ルカ24章:すべてはあなたではなく、イエスにかかっています

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はじめに

「これは私たちの話ではありません。すべてはイエスの話です。」これは、リバーサイド教会の牧師のひとりであるサラが、このメッセージのほかはすべて忘れても、これだけは覚えていてほしいと願っている言葉です。復活したイエスが集まっていた弟子たちに現れる場面(ルカ24章36-49節)を取り上げた、ルカ24章の終わりについての4週間のシリーズを、彼女はこの言葉で締めくくります。

この朝の話は、プレッシャーや重荷、背負うべき責任についてではありません。自分はこうならなければと思い込んでいる人物になろうとしなくても、開いた手のままで来て、ただイエスを仰ぐことができます。

それを伝えるために、サラはこの箇所を旧約聖書のいくつもの箇所と結びつけます。出来事の背景、細部、そして時刻までもが、この場面の読み方を変えてくれます。

メッセージの流れ

1. 背景がすべてを変える

  • サラは、ロバート・パティンソン主演の映画『リメンバー・ミー』(2010年)の結末を紹介します。教師が黒板に2001年9月11日の日付を書き、カメラが引くと、登場人物が世界貿易センタービルの屋上に立っていることがわかります。物語全体が、まったく違って見えてきます。
  • 同じように、旧約聖書はルカ24章に光を当てます。博物館に展示されているそれらの書物の断片は、イエスの誕生よりはるか前のものと年代が測定されています。「これは偶然ではありません。」
  • この日に読まれた出来事は、復活のまさにその日、過越の祭りのさなかに起こっています。

2. 午後3時に死んだ小羊

  • 過越は、エジプトからの脱出を思い起こす祭りです。神はイスラエルの民に、傷のない雄の小羊をほふり、その血を戸口に塗るよう命じられました。その夜、死は彼らの家に触れることなく過ぎ越していきました(出エジプト記12章)。
  • 小羊は毎年「夕暮れの間」、すなわち午後3時から5時のあいだにほふられます。
  • マタイ、マルコ、ルカは、つい読み飛ばしてしまう細部を記しています。イエスは午後3時ごろに息を引き取られたのです。「十字架につけられているとき、最後の息を引き取る時を自分で選ぶことはできません。」イエスは、小羊がほふられる時刻に亡くなりました。それは決定的で最終的ないけにえでした。
  • けれども弟子たちにとっては、すべての望みがイエスとともに消えたように見えました。王だと思っていた方が、ローマ人に処刑されてしまったのです。

3. 沈黙の土曜日

  • 安息日は金曜日の日没から始まります。サラは、この日に禁じられている活動が39種類あり、その中には公の場でも私的な場でも悲しみを表すことが含まれていると指摘します。弟子たちは、ついてきた方のために泣くことさえできませんでした。
  • 町から逃げ出すこともできません。許された歩行距離は約1キロメートルです。彼らは自分たちの家に戻り、次は自分たちの番ではないかと思ったことでしょう。
  • 聖書はこの土曜日について何も語りません。何も起こらなかったからです。けれども、イエスはその生涯で最も大きなわざを成し遂げようとしておられました。
  • 「もしあなたがイエスを見捨ててしまったように感じていても、イエスがあなたにとってもう何の意味もなくなっていても、今朝、確かなことはただひとつ、イエスはあなたを見捨てていないということです。」あなたに見えなくても、感じられなくても、イエスは働いておられます。

