はじめに
歴史上もっとも有名な人物の伝記を任されたと想像してみてください。始まりの部分はそろっています。誕生、天使たち、羊飼いたち、空に輝いた光。終わりの部分もそろっています。裁判、十字架、空っぽの墓。その間には、埋めるべき三十年ほどの空白があります。あなたなら、そこに何を書くでしょうか。クリーブランド・バプテスト教会(Cleveland Baptist Church)の会員であるウィル・クーパー(Will Cooper)は、ルカの福音書2章41節から52節を扱うこの夕べのメッセージを、この問いから始めています。
古代の著者なら、何をすべきかをよく知っていました。のちの偉大さを予告するような、少年時代のエピソードを語ることです。プルタルコスは、若きアレクサンドロス大王がペルシアの使節団を迎えたとき、子どもらしい質問ではなく、アジアの道路網やペルシア軍の規模について問いただしたと伝えています。フィロンも、少年時代のモーセについて同じような記述をしています。さらに歴史家ヨセフスは、自分自身について、十四歳のときに祭司長たちや町の有力者たちが律法の細かな点について意見を聞きに来たと語っています。説教者はこれを面白がります。町の男たちがみな自分の話を聞きに来た、と言い張る十四歳の少年がいるのですから。
ルカは、こうした文学形式を知っている世界に向けて書いており、彼もまた少年時代の一場面を私たちに伝えています。しかし、ルカは敬虔な伝説を作っているのではありません。彼は正確に調べたうえで、「あなたがすでに受けた教が確実であることを、よく知ってもらうため」に書いたのです(ルカ1:4)。この箇所は、聖書全体の中で、イエスの幼年期と成人してからの働きの間に位置する唯一の記事であるため、いっそう貴重です。マタイはエジプトへの逃避からいきなりヨルダン川に飛び、マルコとヨハネはイエスの少年時代について何も語りません。ウィル・クーパーはここに三つの点を見ています。捜し求められる御子、御子を突き動かす必然、そしてすべてを結びつける従順です。
メッセージの構成
1. 過越の祭に忠実な家族
- 「イエスの両親は、毎年、過越の祭には エルサレムへ上っていた」(ルカ2:41)。律法は、イスラエルに三つの大きな祭のためにエルサレムへ上ることを求めていました。「あなたの男子はみな一年に三度、……主の選ばれる場所で、あなたの神、主の前に出なければならない」(申命記16:16)。
- ナザレからエルサレムまでは約百キロで、片道に数日かかります。さらに、過越の祭と除酵祭のために現地で一週間を過ごします。ガリラヤの家族にとって、これはおそらく一年で唯一可能な旅であり、ヨセフとマリヤは忠実にそれを続けていました。
- 律法がこれを求めていたのは男性だけでした。それでもマリヤは毎年上っていました。そこに浮かび上がるのは、敬虔で信仰深い家族の姿です。
- 過越の祭は、小羊の夜、戸口の柱に塗られた血、そしてエジプトでイスラエルを過ぎ越した死の使いを思い起こさせました(出エジプト記12章)。約二十年後、イエスはエルサレムに戻り、こう言われます。「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしようと、切に望んでいた」(ルカ22:15)。パウロはこう書きます。「わたしたちの過越の羊であるキリストは、すでにほふられたのだ」(1コリント5:7)。過越の祭を祝いに来た少年は、いつの日か、過越の小羊となるために戻ってくるのです。
2. 捜し求められる御子
- なぜ十二歳なのでしょうか。ユダヤの少年は十三歳で会堂の正会員となりました。トーラーに伴う口伝を集めたミシュナは、その前の一、二年を、息子に過越の祭の儀式を教えることに充てるよう父親たちに勧めていました。ですから十二歳のイエスは、すべてを学ぶためにヨセフのそばを離れずにいるはずだったのです。
- ところが、「少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。そして道連れのうちにいることと思い、一日の旅をつづけた」(ルカ2:43-44)。そこで今夜の問いはこうなります。神の御子を、どうすれば見失うのでしょうか。
