マルコ8章:主よ、わたしの心の目を開いてください

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はじめに

「わたしの目は何を見ているのか」。これは、教会の修養会から戻ったあと、デボラ牧師がÉglise Protestante Baptiste La Fraternitéで語ったメッセージのテーマです。牧師は最初にこう断ります。「これは新しいメッセージではありません。あなたがたはこれらの聖書箇所をご存じです」。けれども日々の慌ただしさの中で、人は習慣に流され、忘れ、もう到達したつもりになってしまいます。

読まれたのは三つの箇所です。ベツサイダの盲人のいやし(マルコ8:22-26)、シリヤの軍勢を前にしたエリシャの若者(列王紀下6:15-17)、そして目は体のあかりであるというイエスの言葉(マタイ6:22-23)です。五感のうち、牧師が取り上げるのは視覚だけです。体の目ではなく、霊の目、信仰の目で見ることです。

問いかけは、一人ひとりに向けられています。「あなた自身の目です。兄弟の目でも、姉妹の目でもなく、あなた自身の目です。何を見ていますか」。

メッセージの流れ

1. 五つの霊の感覚

  • 人には五つの感覚があります。視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚です。牧師は、霊にも五つの感覚があると説明します。霊の聴覚、霊の視覚、霊の味覚、霊の嗅覚、霊の触覚です。
  • 霊の嗅覚については、コリント人への第二の手紙2章15節を読んでもらいます。「わたしたちは、救われる者にとっても、滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりだからである。」
  • ほかの四つの感覚は、このあと語る牧師たちに任せます。「そうしないと、四か月も五か月もこの調子で教え続けることになりますから」と言って、視覚に絞ります。
  • 体の目では、多くのものが見えます。会堂にいる人々、サイレンを鳴らして通り過ぎる行列、水の中の魚。「でも、それは霊の目ではなく、体の目です」。

2. 健全な目:神のことを見分ける

  • マタイ6:22-23で、イエスはよく見えることは光に満たされることだと示しています。目が悪ければ、そこは暗闇です。牧師は、毎日目薬をさしている夫がよく見えなかったので、ある朝、自分がハンドルを握ったと話します。
  • しかしイエスが語っているのは器官のことではありません。「霊的なことをどのように受け止めるかを語っておられるのです」。神のことを取り違えれば、神が求めておられることと正反対のことをしてしまうおそれがあります。
  • 健全な目は、二心を捨てて主にささげられた生き方を表します。教会に来て説教をし、外に出たらまったく違う生き方をする、ということはできません。神の子として、神について見分けたとおりに歩むのか、それともこの世のものに従って歩むのかのどちらかです。
  • この目は、神に仕え、神に忠実であることにささげられています。「神が教会の中でどのように働かれるかを見るなら、あなたは自分の神に忠実になります」。
  • 神は稲妻とともに教会に来られるわけではありません。神の力、栄光、愛は、信仰の目で見分けるものです。自分の内で神がなさっていることを見る人は、「日曜日を待たずに」、賛美のグループを待たずに、神をほめたたえ始めます。

3. イエスは、ご自身のものをあなたの内に置かれる

  • 周りの人々が盲人をイエスのもとへ連れて来ます。主は群衆の真ん中にとどまらず、彼の手を取って村の外へ導き出し、雑踏から離れた場所へ連れて行かれます。
  • イエスは、ご自分のつばを盲人の目につけられます。「盲人は自分でいやすことができません。イエス・キリストの御手が必要です」。イエスはご自分のものを取って、あなたが見えるようにあなたの内に置かれるのです。
  • 主が私たちの内に置かれたものは、愛、親切、赦し、とりなし、もてなし、喜びと平安といった御霊の実です。さらに、賛美、伝道(「キリストのことを話していないと、落ち着かない人がいます」)、バルナバのような励ましといった務めも置かれました。
  • 「あなたがたは、キリストが受け入れたときから何も内に置いてくださらなかったかのように、教会に来ます」。キリストを受け入れた日に、主はすでにこの愛、この喜び、この平安を置いてくださいました。それは表に現れるはずです。教会に入るときは、自分から出たものを入口に置き、キリストがあなたの内に置かれたものを持って入りましょう。
  • だれも、他の人が自分の代わりに仕えてくれるのを待ってはなりません。牧師はとりなしの人々に呼びかけます。神がとりなしの心を与えてくださったのに、その人数は日ごとに減っています。

