レビ記19章:収穫の中に貧しい人の場所を残す

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はじめに

教会では毎年、貧困について考えるための主日が設けられています。今年のテーマは、貧困と労働の関係でした。この礼拝で、パリ中央福音バプテスト教会(Église Évangélique Baptiste de Paris-Centre)は、レビ記の2つの節を開きました。

「あなたがたの地の実りを刈り入れるときは、その畑の隅々まで刈りつくしてはならない。またあなたの刈り入れの落ち穂を拾ってはならない。またあなたのぶどう畑の実を取りつくしてはならない。またあなたのぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。それらを貧しい者と寄留の他国人とのために残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」(レビ記19章9-10節)

「この箇所はとても短いのですが、その教えは非常に豊かです」と説教者は語ります。落ち穂拾いに関するこの律法が何を述べているのか、何を意味するのかを丁寧に理解し、そのうえで、畑もぶどう畑もないあなたにとって、今日どのように関わってくるのかを考えていきます。

メッセージの流れ

1. 生活のすべてに関わる律法

  • レビ記19章は、モーセを通して、イスラエルの全会衆に語られています。民はエジプトを出て荒野にいますが、この箇所はすでに「あなたがたの地」での生活を見据えています。神は、これから与えようとしている土地でどう生きるべきかを説明しているのです。
  • この章には、安息日、いけにえ、オカルト、偶像礼拝のほか、両親、高齢者、敵、そして最も弱い立場の人々との関わりまで書かれています。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という戒めが最初に登場するのも、ここです(18節)。
  • この幅広さは、神が私たちの生活全体に関心をもっておられることを思い起こさせます。説教者はある神学者の言葉を引用します。「すべてを治めておられるキリストが『これはわたしのものだ』と叫ばれない場所は、人間の存在のあらゆる領域に、1平方センチメートルたりともない。」
  • あなたの人生のあらゆる面が主のものです。宗教的な領域や、私生活のほんの一部だけではありません。

2. あなたの畑、しかし畑のすべてではない

  • 読者はこう思うかもしれません。自分の畑であり自分のぶどう畑なのだから、どうしようと自分の自由だ。貧しい人がやって来て取っていく権利がどこにあるのか、と。説教者は、これが自分自身の率直な反応かもしれないと認めます。「所有に対する意識がかなり強い」からです。
  • しかもこの箇所が語っているのは収穫、つまり労苦の実を集める時です。森で勝手に育つものではありません。種をまき、土地を手入れしてきた持ち主の苦労の実です。
  • モーセの律法はさらに踏み込んでいます。申命記23章では、隣人のぶどう畑に入った人は、かごに入れさえしなければ、好きなだけぶどうを食べてよく、手で穂を摘んでもよいとされています。ただし、穂に鎌を当ててはいけません。これによって、「触るな、これは私のものだ」と厳密に言い張ることが防がれます。
  • これらの律法は、所有権を否定するものではありません。この箇所は「あなたの畑」「あなたのぶどう畑」と述べています。財産が皆の共有になるわけではありません。貧しい人は隅の部分や、鎌が通ったあとに残ったものを取り、手で摘みます。収穫の大部分は持ち主のものです。
  • パウロは霊的な文脈で語っていますが、自然の領域でも同じことが言えます。労苦する農夫は、収穫の分け前を最初に受けるべきなのです(2テモテ2章6節)。唯一ではなく、最初にです。私たちはまず、自分自身と家族の必要を満たすために働きます。
  • けれども、私たちは自分と家族のためだけに働くのではありません。創世記の初めから、神は人類に、生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよと命じておられます。この使命において、私たちは互いに依存しています。貧困に覆われたこの世界では、「私たちの働きの実の中に、貧しい人のための場所がなければならない」のです。

3. すべてを所有し、成長をもたらす神

  • 畑は私の畑、ぶどう畑は私のぶどう畑です。しかし、全地は神のものです。まず神の畑であり、神のぶどう畑なのですから、神には、私たちがそれをどう用いるべきかを告げる権利があります。
  • 「隣人に対しては、私は自分のものの所有者です。しかし神の前では、神のものの管理者にすぎません。」
  • 麦の刈り入れとぶどうの収穫のとき、人はそれぞれ自分の労苦の実を集めます。しかし、麦もぶどうも育ててくださったのは神です。「わたしが植え、アポロが水を注いだ。しかし、成長させて下さったのは、神である」(1コリント3章6節)。また詩篇127篇にもこうあります。「主がその家を建てるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。」
  • あなたが仕事に注ぐ力、健康、エネルギー、知性、いのち、息は、神から来ています。自分の畑を耕せること自体が、すでに受けるに値しない恵みです。それは、悪い者にも良い者にも太陽を昇らせ、土地を民に無償で与えてくださった神の恵みなのです。
  • そうであれば、「これは私のもの、私だけのものだ」と言って働きの実を奪い合うことはできません。あなたの持っているものは、神のみわざと恵みから来ています。神はそれを、あなたが惜しみなく管理するために与えてくださったのです。
  • そこで神は、ご自分の民に、苦しむ人々、つまり貧しい人々と、寄留者に分け与えるよう呼びかけておられます。旧約聖書では、やもめや孤児と並んで、寄留の他国人は貧しい人の典型的な姿の一つです。民の一員ではないのに、民の寛大さの恩恵にあずかるべき人なのです。