- 「道連れ」と訳された言葉(ギリシア語でシュノディア)は、隊商を指します。親族や隣人、村全体が、盗賊から身を守るために一緒に歩いたのです。子どもたちは一団から別の一団へと移り歩いていました。マリヤはおそらくイエスがヨセフと一緒にいると思い、ヨセフはマリヤと、あるいはいとこたちと一緒にいると思っていたのでしょう。夕方になってようやく、誰かが尋ねます。「イエスはどこにいるのか」。
- これは十分間だけ迷子になった子どもの話ではありません。丸三日間のことです。しかも、人であふれる町を捜し始める前に、引き返すだけで一日の道のりがありました。ウィル・クーパーは、自分も「その子ども」だったと打ち明けています。ある日、学校帰りに裏口から出て、母親の車のトランクに隠れたのです。母親は、息子が歩いて帰ったものと思い、車を出しました。その驚きはまったく笑えるものではなく、大目玉を食らいましたが、それでもほんの一時間ほどの出来事でした。三日間というのは、決して軽いことではありません。
3. 教師たちを驚かせる一人の生徒
- 「三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」(ルカ2:46)。座って、耳を傾け、質問する。これは生徒の姿勢です。律法の教師たちは神殿の庭に陣取り、弟子たちがその周りを囲みました。教えは問いと答えを通して伝えられたからです。
- イエスはラビたちに講義をするのではなく、彼らから学んでいます。それがあまりにも見事だったので、「聞いている者はみな、イエスの知恵ある賢い答に驚いていた」のです(ルカ2:47)。ギリシア語の動詞(エクシステミ)は、文字どおりには「自分の外に出る」という意味で、バランスを失うほどの衝撃を表します。
- ルカは、福音書の終わり近く、エマオへの道でも同じ言葉を用いています。「わたしたちの仲間のある女たちが、わたしたちを驚かせました」(ルカ24:22)。この福音書は、イエスに心を揺さぶられた人々で始まり、そして終わります。最初は並外れた知恵を示す少年に、最後は空っぽの墓にです。
- ヨセフスとの対比は印象的です。彼は十四歳のときに人々が意見を聞きに来たと自慢しますが、イエスは十二歳で、座って耳を傾けます。もっとも教えるべきものを持っておられた方が、生徒の席に着かれたのです。
- 母親はイエスに言います。「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、お父さんもわたしも、心配してあなたを捜していたのです」(ルカ2:48)。「心配して」と訳された言葉は、現実の苦しみを表します。ルカがこの言葉を使うのは、あと二回だけです。一つは、金持ちが「わたしはこの炎の中で苦しみもだえています」と叫ぶ場面(ルカ16:24)。もう一つは、エペソの長老たちが「もう二度と自分の顔を見ることはあるまいと言われたので、特に心を痛めた」場面です(使徒20:38)。マリヤは少し困っていたのではありません。三日間、苦悶のうちに過ごしたのです。
- 「捜す」という動詞(ギリシア語でゼーテオー)にも注目してください。ルカは、この言葉をまだ使い終えていません。
4. 「わたしの父のこと」:生意気な答えなのか
- 「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」(ルカ2:49)。これはルカの福音書におけるイエスの最初の言葉であり、私たちの手元にあるもっとも古いイエスの言葉です。優れた物語では、登場人物の最初の言葉が、その人が何者であるかを明らかにします。
- マリヤは「お父さん」と言い、イエスは「わたしの父」と答えます。二つの文の間で同じ言葉が使われていますが、同じ父ではありません。マリヤが語っているのは、イエスを育てている正しく忠実な人ヨセフのことであり、イエスが語っているのは神のことです。
- ギリシア語は文字どおりには「わたしの父のものの中に」と言っています。教父たちや大半の学者は、そこに神殿、すなわち「わたしの父の家」を見ています。どちらかに決める必要はありません。家であれ、務めであれ、重みを担っている言葉は「わたしの父」です。
- 御使いはマリヤに、その子が「いと高き者の子」「神の子」と唱えられると告げていました(ルカ1:32、35)。イエスが自らそれを口にしたのは、これが初めてです。3章のバプテスマの場面では、天からの声がこう宣言します。「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)。2章では御子が「わたしの父」と言い、3章では父が「わたしの子」と言います。二つの場面は、両側から同じ真理を語っているのです。
