たちの怒りはしばしば不義です。私たちの怒りそのものが、世の問題の一部になっています。」
  • 子どもに煩わされると、すぐにかっとなります。だれかに害を与えられたり、見下されたりすると、怒りが込み上げます。
  • 牧師は自分自身を吟味します。子どもたちに腹を立てるとき、それはたいてい、守る価値のないものにしがみついているからです。自分の快適さ、父親としての良い評判、状況を自分が握っているという感覚を守りたいのです。子どもたちを叱るとき、それは必ずしも子どもたちの成長を願っているからではありません。
  • 怒りは私たちが何を愛しているかを明らかにするので、鏡になります。「私たちが怒るときは、いつも自分に問うべきです。今、私の心は何を守ろうとしているのか、と。」
  • この問いを自分にすることで、自分の心を知るようになります。そして同じ問いをイエスさまについても向けることができます。イエスさまは何をそれほど愛しておられて、あのように怒られたのでしょうか。

4. イエスさまが愛されたもの:神さまの臨在

  • ユダヤ人の指導者たちはイエスさまを取り囲み、しるしを求めます。「あなたがこうする以上、どんなしるしをわたしたちに見せるのか」(ヨハネ2章18節)。つまり、何の権利があって商人たちを追い出すのか、ということです。
  • 一方、弟子たちはこのしるしを理解しました。商人たちを追い出されたことは、イエスさまがどなたであり、なぜ来られたのかを示していたのです。「弟子たちは、『あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう』と書いてあることを思い出した」(ヨハネ2章17節)。
  • この引用は詩篇69篇からです。「わたしはあなたの家を思う熱心に食いつくされ、あなたをそしる人々のそしりは、わたしに及んだ」(詩篇69篇9節)。「食いつくす」という言葉には二つの意味があります。ダビデは神さまの敵に食いつくされます。その熱心のゆえに、標的にされるのです。しかし同時に、神さまの臨在への自分自身の渇きにも食いつくされています。
  • 神殿は神さまの家であり、神さまの臨在が民の真ん中にとどまる場所です。イエスさまの怒りは、その臨在を慕う燃えるような願いから来ています。神さまとの親しい交わりは、イエスさまにとって何よりも尊いものでした。
  • この交わりは、世界が造られる前からあった交わりの続きです。「神は愛である」(1ヨハネ4章8節)。愛するには、愛する相手が必要です。ところが聖書は、神さまが人を造られたときに愛になった、とは言っていません。神さまは常に愛であられたのです。
  • 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった」(ヨハネ1章1-2節)。神は唯一であり、父・子・聖霊の三つの位格を持っておられます。
  • 神さまは、ひとりぼっちだったから、あるいは愛する相手が足りなかったから人を造られたのではありません。神さまは永遠に、愛の交わりとして存在しておられました。人は、三位一体の神の愛があふれ出たところから造られたのです。そして神さまの願いは、父・子・聖霊のこの愛の交わりの中に、私たちを迎え入れることです。

5. 私たちと共に住むと決めた神さま、そして壁

  • 創世記1章と2章は、アダムとエバが何の妨げもなく神さまとの交わりを喜んでいる姿を示しています。エデンの園で二人は裸でしたが、神さまの御前を共に歩くことを恥ずかしいとは思いませんでした(創世記2章25節)。
  • 罪がすべてを変えました。そのために、私たちはもはや、神さまの臨在の中へ気軽に進み出ることができなくなりました。
  • それでも、聖書の歴史全体は、人と共にとどまろうとする神さまの決意を物語っています。荒野では、ご自身の臨在を現すために幕屋を建てさせられました。のちには、建物である神殿がそれに代わります。
  • 神殿は新しいエデンのようなものです。壊れた世界の中で、人が神さまの臨在に出会える場所です。けれども問題があります。壁があったのです。
  • 壁や幕が、あまり近づきすぎることを妨げていました。清めを受けた異邦人は外庭までは入れましたが、最初の壁の先には進めませんでした。ユダヤ人の女性は、二つ目の壁を越えられませんでした。さらに奥へ進むことを、他の制限がふさいでいました。いちばん奥の場所には、ひとりの人だけが、年に一度だけ入ることができました。
  • 一方には、民と共にいようとされる神さまの決意があります。もう一方には、罪のために制限された近づき方があります。神殿はこの緊張を絶えず思い起こさせるものでした。
  • だからイエスさまは怒られたのです。神殿に持ち込まれた商売は、民と神さまとの間に、人間の手によるもう一つの壁を築いていました。イエスさまは、この緊張を解消し、人が神さまの臨在に近づくのを妨げるすべての壁を取り壊すために来られました。