4. 持っていくのではなく残しておく:労働の尊厳

  • 律法は、貧しい人々に麦やぶどうや大麦を持っていきなさい、とは言いません。彼らのために残しておきなさい、と言っています。取りに来るのは、貧しい人や寄留者自身の務めでした。
  • その違いを知るために、説教者はルツ記を読むよう勧めます。そこには、落ち穂拾いが骨の折れる仕事だったことが描かれています。貧しい人が夕方に持ち帰る量は、ある程度、本人の努力にかかっていました。
  • ただし、ある程度だけです。持ち主の善意や悪意にもかかっていました。持ち主は見逃すこともできれば、妨げることもでき、律法が求める以上に寛大に振る舞うこともできたからです。貧しい人の働きと、持ち主の善意の両方があったのです。
  • 聖書において、働くことは本質的に良いものです。たとえ月曜の朝がつらいことがあってもです。創世記にある、顔に汗してパンを食べるという言葉は、労働が罪から来たとは言っていません。罪から来たのは、労働が苦しいものになったことです。
  • 人間は働くために造られました。人は仕事を通して自分の尊厳を表します。神は働かれる神であり、神のかたちに造られた人間は、働くことで創造主の何かを映し出すからです。
  • 病気や失業、そのほかの理由で働けない人も、尊厳を失うわけではありません。しかし、これまでと同じ形でそれを表すことができなくなります。それは不幸なことで、長いあいだ仕事を奪われてきた人ならよくわかるはずです。ですから、できる限り、すべての人が社会の営みに参加できるようにすることが大切です。
  • 落ち穂拾いの律法は、貧しい人に働く機会を与えることで、その尊厳を尊重しています。

5. 施しと落ち穂拾いの間で、バランスを見つける

  • 「誤解しないでください。貧しい人に何かを与える前に、必ず見返りを求めるべきだと言っているのではありません。決してそうではありません。」今日よく行われていることとは反対に、聖書は施しをはっきりと重んじています。
  • こうまとめた人たちがいます。「人々が自分でできることを、代わりにしてあげてはならない。」できる人には、代わりにしません。できない人には、与えます。
  • 何もできない人、たとえば良きサマリア人のたとえで道端に倒れていた傷ついた人は、ただ助けるのです。それだけです。
  • 説教者は強調します。そのまま助けるべき苦境とは、命の危険のことだけではありません。打ちひしがれた霊や、もう耐えられなくなった心もそうです。限界に来た人に「手も足もあるのだから、貧困から抜け出すために働きなさい」とは言いません。
  • 貧困が人をそれほどの状態にしてしまうことがあります。そのときは、待つこと、忍耐すること、支えることが必要で、そのあとで初めて「今度はあなたも、できる形で関わってみませんか」と言えるのです。
  • 畑の一部を貧しい人のために残すことは、「それ以外のことは自分でなんとかしなさい」という意味ではありません。聖書は、配慮とバランスを教えています。施しにふさわしい時と状況があり、落ち穂拾いにふさわしい時と状況があるのです。

6. 畑もぶどう畑もないあなたは?

  • 「聖書はすべて神の霊感を受けたもので、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(2テモテ3章16節)。ですから、この箇所はあなたにも必ず語りかけることがあります。
  • 文字どおりの適用を探すことが目的ではありません。そうすると、ほとんどの人が「畑もぶどう畑もないから、この箇所は自分には関係ない」と言うでしょう。今も有効なのは、律法の背後にある原則です。
  • 「だから、機会のあるたびに、すべての人に対して、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか」(ガラテヤ6章10節)。教会の中での連帯は特に大切ですが、それによって社会に対する人道的な務めが免除されるわけではありません。
  • 探ってみたい道の一つは、できるときに、貧しい人々の尊厳が表れるような形で助けることです。働けるように、あるいは仕事を見つける手段を得られるように手助けします。就学、識字、職業訓練、住所の登録(ホームレスの人々の間で働くミッション・エヴァンジェリック〔Mission évangélique parmi les sans-logis〕の人たちなら、この点を話せるでしょう)、収入を生む活動の立ち上げなどです。
  • 多くの人にとっての出発点は、あなたの仕事の意味が、家族と暮らしていくために稼ぐことだけではないと理解することでしょう。同僚に福音を伝える機会というだけでもありません。キリストにある兄弟姉妹と社会の益に関わり、貧しい人と分かち合うことでもあるのです。