4. まだ、ぼやけて見えるとき

  • 最初に触れられたあと、盲人は答えます。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」。まだぼやけています。木は歩きません。彼にはまだ、それが人だと理解できなかったのです。
  • 私たちもぼやけて見えることがあります。「これをしなければならないのか。本当にとりなさなければならないのか」。多くの人は、自分の召命も務めもまだ理解していません。ぶつぶつ言いながら練習に来る人は、「まだ第一段階にいます」。
  • 主は愛であるゆえに、もう一度来てくださいます。もう一度、必要な分を加えてくださるのです。そして理解できたとき、それは表に現れます。とりなす喜び、賛美する喜びは、主がどこへ召しておられるかをつかんだしるしです。
  • ラザロは最初の一言で墓から出て来たのに、なぜ二度なのでしょうか。イエスにとって難しすぎたからではありません。弟子たちに、すぐにいやされる場合もあれば、少しずつ進む場合もあることを示したかったのです。「他の人の歩調に合わせてはいけません」。神は一歩ずつ進むことを望んでおられ、あなたの内にまだ熟していないものを見て、ときに歩みを止められます。
  • 盲人は、二度触れられる間、イエスのそばを離れませんでした。「私たちは、望んだものを受けていないからと、神のみ前を離れてしまうことがよくあります」。彼はとどまり、待ちました。
  • いやされたあと、彼はじっと見つめます。右も左も見ません。「中傷されても、ののしられても、あなたについて何を言われても、主を見たのは私です。イエスに出会ったのは私です。私は目を主に向け、主に定めたままでいます」。罪に戻る人は、洗われたのにまた泥の中を転げ回る雌豚のようです(ペテロの第二の手紙2:22)。
  • 兄弟姉妹の生活にも、教会の歩みにも、自分自身の人生にも、神の御手が見えてきます。ヨブのようにです。「わたしはあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし今はわたしの目であなたを拝見いたします」(ヨブ記42:5)。ヨブは神の偉大さと恵み深さを見ました。そして神は、失ったものを彼に返してくださいました。

5. 神の栄光を見るために、離れて身を置く

  • イエスが盲人を連れ出されたのは、群衆が気を散らせるからです。「主のために自分を取り分け、離れて身を置きなさい。そうすれば、あなたがたが求めている神の栄光を見ることができます」。主との交わりがなければ、主のために自分を取り分けることはできません。
  • 夫婦の間でも、それぞれにこの時間が必要です。「料理をする時間があり、祈る時間があります」。働く時間があり、神に仕える時間があります。「これは私の時間です。だれにも奪わせません。子どもたちにもです」。
  • イエスは言われます。「あなたは祈るとき、自分の部屋にはいり、戸をしめて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れたことを見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」(マタイ6:6)。コンサートや礼拝から帰っても、そのあと隠れた所に行かなければ、何も変わらないままでいることがあります。
  • モーセは神に近づいて願いました。「どうぞ、あなたの栄光をわたしに示してください」(出エジプト記33:18)。神は彼を岩のくぼみに入れ、御手でおおわれました。「隠れた所にいるときにこそ、神がどのように守ってくださるかを見ることができます」。あなたは神の御手のくぼみの中にいますか。それとも、すべてが列車のように目の前を通り過ぎていきますか。
  • 牧師の霊の娘の一人が、エリヤのように神の栄光を体験できるのかと尋ねました。牧師の答えは、できます、ただし「神とのこの親しい交わりがあるなら」でした。
  • 「私はあなたがたを目覚めさせるために来ました」。2020年以来、交わりは以前と同じではなくなりました。主は、初めの愛に立ち返ることを求めておられます(黙示録2:4)。清い心で徹夜の祈りに集まった、あのころの愛です。

6. だれもあなたの代わりに見ることはできない

  • エリシャの若者は、エリシャのそばにいました。けれども、火の馬と火の戦車は見えませんでした。シリヤの軍勢の前で震えていました。一方エリシャは、神との交わりの中に生きていたので、神の力を見ていました。
  • 「聖歌隊員だから見えるのではありません。牧師だから見えるのではありません。伝道者だから見えるのではありません」。音響や映像の奉仕をしているからでもありません。教会でいっしょにいても、交わりが欠けていれば、そこで神がなさっていることが見えないことがあります。
  • 牧師は、前日に多額の支払いを求める書留が届いたと話します。み言葉を語る前日に心を乱されることを拒み、こう言いました。「私の神は偉大です。私の神がこの中から救い出してくださいます」。これが、イエスに目を定めたままでいるということです。
  • 十分の一献金について「神が私の請求書を払ってくださるのだろうか」と尋ねる人に、牧師は、それは体の目で見ているのだと答えます。種もまかず、刈り入れもしない空の鳥を養っておられる方が、あなたを顧みてくださいます(マタイ6:26)。「結婚のことでも、神を待ち望みなさい。いやしのことでも、神を待ち望みなさい」。
  • エリシャは祈りました。「主よ、どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください」。エリシャは、若者の代わりに見ることはできませんでした。「あなたのお父さんでも、お母さんでもありません。兄弟でも、姉妹でも、配偶者でもありません。あなたの代わりに見てくれる人はいないのです」。牧師自身の夫も牧師ですが、牧師の代わりに見てくれるわけではないと語ります。
  • 周りの人々は盲人をイエスのもとへ導き、そのあと、聖書は彼らについて語りません。家族があなたを教会に連れて来てくれることは、悪いことではありません。しかし「だれも、あなたの代わりに神との関係を築くことはできません」。

