はじめに
「イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に言われた、『子よ、あなたの罪はゆるされた』」。マルコ2章5節のこの言葉を中心に、沼津シオン・キリスト教会の荻野牧師は、2026年10月11日(日)の礼拝メッセージを語りました。
牧師は物語に入る前に、まず場面の背景を説明します。カペナウムという町を、自分が住む沼津にたとえながら語ります。歴史と地理が大好きなので、とユーモアを交えて断りを入れます。けれども、この寄り道は、戸口にまで押し寄せた群衆のことや、神がずっと前から御子の到来を備えておられたことを理解する助けになります。
そして、この箇所から三つのことを受け取ります。信仰は目に見えること、イエスには罪をゆるす権威があること、そして主は心と体を癒やしてくださること。そこから、とても具体的な招きが生まれます。いつでも、イエスの御名によって祈りましょう、という招きです。
メッセージの流れ
1. カペナウム、イエスが選ばれた交差点
- カペナウムはガリラヤ湖の北岸にあります。三年半の公の働きの間、イエスはここを拠点とし、ここからガリラヤやユダヤの町々、エルサレムやエリコへ出かけて行かれました。
- イエスは住民登録のためにベツレヘムで生まれましたが、ナザレで育ち、ヨセフの大工の仕事を継ぎました。三十歳のとき、村を離れてカペナウムに移り住まれます。牧師はこの移動を、近隣の町の人が沼津に引っ越して来て暮らし、働き始めることにたとえます。
- カペナウムは港町で、漁師たちの町でもありました。ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネです。今もペテロの家の跡が残っていて、現代の教会がその上に建てられています。その向かいには会堂の跡があり、黒い石の土台はイエスの時代のものと考えられています。これはヤイロが管理者の一人だった会堂で、イエスがのちにその娘を起こされます(マルコ5章21節以下)。
- 東海道の宿場であり交通の要所である沼津のように、カペナウムも交差点でしたが、規模ははるかに大きいものでした。北にはシリア、東にはペルシアとシルクロード、南にはエジプト、西にはギリシアとローマがありました。エルサレムから見れば小さな地方の町ですが、実際には国際都市であり、韓国や中国に向かって開かれた今の福岡のような町でした。
- ナザレやエルサレムで行われた奇跡なら、主に近所の人々の記憶に残ったでしょう。しかしカペナウムで行われた奇跡は、「最も力強い伝達手段」である口コミによって、ペルシア、ギリシア、ローマにまで広がっていきます。
2. あらゆる所から来た群衆
- 「多くの人が集まってきて、戸口のあたりまで、すきまのないほどになった」(2節)。牧師は、この群衆を想像してみるよう勧めます。肌の色も母語もさまざまで、商売のために通りかかった人々です。
- 「私がその立場なら、二、三日遅れてでもイエスの話を聞きに行きたい」と牧師は言い、そのあとで取引先の人たちに、カペナウムで見たことを話すだろうと語ります。
- 日曜学校の子どもだった頃、牧師には不思議に思っていたことがありました。ペテロやパウロが旅をしたように、なぜイエスご自身はローマやペルシア、インドまで行かれなかったのだろうか、ということです。聖書を読んで、その答えが分かりました。イエスはカペナウムに腰を据えることで、拠点を離れずに諸国民に触れられたのです。今日のオンライン礼拝が、別の町に住む人々を一つにするのとよく似ています。
- だからペンテコステの日、使徒行伝2章には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、メソポタミヤ、アジヤ、エジプト、リビヤに住む人々が挙げられています。牧師は、イエスの評判がすでにそこまで届いていたのだと考えています。
3. 神はバビロン捕囚の時からイエスの到来を備えておられた
- 聖書では、地名どうしさえもつながっています。イエスの誕生のとき、東方の博士たちが星に導かれて幼子を探しに来ました(マタイ2章1-2節)。
- ペルシアの賢者たちは、どうしてイエスだと分かったのでしょうか。牧師はバビロン捕囚にさかのぼります。罪のゆえに、イスラエルは七十年間その地で捕らわれの身となりました。その地がのちのペルシアになります。
- 神殿を奪われたユダヤ人には、会堂が必要になりました。「ダビデやヨシヤに、会堂に行ったことがありますかと尋ねたら、『それは何ですか』と答えるでしょう」。イエスの時代には会堂はどこにでもあり、ユダヤ人は今もヨーロッパやアメリカに会堂を建てています。