4. イエスは日常の中に入ってこられる

  • 安息日が終わるとすぐ、女性たちは香料を持って墓へ向かい、ふたりの弟子は約10キロメートル離れたエマオへの道を歩き出します。イエスは大きな奇跡を行うのではなく、彼らの混乱の中を、ただいっしょに歩かれます。
  • 「それは私たちの責任ではありません。」私たちはチームの一員であり、イエスは私たちを用いてくださいますが、イエスは私たちよりはるかに大きな方です。サラは作家のレイチェル・ヘルド・エバンスの言葉を引用します。「神は何度も何度も、人々が普段の暮らしを送る日常の場所で出会ってくださいます。私たちの予定ではなく、神の予定で。」
  • サラは何年ものあいだ、ひとりの友人をアルファコースや教会、伝道の集いに誘い続けました。答えはいつも「いいえ」でした。ところが数か月前、友人たちと過ごしていたパブで、その友人が言ったのです。「イエスを知りたい。いっしょに祈ってくれる?」そこまで導いたのは、イエスのほかにだれもいませんでした。
  • アルファの参加者から、なぜイエスと神がいつも行き来するのかと尋ねられたとき、サラはこう答えました。イエスは神の御子であり、地上におられた完全な神であり、完全な人です。
  • 聖書にはこのような例がたくさんあります。アブラハムは天幕の入り口に座っているときに神と出会い(創世記18章1節)、モーセはしゅうとの羊の群れを飼っているときに(出エジプト記3章1節)、サマリアの女は水をくみに来たときに出会いました(ヨハネによる福音書4章)。

5. 疑いにも居場所がある

  • その部屋には、生涯にわたって過越を祝い、バプテスマのヨハネがイエスを「神の小羊」と呼ぶのを聞き(ヨハネによる福音書1章29節)、イエスが復活すると語られたのを聞いた人々がいました。それでも、彼らは理解できなかったのです。
  • ペテロでさえ、復活の朝に、勝利を叫びながら墓から走り去ったのではありません。「事の次第を不思議に思いながら」帰って行ったのです(ルカによる福音書24章12節)。
  • イエスが現れたとき、弟子たちは霊を見ているのだと思いました(ルカによる福音書24章37節)。
  • 「私は毎日、疑問や疑い、不信仰を抱えています。そして、それを愛することを学びました」とサラは打ち明けます。それが、神を探し求め、すべてを神のもとに持っていくよう促してくれるからです。私たちがすべての答えを持つことは決してありません。「もしあなたが答えを持っているなら、ぜひ教えてください。私も知りたいです。」

6. 癒やしをもたらす傷

  • 幽霊ではないことを証明するために、イエスは新しい奇跡を行うのではなく、「手と足とをお見せになった」のです(ルカによる福音書24章40節)。弟子たちが最大の弱さだと思っていたものが、イエスが生きておられるしるしになりました。
  • サラはタイラー・ステイトンの言葉を引用します。「神がほかの人を癒やすために用いられるのは、私たちの能力ではなく、むしろ私たちの傷であることが多いのです。」
  • 彼女は、ある男性の話をします。その人は高収入の仕事と自分の会社を持っていました。ところが結婚生活も事業も失い、路上で暮らすようになり、やがて薬物に依存するようになりました。命を落としかけた過剰摂取のあと、彼はイエスに出会いました。今では、薬物依存に苦しむホームレスの人々のために人生をささげています。神は、彼のキャリアの絶頂ではなく、その打ち砕かれた経験を通して彼を用いられたのです。
  • サラは、信仰を持つ前に選んだ道を、長いあいだ恥ずかしく思っていたと打ち明けます。けれども、神が最も用いてくださったのは、まさにその部分でした。特に、教会の若者たちの前でそれを正直に分かち合うときにそうでした。