- ルカはイエスの系図に続けます。それは「アダムの子、神の子」で終わり(ルカ3:38)、続く荒野の場面では、悪魔の最初の言葉が「もしあなたが神の子であるなら……」です(ルカ4:3)。最初の神の子であるアダムとは違い、この御子は倒れません。
- 親にとっては、こんな疑問が自然にわいてきます。十二歳の子が「どうしてわたしをお捜しになったのですか」と答えるのは、生意気に聞こえないでしょうか。ジャン・カルヴァンは、イエスが母をやさしくたしなめていると考えました。非難というより驚きだと見る人々もいます。
- ウィル・クーパーはこれを、やさしい訂正をにじませた、率直な驚きとして読んでいます。「ほかのどこにいられたというのですか。ご存じのはずでしょう」。そこに反抗はありません。そのあとすぐ従順が示されるからです。
- 50節には、ほっとするような一節があります。「しかし、両親はイエスの語られた言葉の意味を悟らなかった」。ここでイエスが少し分かりにくいと感じるなら、あなたはヨセフとマリヤと同じ仲間にいるのです。
5. 十字架へと導く必然
- 「いるはず」「ねばならない」と訳されるギリシア語の小さな言葉(デイ)は、必然を表します。これはルカが好んで使う言葉のひとつで、学者たちが神的必然の言語と呼ぶものです。神のご計画を指し示すための彼の表現です。
- 「ねばならない」には二種類あります。一つは外から課せられた規則です。税金を払わなければならない、この書類に記入しなければならない、信号で止まらなければならない、というものです。もう一つは愛から来るものです。父親が真夜中に子どもの泣き声を聞いて、「行かなければ」と言います。誰に強いられたわけでもなく、それが父親の性質だからです。イエスの「ねばならない」は、この二つ目の種類です。ヨハネはこう伝えています。「わたしの食物とは、わたしをつかわされたかたの御旨を行い、そのみわざをなし遂げることである」(ヨハネ4:34)。
- 一度気づくと、この「ねばならない」は福音書全体を貫く糸のように、あらゆるところに現れます。「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない」(ルカ4:43)。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、……殺され、そして三日目によみがえるべきことが必要だ」(ルカ9:22)。「わたしは、きょうもあすも、またその次の日も進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、あり得ないからである」(ルカ13:33)。「しかしまず、彼は多くの苦しみを受け、この時代の人々に捨てられねばならない」(ルカ17:25)。「『彼は罪人の中に数えられた』と書いてあることは、わたしの身に成就するはずである」(ルカ22:37)。罪のない御子が、罪人の中に数えられなければならないのです。
- 9章には大きな転換点があります。イエスはエルサレムへ行く決意を固められます(ルカ9:51)。そこで何が待っているかを正確に知りながらです。驚きはなく、それでも、そちらへ顔を向けられたのです。
- 成人したイエスは、神殿に戻ります。商人たちを追い出し、そのうえで「イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者、民のおもだった者たちはイエスを殺そうと謀った」とあります(ルカ19:47)。教師たちを驚かせた少年は、今では毎日教えており、宗教指導者たちはその死を望んでいます。同じ動詞が再び現れます。マリヤは愛をもってイエスを捜し、指導者たちは殺すためにイエスを捜すのです。
- マラキはこう告げていました。「あなたがたが求めている主は、たちまちその宮に来る」(マラキ3:1)。主は子どもとして、また大人として宮に来られましたが、人々は気づきませんでした。
- 復活の朝、御使いたちは女たちに問いかけます。「あなたがたは、どうして生きた方を死人の中にたずねているのか」(ルカ24:5)。ここでも同じ動詞です。ルカは、神殿の場面が復活の予表であるとは決して言っておらず、説教者も慎重な姿勢を保っています。それでも、その響きは無視しがたいものです。過越の祭の間、エルサレムで三日間続いた捜索が、イエスが生きておられるのを、父が望まれた場所で見つけたときに終わるのですから。