- 「神は、歴史の長い流れの中で、北でも南でも、東でも西でも、バビロン捕囚の時からすでに、イエスが地上に来られることを備えておられたのです。」
4. 第一のポイント:信仰は目に見える
- 中風とは、牧師が引用する辞典によれば、脳卒中などの後遺症で体が不自由になった状態を指します。二千年前、それは治る見込みのない病でした。
- 友人たちは、何としても彼を癒やしてもらいたいと願います。あとで家の持ち主に訴えられなかっただろうか、と牧師は笑いながら言います。イスラエルの屋根は土と石でできていて、はがすことはできます。「それでも、彼らは思い切ってやったのです」。
- この行動の背後には、単純な確信があります。「友だちをイエスのそばに連れて行けさえすれば、イエスが触れてくださりさえすれば、ひと言語りかけてくださりさえすれば、きっと癒やされる。」このまっすぐな信頼が、屋根に穴をあけるという形で目に見えるものになりました。そしてイエスは彼らの信仰を受け止められました。「イエスは彼らの信仰を見て」(5節)。
- 神は目に見えません。けれども、信じる人々の言葉、態度、行いを見るとき、そこに神がおられることを感じ取ることができます。牧師は、ある誠実で尊敬されたクリスチャンの話をします。その人は、教会が会堂の建設に乗り出そうとしていたときに、その教会に加わりました。土地だけでは担保として足りず、二千万円か三千万円の融資は受けられませんでした。そこで、最初から教会にいた二、三人の責任者、つまり二つの家族が、合意のうえで自分たちの家と土地を担保に差し出し、大きな献金もしました。その人は言いました。「その姿を見て、信仰が神の前にどう立つものかを教えられました。」
- その教会は今も続いています。どの教会もそうであるように、困難をくぐり、傷を負いながらも、誠実に歩み続けています。
5. 日々キリストの香りを放つ信仰
- 牧師は「お世辞でも、脅かすつもりでもなく」と前置きして語ります。同じことが一人ひとりに当てはまります。教会にいる人にも、オンラインで参加している人にも、あとで動画を見る人にも。
- 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい」(テサロニケ第一5章16-18節)を毎日実践したいと願って生きるとき、キリストの香りはすでにあなたの周り、あなたの町、あなたの国、そして世界に広がっています。
- パウロは、何をするにも神の栄光のためにしなさいと書いています(コリント第一10章31節)。そのために、肩に力を入れる必要はありません。
- 困っている兄弟姉妹や身近な人のために祈り、それから主が示されることを行いましょう。手紙を書く、食事を届ける、病院に付き添う。大きくても小さくても、その行いはすでにキリストの香りを放っています。これが、目に見える信仰です。
6. 第二のポイント:イエスには罪をゆるす権威がある
- この信仰を前にして、イエスは喜び、宣言されます。「子よ、あなたの罪はゆるされた。」律法学者たちは心の中で反発します。神おひとりのほかに、罪をゆるせる者はいない、と。
- 牧師がこの話を小学生に話すと、子どもたちはすぐに反応します。「じゃあ、屋根をこわしてもゆるされるんだ!」牧師は答えます。「そうだよ、イエスさまはゆるしてくださる。でも、家の持ち主は怒るかもしれないね。」それでも、ゆるしは本物です。
- 「イエスを信じるなら、私たちはゆるされ、癒やされます。」牧師は、ゆるしと魂のきよめを、遠いものではなく身近な現実として受け取るよう招きます。
- イエスが私たちをゆるしてくださるからこそ、私たちは人に「ごめんなさい、ゆるしてください」と素直に言うことができます。神の前でゆるされているという確かさが、人の前でも率直に心を開く力を与えてくれます。
- イエスは律法学者たちに答えられます。「しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることを、あなたがたに知らせよう」(10節)。そして中風の者は立ち上がり、床を取り上げて、みんなの前を出て行きました。
7. 第三のポイント:主は魂と体を癒やされる、だから祈ろう
- 「権威」と訳された言葉は、マルコ1章22節にも出てきます。イエスは「律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように」教えられました。そのみ言葉には、人間の言葉とは比べものにならない重みと力があります。
- マルコ1章27節にも出てきます。イエスが会堂で汚れた霊を追い出されたときです。「これは、いったい何事か。権威のある新しい教えではないか。けがれた霊にさえ命じられると、彼らは従うのだ。」悪に捕らえられていた人を正気に戻し、心と魂を癒やされました。