7. イエスの光のもとでこの箇所を読む

  • この箇所は、イエスについて明確には語っていません。それでも説教者は、イエスの人格とみわざの光のもとでこそ、この箇所が深く理解できると確信しています。
  • イエスにあって、神は恵みを示してくださいました。私たちは神の前で絶望的に貧しく、救いに何一つ寄与できない者でした。神は私たちを立ち上がらせ、私たちの内に神のかたちを回復し始めてくださいました。さらに、私たちを神への奉仕に用い、私たちがささげる奉仕を喜んで受け入れてくださいます。
  • 「このことは、私たちが貧しい人々とどう向き合うかに表れるべきではないでしょうか。」
  • ある人が説教者に、もっともな指摘をしました。この箇所は曖昧だというのです。レビ記19章は、残しておく隅や縁の大きさを定めていません。何メートルなのか。何センチなのか。聖書は述べていません。そのため、各自に裁量の余地が残されています。おそらく、年や家族の状況に応じて、貧しい人のために残す麦や大麦、ぶどうの量は変わりえたのでしょう。
  • あなたも、自分の人生の中で貧しい人のための場所を空けるよう招かれています。その方法を決める自由は、あなたにあります。あまり多くはできないときもあり、それを受け入れる必要があります。けれども、神があなたの限界を広げたいと願われるときもあります。
  • 神は何よりも、イエス・キリストにある恵みに気づかせ、主がどれほど良い方かを味わわせることによって、それをなさいます。メッセージは次の呼びかけで終わります。主の慈しみに満ちた御顔を求め、あなたの人生の中で貧しい人にふさわしい場所を空けることを学びましょう。

押さえておきたいポイント

  • あなたの人生のすべては主のものです。仕事も、そこから得られるものも含まれます。
  • 隣人に対して、あなたは所有者です。神の前では、あなたは神のものの管理者であり、成長をもたらしてくださるのは神です。
  • 落ち穂拾いの律法は、働きの実の中に貧しい人の場所を設けつつ、働く機会を与えることで、その尊厳を尊重しています。
  • 見返りを求めない施しの時があり、落ち穂拾いの時があります。聖書は配慮とバランスを求めています。
  • 神の前で貧しかった私たちが、イエスにあって受けた恵みこそが、あなたが貧しい人のために空ける場所を広げます。

個人への適用

  1. 給料や持ち物、時間のことを考えるとき、最初に浮かぶのは「これは私のものだ」ですか、それとも「神が私に委ねてくださったものだ」ですか。
  2. 今日、あなたは身の回りの困っている人のために、「畑の隅」をどれだけ残していますか。
  3. 人を助けるとき、見返りを求めずに与えるべき時と、相手が関わることを促すべき時を、見分けられていますか。
  4. あなたの仕事は、家族を超えて、キリストにある兄弟姉妹と社会の益に、どのように貢献していますか。
  5. 今年、神はどの分野で、あなたの限界を広げようとしておられるでしょうか。

引用された聖書箇所

よくある質問

レビ記19章9-10節の落ち穂拾いの律法は、何を求めていますか。

収穫のとき、イスラエルの民は畑の隅々まで刈り取ってはならず、最初に刈ったあとで残りを拾い集めに戻ってもいけませんでした。ぶどう畑の最後の実も摘み取ってはなりません。残ったものは貧しい人と寄留者のためにそのままにされ、彼ら自身が取りに来ました。

落ち穂拾いは、所有権を否定するものですか。

いいえ。この箇所ははっきりと「あなたの畑」「あなたのぶどう畑」と述べており、収穫の大部分は持ち主のものです。ただし説教者は、全地は神のものだと思い起こさせます。隣人に対して、私は自分のものの所有者ですが、神の前では、神のものの管理者なのです。

貧しい人には、いつも見返りを求めるべきですか。

いいえ。聖書は施しをはっきりと重んじています。落ち穂拾いは、貧しい人が働けるようにすることでその尊厳を尊重しますが、何もできない人、たとえば良きサマリア人のたとえの傷ついた人や、心がもう持ちこたえられない人は、見返りなしに助けられるべきです。施しの時があり、落ち穂拾いの時があります。

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