7. すべての国民へ、上からの力とともに

  • イエスの最後の言葉は明確です。悔い改めと罪の赦しが、イエスの名によってすべての国民に宣べ伝えられるのです(ルカによる福音書24章46-48節)。イエスについて語ることは、一部の教会だけに許された過激な考えではなく、イエスの最後の命令です。リバーサイド教会の使命はここから生まれています。人々がイエスを知り、弟子として成長するのを助けること。バーミンガムでも、その先でも。
  • 弟子たちにとって、この言葉は衝撃的なものでした。彼らは、イエスが「イスラエルを救ってくれる人」であることを望んでいたのであって(ルカによる福音書24章21節)、自分たちが解放されたいと思っていた異邦の国民のためではありませんでした。
  • イエスは彼らの心を開いて聖書を悟らせます。すべての国民がアブラハムによって祝福されること(創世記18章18節)、全地は神のものであること(出エジプト記19章5-6節)、すべての国民が来て神を礼拝すること(詩篇86篇9節)、そして主のしもべが諸国民の光となること(イザヤ書42章5-7節)です。
  • イエスは、知識人や宗教指導者ではなく、普通の人々、とくに多くの漁師たちとともに宣教を始められました。特別な人である必要はありません。イエスとともに経験したことを語れば十分です。
  • そしてイエスはこう付け加えます。「上から力を授けられるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカによる福音書24章49節)。すぐに行動に移すのが持ち味のサラは、主任牧師のティムに言われた言葉をユーモアを交えて紹介します。彼女は矢を放ってから狙いを定めるタイプだ、というのです。イエスはその反対を言われます。聖霊を待ちなさい。私たちの力でも、能力でも、説得力のある言葉でもありません。
  • 彼女は黙想の言葉でしめくくります。自分は調子が良すぎると感じていても、足りないと感じていても、走っていても、地面に倒れていても、答えを見つけていても、毎日新しい疑問が千も湧いていても、それはただイエスのことなのです。あなたの高ぶり、無気力、疑問、罪、疑い、怒り、疲れ、悲しみをそのまま持って来てください。それらはイエスを十字架に留めたものですが、イエスをそこに留めておくことはできませんでした。

要点

  • 旧約聖書の背景は復活に光を当てます。イエスは過越の小羊がほふられる時刻に亡くなりました。
  • あの土曜日のように、すべてが静まり返っているように見えても、イエスはあなたを見捨てておらず、働いておられます。
  • イエスは、私たちの予定ではなく、ご自身の予定で、私たちの日常の中に入ってこられます。
  • あなたの疑いや傷は、神が働かれる妨げにはなりません。神は私たちの能力よりも、弱さを用いられることが多いのです。
  • イエスを分かち合う使命はすべての国民に向けられており、それは私たちの努力ではなく、聖霊の力によって果たされます。

個人への問いかけ

  • 今、すべてが自分にかかっているかのように背負っている重荷は何ですか。
  • 神が不在に思える「土曜日」を過ごしていませんか。イエスがあなたを見捨てていないと知ることで、何が変わりますか。
  • 隠してしまうのではなく、今週、神のもとに持っていける疑問や疑いは何ですか。
  • あなたの歩みの中の、どの傷を神は用いて、だれかを励まされるでしょうか。
  • イエスがあなたの人生にしてくださったことを、自分の言葉ではなく聖霊に頼りながら、だれと分かち合えるでしょうか。

引用された聖句

よくある質問

イエスが亡くなった時刻はなぜ重要なのですか。

過越の祭りでは、小羊は「夕暮れの間」、すなわち午後3時から5時のあいだにほふられました。サラは、マタイ、マルコ、ルカがイエスの死を午後3時ごろと記していることに注目します。十字架の上では、最後の息を引き取る時刻を選ぶことはできません。イエスは、過越の小羊がほふられるその時刻に亡くなりました。それは決定的で最終的ないけにえでした。

疑いを抱えたままイエスに従うことはできますか。

できます。ルカ24章で、ペテロは「不思議に思いながら」墓を後にし、弟子たちは霊を見ているのだと思いました。イエスが復活すると語られるのを聞いていたにもかかわらずです。サラは、毎日疑問や疑いを抱いていて、それが神を求める力になっていると打ち明けます。すべての答えを持っている必要はありません。すべてはイエスにかかっているからです。

「上から力を授けられるまでは、都にとどまっていなさい」とはどういう意味ですか。

ルカ24章49節で、イエスは弟子たちにすべての国民へ赦しを告げ知らせる使命を託しますが、同時に、父が約束された聖霊を待つよう求められます。サラにとって、この待つことはプレッシャーを取り除いてくれます。この使命は、私たちの力や説得力のある言葉によってではなく、聖霊に満たされて果たされるのです。

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