7. 目が見えるようになるために

  • 見捨てられたと感じても、主のもとへ行く。「主はいつも、つばをもって立っておられます」。あなたのために備えておられる尊いものとともに。
  • 主のみ手を求める。イエスは羊のためにいのちを捨てる良い羊飼いです(ヨハネ10:11)。「私の手を取ってください。私は弱いのです。あなたにお会いしたいのです」。
  • 群衆と気を散らすものから離れる。インスタグラムからネットフリックス、ユーチューブへと渡り歩くと、この時間が奪われます。牧師は、電話の電源を切り、いっしょに寝ないよう勧めます。「それはあなたにいのちをもたらしません」。
  • エリシャの若者のように、恐れから、そして霊的な盲目から解放される。
  • 枝がぶどうの木につながっているように(ヨハネ15:5)、毎日神のみ前にとどまる。
  • 「目のための目薬」を備える。それは神のみ言葉と、神との交わりです。み言葉を聞き、思い巡らし、実行し、赦しを選び、誘惑に抵抗することで、毎日神との関係を築きます。
  • キリストの召しは、私たちを「見る者」にすることです。主がどのように罪から解放し、病人をいやし、傷ついた心を回復されるかを見るのです。「あなたの目で世界を見たいのです」。

心に留めたいこと

  • イエスが語る目とは、信仰の目です。二心を持たず、忠実に、神のことをどう見分けるかということです。
  • キリストはすでに、ご自身のものをあなたの内に置かれました。キリストの愛、喜び、平安、そして仕えるための賜物です。それは表に現れるはずです。
  • いやしには、少しずつ進むものがあります。まだぼやけて見えるときも、イエスのみ前にとどまりましょう。
  • 神の栄光は、群衆や気を散らすものから離れた、隠れた所で見えてきます。
  • だれもあなたの代わりに見ることも、あなたの代わりに神との関係を築くこともできません。

自分への適用

  1. 今日、あなたの目は何を見ていますか。人や状況だけでしょうか。それとも、あなたの人生における神の御手も見ていますか。
  2. キリストがあなたの内に置かれたのに、「しまい込んだまま」にしているものは何ですか。
  3. どの分野で、まだぼやけて見えていますか。召命、奉仕、なかなか答えられない祈りでしょうか。待つ間、主のみ前にとどまっていますか。
  4. 今週、電話を切って主と二人きりになる時間を、いつ確保できますか。
  5. あなたの代わりに見てもらうことを、配偶者、両親、牧師に期待していませんか。

引用された聖句

よくある質問

なぜイエスはベツサイダの盲人に二度触れられたのですか。

牧師によれば、奇跡が難しかったからではありません。イエスはラザロを一言でよみがえらせました。弟子たちに、すぐにいやされる場合もあれば、少しずつ進む場合もあることを示したかったのです。神があなたの内に置かれたものは、他の人の歩調に合わせることなく、少しずつ、一歩ずつ育っていきます。

マタイ6:22-23の「健全な目」とは何を意味しますか。

イエスが語っているのは器官のことではなく、霊的なことをどのように受け止めるかということです。健全な目は、二心を持たず、神に仕え、神に忠実であることにささげられた、主に献身した生き方を表します。それは信仰の目であり、自分の人生にも、兄弟姉妹の生活にも、教会にも、神の御手を見る目です。

日々の生活で、信仰の目を開くにはどうすればよいですか。

牧師は五つの目安を挙げます。主のもとへ行くこと、主のみ手を求めること、群衆と気を散らすものから離れること、エリシャの若者のように恐れから解放されること、そして毎日神のみ前にとどまることです。目の「目薬」とは、神のみ言葉と神との交わりであり、それは隠れた所にあります。

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