- 御使いたちは、イエスが語っていたことを思い起こさせます。「人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえることになっている」(ルカ24:7)。エマオへの道で、復活の主は尋ねられます。「キリストは必ずこのような苦難を受けて、それから栄光に入るはずではなかったか」(ルカ24:26)。そして最後の言葉の中で、「わたしについてモーセの律法と預言書と詩篇とに書いてあることは、必ずことごとく成就する」と言われます(ルカ24:44)。
- ルカにおけるイエスの最初の言葉の中で、イエスは「ねばならない」と言い、最後の言葉のひとつでは「ねばならなかった」と言われます。十二歳の神殿から空っぽの墓まで、たった一つの必然がイエスの生涯を支配しています。「わたしの父の家にいるはずだ」と言った少年は、ゲツセマネで祈る人です。「わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」(ルカ22:42)。そして息を引き取る間際に言われます。「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46)。ただの一歩も、脇にそれることはありませんでした。
- なぜエルサレムでなければならず、なぜ十字架でなければならなかったのでしょうか。私たちのためです。「人の子は、失われたものを尋ね出して救うために来たのである」(ルカ19:10)。ここでも「捜す」という動詞です。マリヤとヨセフはイエスを捜し、宗教指導者たちはイエスを滅ぼそうと捜し、女たちは死人の中にイエスを捜します。しかしルカのその後の記述がすべてを覆します。失われていたのはイエスではなく、私たちだったのです。神はイエスにあって私たちを捜しに来られ、十字架で私たちを見つけてくださいました。そこでイエスは罪人の中に数えられ、私たちの罪とさばきを負われました。それは、私たちが赦され、父のもとに連れ戻されるためです。この必然は、冷たいものではまったくありません。力強く私たちに向けられた愛なのです。
6. すべてを結びつける従順
- 49節で止まるなら、イエスはエルサレムにとどまり、十二歳から教え始めるだろうと思うかもしれません。しかし51節にはこうあります。「それから、イエスは両親と一緒に下って行き、ナザレに帰って、彼らに仕えられた」。
- ここで「仕える」と訳されている言葉は、誰かの権威の下に自らを置くことを意味します。パウロが家庭生活についての教えで使う言葉でもあります。ルカはこれを、継続的な態度を表すために用いています。再び旅立つ前の一度きりの行為ではなく、絶えざる服従です。約十八年間、神の御子は小さな丘の町で暮らし、仕事を学び、務めを果たし、父と母を敬われました。
- 10章では、七十二人の弟子たちが帰ってきてこう言います。「主よ、あなたの名によっては、悪霊までがわたしたちに服従します」(ルカ10:17)。これは同じギリシア語です。悪霊が服従する方が、十八年間、一人の大工とその母に仕えられたのです。
- 51節は49節と矛盾するのでしょうか。いいえ、とウィル・クーパーは答えます。それは神に向けられた、一つの同じ従順だからです。父のみこころは、イエスがエルサレムにとどまって早く働きを始めることではなく、ナザレに帰って第五の戒めを守ることでした。「あなたの父と母を敬え」(出エジプト記20:12)。神への最高の忠誠は、両親への従順を弱めません。むしろ、完全な従順にするのです。
- パウロは、神が御子を「女から生れさせ、律法の下に生れさせて」遣わされたと書いています(ガラテヤ4:4)。律法の下に生まれるとは、このことです。過越の祭のたびにエルサレムへ上り、そのたびに家に帰って父と母を敬う少年。子であることは、へりくだった日常の忠実さの中に現れるのです。
- 「イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、神と人とに愛された」(ルカ2:52)。この動詞(プロコプトー)は、うっそうとした森をなたで切り開いて進む人、あるいは鍛冶屋が金属の塊を一打ち一打ち叩いて剣に仕上げる姿を思わせます。イエスは本当に成長されました。学び、背が伸び、より賢くなられたのです。