- マルコ2章10-12節では、この権威は体にも及びます。知性にも、心にも、魂にも、体にも、イエスは癒やし、救う権威をもっておられます。「この方を、私たちは今日信じているのです。」
- そして私たちは、イエスの御名によって父なる神に祈ることができます。「これは恵みであり、力であり、大きな祝福です。」だから、牧師はいつもこう言います。「祈らなければ損をしますよ。」家族のこと、仕事のこと、地域のこと、教会のことの思い煩いを、なぜ自分ひとりで抱え込むのでしょうか。ピリピ4章6-7節は、あなたの願いを神に申し上げるよう招いていて、神の平安があなたの心を守ってくださいます。
- 牧師は、今は主のみもとにいるある牧師の証しを紹介します。その人は桜ヶ丘自由メソジスト教会で奉仕した牧師です。学生のころ、友人に誘われて東京の教会の祈り会に行きましたが、メッセージの内容はすべて忘れてしまい、ただこの言葉だけが残りました。「クリスチャンであってもなくても、イエスの御名で祈るなら、主は聞いてくださる。ピリピ4章6節を覚えておきなさい。」台所でも、職場でも、学校でも、どこでも、彼は「ピリピ4章6節」と心の中で繰り返しました。やがて信仰に導かれ、献身の召しを受け、神学校に入ると、その校長があの祈り会の説教者だったことを知りました。
- マルコ1章22節、27節、2章12節で、イエスの権威のあとには、いつも人々の驚きが続きます。同じ生けるイエスが、あなたにもこの喜びを味わわせたいと願っておられます。「まず祈ってみてください。主があなたのために何をしてくださるかを見てください。」
心に留めたいこと
- 神は、バビロン捕囚の歴史やカペナウムの地理に至るまで、ずっと前からイエスの到来を備えておられました。
- 信仰は目に見えます。信じる人々の言葉、態度、そしてどんなに小さな行いにも表れます。
- イエスには地上で罪をゆるす権威があります。ゆるしを受けた私たちは、人にゆるしを求めることができます。
- イエスの権威は、知性にも、心にも、魂にも、体にも及びます。
- イエスの御名で祈ることは大きな恵みです。「祈らなければ損をします。」
私たちへの問いかけ
- あなたの周りに、祈りや具体的な行いによってイエスのもとへ連れて行く必要がある人はいますか。
- 今週、主はあなたにどんな小さな行い(手紙、食事、病院への付き添い)を示しておられますか。
- イエスのゆるしを、身近な現実として受け取っていますか。だれに「ごめんなさい」と素直に伝える必要がありますか。
- 家族や仕事、教会の思い煩いのうち、神にゆだねず自分ひとりで抱えているものは何ですか。
- あの若い学生のように、ピリピ4章6節を心に留めておくには、どうしたらよいでしょうか。
引用された聖書箇所
- マルコによる福音書2章1-12節
- マルコによる福音書1章21-27節
- マルコによる福音書5章21-43節
- 使徒行伝2章5-11節
- マタイによる福音書2章1-2節
- テサロニケ人への第一の手紙5章16-18節
- コリント人への第一の手紙10章31節
- ピリピ人への手紙4章6-7節
よくある質問
なぜイエスはカペナウムを働きの中心にされたのですか。
荻野牧師によれば、カペナウムは港町であり国際的な交差点で、シリア、シルクロードを通じてペルシア、エジプト、そしてギリシア・ローマ世界とつながっていました。そこで行われた奇跡や教えは、口コミで遠い国々にまで広がりました。イエスはローマまで旅をする必要はありませんでした。カペナウムにとどまることで、使徒行伝2章のペンテコステに集まった人々の一覧が示すように、その評判は諸国民に届いたのです。
マルコ2章5節の「イエスは彼らの信仰を見て」とはどういう意味ですか。
四人の男たちの信仰は、友人をイエスの前につり降ろすために屋根をはがしたときに、目に見えるものになりました。彼らは、友人をイエスのそばに連れて行きさえすれば癒やされると、ただ素直に信じていました。説教者はここから、信仰は目に見えるものだと語ります。信じる人々の言葉、態度、行いに、苦しむ人のためにするごく小さな行いにさえ、それは表れるのです。
なぜイエスは、癒やす前に中風の者の罪をゆるされたのですか。
イエスはまず宣言されます。「子よ、あなたの罪はゆるされた。」律法学者たちは、神おひとりのほかに罪をゆるせる者はいないと考えます。イエスは、「人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることを、あなたがたに知らせよう」(マルコ2章10節)と言って、中風の者を歩かせられます。体の癒やしは、魂に対するイエスの権威を証ししています。荻野牧師によれば、私たちはゆるされているからこそ、人にも「ごめんなさい」と言えるのです。