6. 本当の神殿:こわされ、よみがえるイエスさま

  • 「この神殿をこわしてみよ。三日のうちに、それを起すであろう」(ヨハネ2章19節)。イエスさまはご自分のからだである神殿について語っておられました(ヨハネ2章21節)。ご自分が死んで、三日目によみがえることを告げておられたのです。
  • 神さまの臨在を慕うその燃えるような願いは、十字架の上でイエスさまを食いつくそうとしていました。
  • 十字架の上で、イエスさまは叫ばれます。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)。その少しあと、「イエスはもう一度大声で叫んで、息をひきとられた。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂け、地震があり、岩が裂け」(マタイ27章50-51節)。
  • イエスさまがこの叫びを上げられたとき、神さまと人とを隔てていた壁を、御父の前でご自身が味わわれたのです。イエスさまが十字架の上で私たちの代わりに食いつくされたので、私たちは赦されています。
  • 神さまの臨在を遠ざけていた幕は、上から下まで裂けました。隔てていたものは打ち砕かれたのです。イエスさまのゆえに、私たちは今、神さまの臨在に自由に近づくことができます。
  • そして、イエスさまが神さまの臨在に渇いておられたように、私たちもまた、その臨在を渇き求める者となっていきます。
  • メッセージのあとの祈りの時間に、会衆は、イエスさまが何よりも愛し、守ろうとされたもの、すなわち神さまの臨在を思い起こすよう招かれます。そして問いかけが続きます。「私たちは、イエスさまと同じ渇きを持っているでしょうか。」神さまをもっと知りたいと願い、もっと深く交わり、イエスさまが私たちのために勝ち取ってくださったこの交わりを喜ぶことです。

心に留めたいこと

  • 怒りは、私たちが愛するものが脅かされたときに湧き上がります。神殿でのイエスさまの怒りは、イエスさまが最も愛しておられたもの、神さまの臨在を明らかにしています。
  • 正しい怒りは、不正に反応します。自分の快適さや評判、思いどおりにしたい気持ちを守ろうとする怒りは、守る価値のないものを愛しすぎていることを示しています。
  • 神さまは常に愛であられました。父・子・聖霊です。神さまは、私たちをご自身の愛の交わりの中に迎え入れるために、私たちを造られました。
  • 神殿は人を神さまに近づけながら、同時に壁によって遠ざけてもいました。イエスさまは、そのすべての壁を取り壊すために来られました。
  • イエスさまは本当の神殿です。その死と復活によって幕は裂け、あなたは自由に神さまに近づくことができます。

個人への問いかけ

  • 最後に怒ったとき、あなたの心は何を守ろうとしていましたか。
  • あなたの怒りは、人を傷つける不正に向けられることが多いですか。それとも、自分の快適さやイメージを乱すものに向けられることが多いですか。
  • 自分で築いたものであれ、他の人が築いたものであれ、どんな壁が今、あなたが神さまに近づくのを妨げていますか。
  • 神さまの臨在を、イエスさまが勝ち取ってくださった自由な道として生きていますか。それとも、入るにふさわしくならなければならない場所として生きていますか。
  • イエスさまのように、神さまをもっと知りたいという渇きがありますか。この交わりを喜ぶために、今週何ができるでしょうか。

引用された聖書箇所

よくある質問

イエスさまはなぜ神殿で怒られたのですか。

ジェシー・ローズ師によれば、怒りとは、愛するものが脅かされたときに湧き上がる反応です。イエスさまは何よりも神さまの臨在を愛しておられました。神殿の境内に商売が持ち込まれたことで、人々は民と神さまとの間にもう一つの壁を築いていたのです。神さまの家を思う熱心が、イエスさまを食いつくしていました(ヨハネ2章17節、詩篇69篇9節)。

イエスさまの「この神殿をこわしてみよ。三日のうちに、それを起すであろう」とは、どういう意味ですか。

イエスさまはご自分のからだである神殿について語っておられました(ヨハネ2章21節)。ご自分の死と、三日目の復活を告げておられたのです。十字架で、神殿の幕は上から下まで裂けました(マタイ27章51節)。人と神さまの臨在とを隔てていた壁は取り除かれ、私たちは今、自由に神さまに近づくことができます。

自分の怒りが正しいかどうか、どうすれば分かりますか。

ジェシー・ローズ師は、簡単な問いを提案します。今、私の心は何を守ろうとしているのか、という問いです。正しい怒りは、神さまの怒りと同じように、不正に反応します。自分の快適さや評判、すべてを思いどおりにしたい思いを守ろうとする怒りは、本来その場所を占めるべきでないものを、私たちが愛しすぎていることを表しています。

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