- 「知恵と知識との宝はすべて、このキリストのうちに隠されている」(コロサイ2:3)という方が、どうして知恵において成長できるのでしょうか。ウィル・クーパーはウェイン・グルーデムを引用します。イエスは、すべての子どもと同じように、学びの過程を通られました。ロボットではなく、幼年期と思春期も含めて完全な人間でした。「彼は御子であられるのに、受けた苦しみによって従順を学び」(ヘブル5:8)、また「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべての点において、わたしたちと同じように試錬にあわれたのである」(ヘブル4:15)。
- 説教者はすべてを説明できると主張しているわけではありません。言えるのは、永遠の御子が、ぎこちない時期も含めて人間の生のあらゆる段階を、父への完全な従順のうちに通られたということです。イエスは、理解されないことがどういうものかをご存じです。
- エデンでは、アダムとエバが自分たちの条件で知恵を求め、神のようになろうとして実に手を伸ばしました。神であられたイエスは、へりくだった道、すなわち成長し、学び、従うことによって知恵を受けられました。アダムがつかみ取ろうとしたところで、イエスは成長されたのです。パウロはこう要約しています。神のかたちであられた方は、「神と等しくあることを固守すべきこととは思わず」、おのれをむなしくして、「死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ2:6-8)。カルバリの従順は、突然始まったのではありません。十二歳のナザレの大工の子の姿の中に、すでにそれを見ることができます。
7. このメッセージをどう生かすか
- イエスについてまだどう考えてよいか分からないなら、ルカはあなたのために書きました。この箇所は、福音書全体の問いを投げかけています。イエスとは誰なのか。神を「わたしの父」と呼ぶ、ほかの誰にもできない言い方をする十二歳の少年。その生涯が、十字架へと向かう必然を、一歩一歩、意図をもってたどった人。そしてその必然は、あなたのためのものです。私たちは自分を救うことができなかったので、イエスは十字架に行かなければなりませんでした。死は父の御子を捕らえておくことができなかったので、イエスはよみがえらなければなりませんでした。今日、すべてを理解する必要はありません。マリヤも理解していなかったのですから。あなたは、ありのままの姿でイエスのもとに来ることができます。
- すでにイエスに従っている人には、二つのことがあります。第一に、父の必然は、たいていナザレのような姿をしています。私たちはつい、神は大きな出来事のときにだけ姿を現すと考えがちですが、イエスの「ねばならない」は、イエスを十八年間、家に連れ戻しました。その間のことは、誰も何も書き残していません。私たちの多くにとって、従順とは、家庭で、職場で、台所の流しの前で、病院のベッドの上で、あなたが今いるその場所で忠実であることのように見えます。神の御子が作業場で父に栄光を帰すことができたのなら、あなたも今週、神があなたを置かれた場所で、神に栄光を帰すことができます。
- 第二に、まだ理解できていないことを心にとどめてください。誰にでも、聖書の中に戸惑う箇所があり、その時点では意味が分からない状況があります。マリヤのようにしてください。「母はこれらのことを、ことごとく心に留めていた」(ルカ2:51)。彼女はそれらを退けず、思い巡らし、父にゆだねました。神のご計画は、私たちのものよりも大きな時間割に従っています。そしてイエスの生涯と同じように、墓で終わることはなく、復活へと至るのです。
- 最後の問いが残っています。あなたは神を、自分の父として知っていますか。あなたがしたことのゆえではなく、御子がしてくださったことのゆえにです。十二歳のとき、イエスは誰にもできない仕方で「わたしの父」と言うことができ、私たちもそう言えるように十字架に向かわれました。「しかし、時が満ちたとき、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせてお遣わしになった。それは、律法の下にある者をあがない出し、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。あなたがたが子であるので、神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである」(ガラテヤ4:4-6)。イエスが十二歳で語られたことを、私たちも語れるように、イエスは死んでくださったのです。
- 今夜、神が遠く感じられ、父というより裁き主のように思えるなら、解決策はもっと頑張ることではありません。答えは、一度も道に迷わなかったイエスが、私たちを捜しに来てくださったということです。イエスの従順は、ナザレでもカルバリでも完全でした。私たちの従順は決してそうはなれません。今、私たちを父の家へ、息子や娘として連れ戻してくださる方の名は、イエスといいます。
ポイントのまとめ
- ルカ2:41-52は、イエスの幼年期と宣教の間をつなぐ聖書で唯一の記事です。ルカは、あなたがイエスが誰であるかを確信できるように、これを書きました。
- ルカが記すイエスの最初の言葉から、イエスは「わたしの父」と言われます。十二歳で、ご自身が神の御子であることを知っておられたのです。
- イエスの「ねばならない」は、外からの強制ではなく、イエスの性質と愛の表れです。それはイエスを神殿から十字架へ、そして空っぽの墓へと導きます。
- 失われていたのはイエスではなく、私たちです。イエスは、失われたものを尋ね出して救うために来られました。
- イエスを神殿にとどめたのと同じ父への従順が、イエスをナザレに連れ戻し、十八年間の隠された歳月、両親に仕えさせました。
個人への適用
- 今日、あなたにとってイエスが誰であるかを言うとしたら、何と答えますか。そして、どのような確信に立っていますか。
- 神への従順は、課せられた規則のようですか。それとも、愛から来る「ねばならない」のようですか。
- 今週、あなたの「ナザレ」はどこにありますか。家庭、職場、台所、病院のベッドでしょうか。そこで、どのように父に栄光を帰すことができますか。
- まだ理解できていない状況や聖書の箇所はありますか。マリヤのように、それを心にとどめ、父にゆだねることができますか。
- あなたは神を、自分の努力ではなく、御子が十字架で成し遂げてくださったことによって、父として知っていますか。
引用された聖書箇所
- ルカ2:41-52
- ルカ1:3-4
- 申命記16:16
- 出エジプト記12章
- ルカ22:15
- 1コリント5:7
- ルカ24:22
- ルカ16:24
- 使徒20:38
- ルカ1:32-35
- ルカ3:22
- ルカ3:38
- ルカ4:3
- ヨハネ4:34
- ルカ4:43
- ルカ9:22
- ルカ9:51
- ルカ13:33
- ルカ17:25
- ルカ22:37
- ルカ19:47
- マラキ3:1
- ルカ24:5-7
- ルカ24:26
- ルカ24:44
- ルカ22:42
- ルカ23:46
- ルカ19:10
- ルカ10:17
- 出エジプト記20:12
- ガラテヤ4:4-6
- コロサイ2:3
- ヘブル5:8
- ヘブル4:15
- ピリピ2:6-8
よくある質問
イエスは神殿に残ることで、両親を軽んじたのですか。
ウィル・クーパーは、十二歳の少年の答えが生意気に聞こえうることを認めています。しかし彼は、それをむしろ、やさしい訂正を伴う率直な驚きだと見ています。「ほかのどこにいられたというのですか」。そこに反抗はありません。イエスはすぐに両親とともにナザレへ下り、彼らに仕えられたからです。
「わたしが自分の父の家にいるはずのこと」とはどういう意味ですか。
ギリシア語は、「わたしの父の家に」とも「わたしの父のことに」とも理解できます。説教者にとって、重みを担っている言葉は「わたしの父」です。十二歳のイエスは、神を自分の父と呼んでいます。「はず」(ギリシア語でデイ)は、十字架に至るまでイエスの全生涯を導く神的必然を表しています。
イエスが神であるなら、どのようにして知恵において成長できたのですか。
コロサイ2:3は、キリストのうちに知恵の宝がすべて隠されていると述べています。ウィル・クーパーはウェイン・グルーデムを引用します。イエスは、すべての子どもと同じように、学びの過程を通られました。幼年期と思春期も含めて完全な人間であり、そのすべての段階を、父への完全な従順のうちに生きられたのです。